07/19時点
「王妹殿下の逃避行」を、一気読みしたい方のためのまとめ投稿。今後も文字制限数に達したらまとめを逐一作っていきたいと思ってます。中身は同じなので、各々にあった読むスタイルで読んでほしいと思います。
暗闇に沈む囚人の塔。桃花の塔と呼ばれるその塔は、貴人、もしくは政治犯など、表に出さぬまま処理される類の、いわゆる政治的敗残者が入れられる塔である。その祖の古きを誇る大国、タリス・ヒエルギス王国のそれは小国の王城にも比肩する巨大な威容を誇る。
外装は隣の国で取れる高級な薔薇色の輝石をはめ込んだ美しいモザイクで彩られている。有名な建築家の手によって、塔という無骨な建物のはずなのに優美で洗練された外観を呈する美しい塔である。正式には特別審議塔という名があるのに誰もその名では呼ばす、薄桃色のマーブル模様のイメージが強いため、そちらを重視した桃花の塔という通り名の方が有名になってしまった。それこそ実用の用途とはかけ離れた美しい通り名で。
しかしいったん内部に入るや、きっちり隙間なく計算されてはめ込まれた石組みは光一筋すら通さず。そして外観に湯水のように使われている美しい石は内部には一枚も使われていない。ほぼ闇に閉ざされる内部ではそれにふさわしい暗色の、しかしながら硬度の高い素材が使われている。陰鬱なグレーの石組み、そして鈍色の鉄格子。きしむ金属音と石とがぶつかり合う耳障りな音。どこからか聞こえてくる水のしずくが落ちる音。かさこそと、心の中のやわらかいところを引っかいていくようなかすかな物音。そして無論、鉄の処女を初めとした数々の拷問具が壁を彩り囚人の希望を打ち砕く。
そんな実用本位な塔であるからして、やはり実用としてもっぱら使われる。
いま、この塔の地下一階の独房に、あちこち包帯を巻かれて瀕死の状態の女が入れられていた。元は美しかったであろうと思われるかんばせは、かろうじて呼吸ができる程度にぐるぐる包帯が巻かれている。その包帯にはかなりの広範囲に血のにじみがあり、見え隠れするわずかな肌も無残に焼け爛れていた。
その独房の控えとして使われている大きな部屋に、苦虫を噛み潰したような表情で宙をにらむ男がひとり。
そして我関せずと、いくつもの報告書をテーブルに広げて確認作業に没頭している男がひとり。
十人用の部屋といっても遜色のない広々とした部屋に二人の男が無言で居座っている。
空気が尋常ではなく重い。
「シア、報告はそれで全部か」
シアと呼ばれた男は手元の書類をざっと分類して紙ばさみでとめる。
シアというのは通常女名だ。無論それが彼の本名ではない。
彼の名はイルシアミンスルという。古い家系の長子であるがゆえ、名にも歴史と伝統を追いきれるだけ背負った結果こうなったともいう。さすがに長いのできっちり彼の本名を呼ぶものはあまりいないが、だがしかし、長身で精悍なこの男をシアなどと呼ぶのは彼の幼馴染でもあるこの男くらいなものだ。
その彼の名はメルトーヤ、通り名はメル。本名も通り名も女性的だが、彼の場合はそう小柄なわけでもないのにどことなく中性的な雰囲気があるのでそこまで違和感は感じさせない。
名前の異国的な響きは彼がギーヴリア辺境伯であることに由来する。古来ギーヴリアは異教の香り漂う呪術士たちの国、メヒスアルワの支配を強く受ける土地である。本来メヒスアルワの植民地であったその地は今上陛下の代でだまし討ち同然に奪われ、新興の貴族が領主としてあてがわれた。それが運悪く、もしくは運よくメルトーヤの生家であるエルヴェ家であったがために、地方の豪族程度のエルヴェ家は中央でも通用する伯家となった。メルの父が教育のために彼を中央に出さなければイルシアのような大貴族とは本来かかわりあうことはなかったはずである。
さて、この偶然が彼らにとって幸いであるのか災いであるのか…。
いずれにせよこの二人が暗躍することによって一国が未曽有の危機に瀕したことは事実である。あるいは未曽有の幸運。
彼らがなしたのは現行政権の完全掌握。早い話が王を筆頭に国中の権力者を無力化して制圧したということ。内乱、反乱、クーデター…つまるところ大逆に他ならない。
ひとまず王権奪取まであと一歩の今、同時並行して大量の王族をどのような処遇にするか決めあぐねてもいた。
ひとまず処理しやすいようにひとところにまとめてはみたが…。
「これといった朗報はないぞ。…期待しているならな」
イルシアの淡々とした報国に、メルはその表情をさらに苦くして嘆息する。
そんなメルの心中など斟酌せずに、さらに淡々とイルシアは現状報告を続ける。
「例の女は王妹の部屋にいて、王妹の衣装を着ていた。報告によれば捕縛に赴いた屈強な兵が侍女の決死の抵抗にあって苦戦。王妹は何者かに顔も喉も手もつぶされていて、自刃しようとしていたところをこちらの兵士が何とか阻止し、保護…か。なんとも胡散臭い話だね。女の手にはめられていた指輪は確かに本物ではあったが…」
「限りなくグレーに近い黒だよな。王妹殿下を傷つけた謎の手勢は行方不明となれば…察するにあまりある。やだなー、ああもう一番面倒なパターンきたね。もうおのずと可能性は絞られるよ」
ふたりは顔を見合わせて、互いの出した結論が自らのものと相違ないことを確信する。
「やっぱり替え玉?」
「…まあ、だろうな」
どちらからともなく沈黙が落ちる。本来このような不手際などあってはならぬはず。彼らは衝動からではなく、きわめて長きにわたる準備とよく寝られた計画と、それを実行に移すことが可能なだけの優秀な人材の雇用等、これ以上はないだろうと思われる万全の態勢で行動を起こしたのだ。
「だが確たる証拠がどこにもないとあっては、ひとまず保留とすべきだろう。こうなると…。王妹の件を保留とした上で、見逃した王族がいないか各地をしらみつぶしに探す必要が出てくるな。仮にここにいる王妹が替え玉で、本物が逃亡中ならその捜査のどこかで見つかるだろう。おおっぴらに王妹がいないことを明らかにすると不都合なことはたくさんある。表向き、王妹はここにいることにして、別件での捜査を平行して進めるのが望ましい。この手の不手際はおれたちの信用問題に響く」
「よりによって王妹を捕らえそこなうとか…ないわー。王妹くらい身分が高い貴人なら下位の王族の住まいや別邸を接収することも簡単だろうし、そうなると調査範囲は馬鹿みたいに広がると…」
メルはイルシアが束ねた書類を嫌そうに見やる。その書類は現在の王族の住まい、別邸などのリストである。ここ、タリス・ヒエルギス王国は大陸の広範な版図のほぼ半分を占める大国である。王族の数も改めて数えてみようとは思えないほど膨大な数に上る。貴族の八割程度がなんらかの形で王家と縁戚を結んでいるので、網羅しようと思えばほぼすべての貴族を洗い出さなければならない。当然イルシアの手にするリストもハンパではなく分厚いものとなる。
「おれの手勢はそういうの向いてないんだよな~」
メルは鬱陶しげに黒髪をざっくりとかきあげながら困ったような表情をする。額をあらわにすると余計その中性的な容姿が強調される。
「古語で辺境の三日坊主って意味の情けない部隊名つけられちゃったし…」
「初耳だ、なんて?」
「トリス・イピ・アイギュステス」
「まあ…宮廷学者並みの知識がなければ意味はわからないし、古式ゆかしい響きでもある。本当の意味伏せれば隊の名前として別にそこまで気にする必要はないんじゃないか?」
「問題はどっちかというとホントに全員そろってドンピシャ三日坊主なトコかも。同じ業務を三日続けて継続できないっぽい」
「…そんな手勢でおまえ今までどうやってここまできた!?」
さすがのイルシアも思わず問いただした。
「えーっと、こんな感じで目標だいたいここらへん…って最初に伝えるだけ。あとはおのおのの才覚に任せてる」
「よく空中分解しないな、そんなんで…」
「それが意外と連携とれてたりするから不思議~」
「おれはそれを不思議~ですませるお前の脳内が不思議でたまらん」
「気にしない方がおれらの場合うまく行くのよ~。それに当初の目的は果たせてるよね。王都にいない王族を最初はこっそりひっそり、そして中盤からは怒涛のように確保していって、ラストダンジョンのこの王宮で残りの王族コンプリート。こんな風になったらいいなが現実になったんだもん。これが実力ってやつ?」
「それを実力と認めてしまったら実力という言葉自体に非常に申し訳ない気持ちになるな」
「え…ならまあ、幸運でも偶然でも別になんでもいいや、とにかく当初の予定はほぼ完遂しつつあったじゃない。…そりゃ肝心の王宮内での制圧にこんな凡ミスやらかしたのはちょっとばかしの油断があったといえなくもないけどさあ」
「確かにほとんど抵抗らしいものはなかったからそこに油断は…なかったとはいいきれないな」
メルのぼやきにイルシアも王宮攻略のときを思い出して渋い顔になる。
数えるのも馬鹿らしくなるくらい大量の王族を、水をも漏らさぬ包囲網で完璧に捕まえつくした…と思えた矢先なだけにふたりのため息も重い。
「なんでこんなことになった!?」
「知るか…。少なくともメヒスアルワの最新式魔術無効化装置を使って、あのとき確実に王宮内の魔術は無効化されたはずだ」
「だよな~、あれ完璧に作動してたよな~。魔法が使えなければ王族などそこらの下町の餓鬼より無能だろ?とうていひとりで逃げ切れるとは思えない。外部の捜索もいいけど、もう一度この王宮を見直してみる必要もあるんじゃない?一応王宮に乗り込む前に王宮内の王族は確認したはずだしその前情報は間違ってないはず」
「はず…か。まあ否定はしないが…」
王宮の攻略をメルとともに現場で指揮したイルシアの口調は歯切れが悪い。
「はず…はず、おれらの能力的に「はず」は「事実」とほぼ同義なんだけどな」
諜報を担当したメルは自前の情報網の確実さをおのれのこととして知っている。
「そうだな、確かにほとんどの王族はおれたちの予測どおりに捕らえられたし、それは下調べが徹底していたおかげだという面もあるだろうな。その点は否定しない。だが、替え玉を用意していたことといい、王妹殿下…あ、いや元がつくわけだが、元殿下はひょっとしたらおれたちのたくらみを事前に察知していたのではないか?」
「おいおい、まさか。漏洩なんかけっしてありえないって断言できるぜ。情報の扱いには細心の注意を払ったし、そもそも不確定な人物を計画にかかわらせてねえよ。それに比べて王族側は平和な体制にダルダルでだれきっていて、とてもじゃないがおれの策を看破できるレベルの諜報組織を作れたはずがねえ」
「ゼロかもしれない可能性の芽を否定するのは果たして賢明か?」
イルシアは懐疑的な目をしてメルを見据えた。
「めんどーだなー」
「それにな、書類を見ていて思ったんだが…」
「なに?」
「王妹の個人的な情報があまり充実していないんだ」
「ああ、なんかそこは確かに情報薄いなって思ってた。けどまあ王族の未婚女子かっこアラサーとか、あんま誰も気に留めないっていうか、情報なくてもああね~って感じだしさ…」
「だからといって、王妹の個人的情報が皆無のままではお前の嫌う人海戦術でローラー作戦は必至だぞ?できる限り手がかりは集めておいたほうが長い目で見れば早く確実な方法だと思う。まったくの手探りではどうしようもない」
「うー、あー…。ま、王妹を女の足と侮って近辺捜索し尽くしたあとで、実は王妹レンジャースキル持ってて山中潜伏とか超余裕…とかだったらヤだな、確かに」
「うん、そこまで奇想天外な可能性ないだろうが、こちらで見落としたことはなにかあるかもしれない。…ではこうしよう。各地の探索ならびに王宮の再調査はおれの手勢でやる。お前は王妹の個人的な情報を調べ上げろ。情報は逐一現場に渡せ。現状われわれは平均的な王族の捜索という基準で動いているが、殿下のことを調べればおのずと行動も読めてくるはずだ。そうした方が捜索の効率は確実に上がるだろう?」
イルシアは自分でまとめたリストを再び取り上げて立ち上がる。
明らかにイルシアの負担が大きい。
「あー、王宮内の調査はおれが平行してやるわー。どーせ王妹の情報も城の秘密の抜け穴情報もおんなじヤツが握ってるはず」
「ふむ、確かにメル向きの分野だな。では遠慮なく頼む」
イルシアは最初からそのつもりだったかのように平然と部屋を出て行った。
残されたメルはしばし机に伏せ、気の進まない仕事を自ら引き受けたことを微妙に後悔した。
そのころ、話題のひと、王妹殿下は…。
非常に困った状態になりつつあった。
日の差さない暗い地下、今にも崩れ落ちそうな石組み、交差し複雑に入り組んだ迷路。長いこと歩き続けたせいで足はこわばり、疲労のため意識は朦朧とし、すでに来た道もわからず歩む方角すら定かではない。
端的にいえば地下迷宮で迷子になっていた。
(出口はどこかしら…)
重い足をひきずって、それが正しい道かどうかもわからないまま惰性で歩き続ける。疲労、空腹、のどの渇き、そしてなにより自分がどこにいるのかわからない不安感、このまま同じところをぐるぐる巡り歩いていつしかはかなくなるのではないかというそこはかとない恐怖。
(そもそも出口の定義すらわたしの中で確定してないのにね。たとえ地上に出たとして、見渡す限り人家のひとつもない荒野に出てしまったら今度は地下ではなく地上をさまようことになるだけだし)
暗闇の中、手探りでざらつく石の手触りを頼りに歩き続け、時間の感覚はとうに失せ、王妹は途方にくれていた。
ことのおこりは、日課の城内隠し通路の巡回途中でえらいものを見てしまったことに端を発する。
王妹という立場は、衣食住満ちたり、王そのひとをおいてほかに頭を下げるべき人はおらず、大勢の侍女にかしづかれて何不自由なく生きている…。と思われている。実際その通りだが、実のところ過不足のない生活は変化のない生活と同義である。
王妹はことに、その特殊な生まれから王族としての職務はなく、表舞台に出ることはまったくない。それゆえ年頃を過ぎても社交界に出ることもなければ政略結婚の道具にされることもなく、果たして幸せなのか不幸せなのか割と微妙な雰囲気の中で育ってきた。
繰り返される日常、今日も、明日も、あさってもまた、ずっと昨日の繰り返し。変化といえば四季くらいのもの。そんな生活になんともいえぬ閉塞感を感じた王妹は、いつからか身代わりの侍女を仕立てて侍女のお仕着せを着て城内を忍び歩くようになっていた。
長い年月を経て、王妹はあるとき城内の隠し通路を見つけ、それから注意して城中をくまなく探りつくした結果、多くの抜け道や隠し部屋があることを知った。中には紐を引くと床が抜けて、地下の汚水溜めに直通してしまうようなあからさまな目的を持った仕掛けもあり、また各国のそして国内の密偵が通常業務のため使用するある意味彼らの仕事場とも言える小部屋もあった。また、四方に配置されている塔にひそかに出入りできる通路、城下の、いわゆる男性のとある目的に特化した施設へ直行する通路、下町の空き家に出る通路、貴族街のさまざまな屋敷に出る通路、あらゆる目的のためにさまざまな通路が作られていることも王妹は知ることとなった。
そして今日、王妹は見た。
王の執務室を覗くことができる小部屋。それはさまざまな勢力が利用するので小さな部屋がずらりと連なり、そこでは敵対国家の密偵同士が鉢合わせしても礼儀正しく譲り合ってときにはともに部屋を使用するという暗黙の了解ができている…そんな知りたくもない政治の裏面を見ることのできる部屋である。
そのうちのひとつを王妹は自分用にカスタマイズして、お気に入りの椅子とテーブルをえっちらおっちら運び込み、居心地良く王の仕事を盗み見ることができるようにしつらえていた。なぜか密偵たちも、そこは彼女の特等席であるということを素直に受け入れて、決して無断で入り込んだりはしないようになっていた。
なので今日の兄上さまはご機嫌いかが?と執務室を覗き込んだ王妹は、予想もしていなかったものを見て仰天した。
執務机の王を取り囲む黒衣の武装した男たち。
「何者であるか!」
当然誰何する王。
対するは無言の兇徒。
そこへ身分卑しからざるきらびやかないでたちの貴族が悠然と入ってくる。
「命が惜しければおとなしくわれわれに従うんだな」
芝居か!と思うくらいわかりやすい悪役の台詞。
王妹は迷った。
覗き穴の近くは壁も薄く、蹴破ればそのまま室内に入ることも可能だろう。だが丸腰の女ひとりその場に闖入したところで状況になにか変化があるとも思えない。それ以前に天井を高く採ってある執務室の、さらにけっこう上らへんに位置するこの隠し部屋から執務室に飛びこんだら、それはかなりの高確率で骨折の予感がした。なし、いまのなしで。乱入とかはしない方向で…。
ではどうする?ひそかにここを脱して近衛なり衛兵なりそこそこ剣を使える人物に助けを求めるか。
そこで王妹は首をひねった。
そもそもこんな状況を許すとは、王の警護にある衛兵はいったい何をしているのか。
それは続いて室内に入ってきた新手がわかりやすく教えてくれた。
彼らは血まみれで、そして抜き身の剣をざっしゅざっしゅとぶんまわして血のりを振り落とし、そうして貴族らしい男にこう告げた。
「とりあえず職務に忠実なヤツから順に制圧しました」
その制圧という言葉の意味は聞かずともわかった。
流された血の量が決して少なくないことは、血振りを行う兵士の返り血が雄弁に物語っている。
だがその時点で王妹は楽観していた。
なぜなら…。
「愚弄する気か?そのような軽装で余にいどむとは片腹痛いわ。そなたら、まさか王族の持つ力を知らぬわけでもあるまい…」
王は碧玉の輝石をはめ込んだ指輪が光る右手を上げて…。
これは王が魔術を使うときの初動だ。
しばし間があった。
本来ならば指輪の輝石を中心に、まばゆい光と轟音が室内に満ちるはずだった。それとともに室内の敵を皆殺しにするだろうと思われる王の魔術は…。
「あれ?」
なぜか発動しなかった。
「ええ、無論。あなた方の切り札、問答無用の魔術。知らないわけないでしょーか、きょーび王族と魔術のかかわりは下町の洟垂れ小僧っ子でも知ってますって。そして知ってたら対策するのは当たり前でしょー?」
貴族の男の手には謎めいた金属の塊があった。それが何かはわからなかったが、王妹はその謎の金属塊の造詣にこの国のものではない独自の技術が使われているように思えた。そしてなぜか直感的に、それが王の魔術の発現を阻害したのだと感じられた。
そしてその望まざる直感を裏打ちする貴族の言葉。
「これ、ね。こんな小さくても王族の持つ魔術を無効化する装置なんです。これと同じものを王宮の要所に設置しましたので王宮内ではもう魔術を使うことはできないはずですよ」
「な…なんと!」
魔術を封じられた王は反射的にその謎の装置に手を伸ばした。ありったけの魔力を注ぎ込んで装置を破壊しようとしたのかその真意はわからないまま。
「こっちは剣持ってるって忘れてないですか?」
あっさり黒衣の男たちに組み敷かれ、剣を突きつけられて言葉を失う。
「剣って…こんなに危険だったんだ」
そんな間抜けな台詞とともに気落ちした王は、なすすべもなく黒衣の男たちに引きずられていずこかへと連れ去られた。
残った貴族は新たに部屋に入ってきた手勢に手際よく命令していく。
「とりあえず王族片っ端から塔に突っ込んで、王族かどうかわからなかったらとりあえず突っ込む方向で。有力貴族はすでに懐柔済みだからあまり怖い目にあわせないで、丁重にお帰りいただいて」
男の言葉を聴き終えて、王妹は自らも彼らのターゲットのうちのひとりなのだと…逃げる以外助かるすべがないと悟った。
あとは…。
(敵対勢力に気づかれないよう、そっとこの場を離れて、なるべく誰も知らないような一番使われていないような隠し通路を通ってとりあえず城外に逃げるの前提。できれば城下からも遠く離れたところまで、彼らの手の届かないところまで逃げなければ…。逃げたところで国内にいる味方はなんか確保済みっぽいし、国内にいてはおそらくいずれ捜索網にかかることは必然だわね。万全を期すなら国外に、それも独力で…しかないか。身分を隠したまま国外に…いけたらいいな。っていうか初めての国外が亡命とか…ないわ~)
ややもすれば王妹の思考は散漫になり、どちらかといえばやや現実逃避気味なものとなる。
だが室内にはまだ何人か武装した男たちがいる。彼らは気配に敏感そうだ。
なるべく音を立てないように…。
覗き窓はさきほどどさくさにまぎれてこっそりと閉めた。小部屋から通路に出る扉も同時にあけておいた。壁の上部に設けられた通風口を利用した覗き窓は意外と死角になるので、よっぽど馬鹿なことをしでかさない限りは見つからないはずだ。
あとじさろうとして不意に自分の足が硬い床を踏みしめている感じがしないことに気がついた。まるで真綿の上を歩いているような浮遊感。
あ…。
気づけば椅子のクッションが目の高さにあった。
(これって…ひょっとして腰抜かした?)
腰を抜かした経験などない王妹は狼狽した。
(う、動けない。逃げられない?このままじゃ、いつかあの血だらけの兵士たちに見つかる!?)
言い知れぬ恐怖と非日常感。
(動け!)
いうことを聞かない体に何度も何度も脳内で命令する。
(動け!)
念じるたびにぐるりと視界がゆがみ、目の前が真っ暗になったかと思えば真っ白になり、なにやら変な音が聞こえるかと思えばそれは自分の呼吸音であったり。
(なんか息苦しい…でもさっきからうるさいくらい呼吸音が聞こえる…なぜ?もしかして、この部屋に毒ガスが…?)
まあ正確にはそれは過呼吸と呼ばれるものであるわけだが。
王妹は見事にパニックを起こして、複雑に入り組んだ隠し通路をひたすら暗いほうに、ひたすら低いほうに、逃亡本能に突き動かされてこの場から離れることだけ考えて逃げた。抜けた腰の代わりに恐怖が王妹を動かしていた。
結果、迷った。
桃色の輝石の塔にとらわれた王族たち。
彼らは最初のうちこそとらわれの身であることに憤り、脳の血管が危うく切れそうになるほど力んで魔術を出そうと試みたり暴れてみたりと、気力のあるうちはさまざまな醜態を見せていたが、空腹にはあっさりと根を上げた。
彼らのほとんどは飢えた経験などない。
初めて感じる空腹感に、最初は戸惑い、次第に無気力になっていった。
老若男女の隔てなく、一様にうつろな目をしてひたすらうちもだす。そんなどこかシュールな光景に、メルトーヤは思いっきり顔をしかめて不愉快だと意思表示して見せた。そんな意思表示をして見せたところで彼のノルマは変わらないわけだが。
「なんでこんなとこにこんなたくさん野生の幽鬼の群れ…」
メルトーヤのつぶやきを副官のロキスタは野鳥のさえずりのように聞き流して手にしていた書類を丸めて上官であるメルの胸をたしたしっと無造作に叩いた。
「なんか寝言言ってる暇とかあればとっととやることやってください。なお、彼らは野生ではなくある程度飼いならされた幽鬼かと推察いたします。飼い主はおそらく…民?」
「あー、確かに食わしてるのは民だよなー」
「むやみやたらと餌与えるからこんなに増えるんですよ」
この時代、女性の士官は少なくない。メルの在所である辺境ではいまだに女性の士官は少ないが、それはギーヴリアという微妙な土地柄、ある意味無理もないないことであった。つい数年前までは女性=魔女という女王の治める魔術大国メヒスアルワの支配下にあったギーヴリアではいまだに庶民の中で女性に対する畏怖の感情が消えない。
ロキスタ・ロクシタンはそんな中で領主の副官にまで上り詰めた稀有な人物である。ロクシタン家といえば代々呪術師を輩出する家系としてギーヴリアにおいてはそれなりの地位にあった。その家名を名にも与えられたロキスタは立ち位置的にはある意味落下傘伯爵であるメルトーヤよりも上である。
有能な副官なのだが言動がやや、というかかなりキツいのはそういう微妙な事情が背景にある。ついでにいうと、彼女は上官を敬うということすら一切しない。どころかどちらかというと冷ややかな目つきで、具体的に言うと道端でいまにも息絶えんとする醜悪な外見の虫を見るような目つきで上官と相対する。それは上官として認められていない疑惑というかそもそもおそらく対等な人として認められていない、いやもう前提として人として見られていない疑惑が強い。
「いや、あの、ねえロッキー。そりゃさ、世の中は広くてさ、中には軍服を着たきつい顔立ちの美女に虫けらのごとく蔑まれて快感を得るタイプの人間がいないとも限らないというもっぱらのうわさだけれどもね…」
「それうわさじゃありません。その手の変態ならこれまでの人生で三回ほど遭遇しました」
「あ、そう。うん、そうなんだ~、へ~」
「あとロッキーと呼ぶのはやめてください。閣下はそもそもの言動からして大変軽い。四文字熟語で言い表すなら軽佻浮薄。とうてい尊敬を持ってお仕えするにたる人物であるとはいえません。できればイルシア様の威厳と風格をわずかなりともおすそ分けしていただいたら少しはましになるかと愚考いたします」
「…いや、シアの場合あれはただ人見知りでめんどくさがりなだけで」
「ならそれでいいんで閣下は今後、しゃべるときは常に一単語以内でお願いします」
「どう考えてもそれ意思疎通に非常な不都合が発生しそうなんだけど」
「ご心配ご無用かと愚考いたします」
「暗におれいてもいなくてもいいって言われてない!?」
取り付く島もない…といった態度だが、彼女の態度も故あってのことである。ロキスタは副官であるからして今後の計画の概要などにも参画している。その上で、このメルトーヤという人物のイメージをカリスマ王者並みに仕立てる計画を実行中なのである。現国王が正式に廃され、新しい体制を作り上げるにあたって、その指導者とならざるを得ないこの残念な女顔のヘタレにはなんとしてもそれなりの威厳を身につけてもらわなければならない…。
とはいえメルの生まれ持った性格が一朝一夕に変わるはずもなく、副官の仕事は今後も増えこそすれ減ることは決してないことは確かである。
「あー、ほんじゃまー。あんま気乗りはしないけどとりあえず尋問始めちゃお。さすがにおれも尋問してるときはそんなにチャラチャラしないだろうし」
「ふ…どうだか…と愚考いたします。が、仕事を全うしようという意欲は多少は買わせていただきます」
この一連の上官と副官のコントにも、無気力の塊になってしまった王族たちはなんの反応も示さなかった。飢えとはかくも人間の思考能力・判断能力を奪うものであると彼らは身をもって学んだ。
だが、たかが一食抜いたくらいでゾンビになってしまう王族という生き物の軟弱さに、幼少期結構貧民な暮らしをしていたメルがある種の憤りに近い感情を刺激されたのも無理からぬことであった。
「そいやさー、こいつら収容するとき、あんまりどれが誰とかいうのは重視しなくて、そもそも王族の選別からして、どこのなんていう王族かわかんなくてもとりあえず魔術の媒介である指輪をつけてるヤツ片っ端から牢に放り込めーみたいなノリでここまできちゃったわけだけど…。ねえロッキー、君が手にしてるその書類ってもしかしてどこの牢に誰が入ってるかメモしてあったりするの?」
「まあ似たようなものですね」
「というと?」
「いまから閣下がひとつひとつ牢を経巡って死んだ魚みたいな目をしてる王族どもから人がましい言葉のひとつも引き出して、本人確認をした後自筆でがりがり名前と牢番号を書き込むための書類です」
「待って、それ書類じゃなくて白紙」
「晴れてその書類を文字で埋め尽くした日には、閣下の評価を残念なイケメンから、ちょっと頼りないけど使えないこともないイケメンに格上げして差し上げる所存」
「それって格、あがってるのかなあ」
結果から言えば、牢内の人物照会は非常に困難を極めた。まず塔の内部の構造がとてもラビリンスだった。入り組んだ塔の中を、上ったり降りたり、ときには大きく迂回したり。牢八十七号室の隣がやけに飛んで二千七百九十二号室だったり、三階層ほど下って小さな独房が蜂の巣のように密集しているあたりで唐突に八十八号室がみつかったり…。そんなこんなでメルが塔内をうろうろとしているうちにさくっと日が暮れてしまった。無論人物照会などそんな状況下でさくさく進むわけもなかった。
このまま書類が白紙の状態でロキスタのもとに出頭しようものなら、メルの評価はロキスタの中で、残念すぎて窒息死したほうがいいと思うイケメンあたりの評価に落ち着きそうだ。
それに、せいぜい書き込むことができた情報はただの牢の番号とその階数のみである。うちもだす魚のミイラたちはメルがどんなにがんばってもうめき声以外の意味ある言語を口にすることはなかった。それは決してメルが無能だったから…ではない。メルはできうる限りの手段を試してみたのだ。
逆さづり水車磔刑など、ダイナミックで力を使う作業は屈強な部下に一任し、メルはこまごまとした器具を使って、指を締め上げたり、爪に針を差し込んだり、舌に穴を開けたり、健康な奥歯を引っこ抜いたり…。そしてこの地味に見える作業も実はそれなりに体力を使うことに気がついて、まったく成果が出ないこともあり、早々に切り上げた。
押してだめなら引いてみる。北風と太陽、飴と鞭。
メルの脳裏にそんな逸話やことわざが想起された。苦痛ではなく快楽を与えたら彼らかはどのようになるのだろうか。
彼らが黙して語らないのは、ひとつには空腹のせいもあるのだろうと、メルはためしに身分の高そうな豪奢な服を着た若者をひとり牢からだし、自室にて水と茶菓子を与えてみた。
すると。
高々十数時間の絶食で生ける屍と化していた王族は、コップに入った生ぬるい水と味もそっけもない固焼きパン一切れを見て目の色を変えた。
「そ、そ、そそ、そ」
牢に入れられた当初は声をからして絶叫し、そしてその後ずっと沈黙を通していた王族の発声器官はざらりとひび割れ、うまく言葉をつむげない様子だった。
「それくれっ!それっ!くれっ…くださいっ」
メルはやや引きながら、後ろ手に拘束していた縄を半分だけ解き、軽食ののったテーブルの足に結びなおした。
三日飯を抜いた犬でもこうは狂わないだろうと思えるほど、それほどまでに尋常でない様子で、その王族は固焼きパンをほぼかまずに飲み込み、水も二口ほどで飲み下した。そしてほっとため息をつくと、メルに向き直り、じっと目をあわせた。
なにごとかと身構えたメルの前で王族は椅子から崩れ落ちるようにして床に身を投げ出した。五体投地土下座一歩手前の、最高級の敬意を表す臣下の礼をとってみせ、そのままにじりにじりと歩み寄り、ややビビり入ってビクっとしたメルのつま先に口づけた。
「どのような些細なご要望であれ、不肖あなたさまの犬であるわたくしめになんなりとお申し付けくださいませ、マイ・ロード」
「え…?ちょ…?な…?」
(わーい王族にマイ・ロードって呼ばれちゃったーい、やほほーい。…いやいや手のひら返しすぎだろっていうか王族のプライドいったいどこへランナウェイ?ってかこれひょっとしておれが平民でもこれやっちゃってるよね?ってかありえないって。ありえーないってー。大事なことなのでのばしてみました。うん、王族飢えに弱すぎる)
内心の煩悶を抑えて、メルはふと思いついて手にしていた書類を王族に差し出した。
「なんでございましょう、ユア・ハイネス」
「あ、いや。なんかそんな卑屈にならなくていいから、フツーにして。それでね、この用紙にね、いま桃花の塔に入ってる王族の名前と牢のナンバーを調べて書き込んでほしいんだけど…」
「おお偉大なる御前様、それはわたしに親族を売れと?」
王族は迷うそぶりを見せた。なぜか棒読みで。
「あ、そうだ。ポケットの中にたしか飴が…」
「ええ喜んで、ええ、下さるのでしたらもう喜んで、ええ」
メルが常に持ち歩いている小袋に入った蜜飴を与えると、名も知らぬ王族は大粒の飴玉三個を一瞬で噛み砕き、名残惜しそうな嚥下とともに立ち上がる。塔の中では魔術は使えないようにしてあるが、念のため王族を再び拘束しなおした上で、見張りと筆記をかねて手下を数名つけた。この分なら、調査後の報酬に山盛りのケーキでも約束すれば裏切らない予感はした。だが万一すべてが芝居で、この王族が逃亡なりなんなりすれば、メルには副官の一撃必殺の説教が待っている。
「ちょっと大変な仕事かもしれないけど、終わったらちゃんとしたご飯用意するから気合入れて調べてきてね」
「おおうあなたはわたしの神様ですか?わたくしめはいつまでも至高なるあなたさまの忠実なる下僕でございますれば…」
「あー、いやそーゆーのはいいから。がんばって。あ、あと名前は?そういや聞きそびれてた」
生き物の目を取り戻した王族は、明らかにへりくだったせりふまだ言い足りないといった風情だったが、メルの言葉には逆らわず、さらりと名を告げてから部屋を出て行った。
ロヴノール・ノールドゥリア・メイ・トレブランカ・ラリヨト。
この長ったらしい名前は…。
メルとイルシアで王位から引き摺り下ろした元王の直系の息子。
「…第一王位継承者かよー」
メルは叫ばずにはいられなかった。
ところ変わって迷子の王妹殿下は…。
体力の限界を迎えつつあった。
(水…できればライムとさくらんぼで香りづけした冷たい甘い水。砕いた氷たっぷり。あ、果物もいいな。あんまり甘くなくてさっぱりしてて、口に入れるととろけるようにやわらかい果肉の瓜。適度な酸味がある柑橘系も捨てがたいな。あとは積み立てのベリー類が充実してたらうれしいかも。って、…どう考えてもここにはないな。けどマジでそろそろお茶の時間にしないと死ぬこれ)
暗闇にうずくまり、ぴくりとも動かない王妹のすぐ近くをなにかがかすめた。王妹は反射的に手を伸ばし、音の源をつかんだ。
ぐにゃりと生暖かい、手の中にすっぽり納まるくらい小さい何か。
音の主は耳障りな鳴き声をあげた。
(これ…ねずみ?)
「うわっ!」
指先に鋭い痛みが走って王妹は思わずねずみらしき何かを取り落とした。
固い床に落ちた何かは再びつぶれたような泣き声をあげて、脱兎のごとく走り去った。王妹は痛む指先を口に含む。さび鉄の風味と何時間ぶりかの液体が口内に入った瞬間でもあった。
(ひょっとしたらあの生き物、わたしの三時のおやつだったのかもしれない…)
現状があまりにも生命の危機過ぎて、王妹の頭から衛生観念がさっくり消失していた。
逃した魚の大きさにため息をつき、もう一匹くらい似たような何かがいないかと、王妹はごそごそとあたりをまさぐった。
先ほどのヒットは幸運だったのだろう。
無造作に音を立てて這いずり回る王妹の手の届く範囲に、ちょっとでも目端の利く生き物は近寄らない。
だが手探りで朽ちかけた石壁をまさぐると、石組みの隙間になにやらもしゃもしゃ動く謎の生命体を発見した。気を抜くとするりと手から逃げていきそうなそれを王妹は逃すまいと強く握り締めた。
それはもろくも王妹の手の中でつぶれ、わずかばかりの粘液のようなものが残された。王妹は迷うことなく一滴の粘液をなめとり、その粘液を覆っていたとおぼしき薄いからの様なものもあまさず飲み込んだ。
まあ結果から言えばそれは蜘蛛だったわけで。
その後、同様の方法で、数匹似たような獲物を捕まえ、ほんのわずかなものではあるが、水分と養分を補給することができた。だがやはり足りない。もっとジューシーな生物を捕まえないと、ぐちゃぐちゃに握りつぶされた昆虫の外骨格すら飲み込むのが難しいほどのどの渇きが顕著になってきた。埃っぽいこの場所では水分を摂取できそうなものは昆虫に含まれるわずかな粘液か、もしくはねずみ程度の小動物の体液くらいしかない。
王妹の残りわずかな体力ではこれ以上のハンティングは難しいだろうと思われたそのとき。少し大きめの隙間に手を伸ばした王妹はビッグななにかをゲットした。
それはまずゴムのようなしなやかさをもつ棒状の物体として認識された。
ついで、王妹の手に再びの激痛。
しかし今度は王妹も取り落としたりはしなかった。
これが最後の生命線とばかりに、痛みを我慢して穴からそれを引きずり出した。引きずられながらもその生き物は王妹の手から手首、腕にかけてじわりと巻きつき、頭部は暴れながら何度も王妹の手に牙を立てる。
おそらく、蛇。王妹はそう確信した。
王妹は痛む手と、ともすれば萎えそうになる気力を振り絞って蛇と格闘する。手探りでその生き物の口と思しきところを探し出し、両手でその上あごと下あごを引っつかんで思いっきり引き裂いた。王妹の顔や手に血液と思しき粘性の高い液体が飛び散る。
(あ、もったいない…)
あわててその生き物のひょろ長い断面に舌を這わせ、ついばむように残った血液を吸い、歯ごたえのある肉を噛み裂き、最後には骨と皮が残るのみとなった。
幸い毒を持つ種ではなかったらしく、王妹の手はただひたすら痛いだけで、はれたりなんたりする様子はない 。
手や顔についた血を名残惜しくなめとりつつ、ひとごこちついた王妹はごろりと石の床に横たわった。軽い休憩のつもりだったのだが、残存体力はやはりからっぽに近かったらしく、王妹の意識はすみやかに虚空にとけた。
全身が石になってしまったような重苦しさと痛みに、王妹はようよう目を開けた。
瞬時には現状認識ができない。
しばし体の痛みに意識を集中し、次第に痛みの質の微妙な差異が感じられるようになった。筋肉と関節が悲鳴を上げているのは背中から下半身にかけて、特に足腰がひどい。それとは別に、右半身にしびれるような痛みがあることに気づく。
身じろぎすると、自分が右半身を下にして寝転がっていたのだとようやく気づく。そして硬い石畳とごつこつした突起が、自重で右半身を圧迫しているため、しびれるような鈍痛が右半身に偏っている理由もついた。
で。
(なんでそんなことになってるんだっけ…)
王妹は目を閉じて記憶のかけらからヒントをつかもうと眉根にしわを寄せて黙考する。
王族の拉致、自分の逃亡、パニックを起こして迷子になったこと、虫と蛇を食べたこと…。
すべてを思い出した王妹は、こらえきれず戻した。
ひとごこちついて、ようやく蛇や虫が忌避の対象であることに思い至ったのだ。
しかしすでに虫も蛇も王妹の体内で消化され、からえづきを繰り返しても出てくるのは黄色みをおびた胃液のみ。しかしそれすら水の確保もままならぬ現状、もったいないことこの上ない。
ひとしきりえづくと、全身が痙攣して体が言うことをきかなくなってきた。どうもカロリー摂取不足で体幹の温度がだだ下がりし、少しでも熱を得るために体が痙攣を起こしているようだ。少しずつ弱くなっていく痙攣はなんだか命のともし火が同様に果敢無くなっているのではと思われた。その火を再びともすべく、王妹はかろうじて動く手指で体をこすり、わずかな摩擦熱を得る。ぼろぼろになったドレスのオーバースカートに包まり、無駄な熱を逃さないよう注意しながら、少しずつ血流がよくなりほんの少し温まってきた四肢をこすり続ける。
ふとあたりを見渡した王妹は、そこが完全なる暗闇ではなくなっていることにようよう気づいた。
傾斜を下った記憶はあっても、その逆の記憶はなかったため、王妹は自分がずっと地下にいるものと思い込んでいた。だが、城の隠し通路から迷宮に迷い出て、その後使われていない朽ち果てた通路をたどるうちにいつの間にか地表近くに出ていたのかもしれない。
王妹はようやく希望らしき何かのほんのわずかなとっかかりを得たような気がした。
(…そうか、夜が明けたんだ。明かりがさす方向へ進めば、きっとここから出られるはず…)
だが、光源の方向はかろうじてわかるものの、いったいどれほど進めば出口に出ることができるのか。それはいまだ未知数のまま。王妹の体力はいまだゼロに近い数字を行き来している。
(やっぱり…なにか食べなきゃ)
何かを食べないと動けないということはわかった。…が。同時に王妹に通常の倫理観、衛生観念、娘らしい潔癖な性質もふたたび元通り戻ってしまっていた。極限状態における究極の選択。
本来口にすべきではないものを食べるべきか。
それともこのまま死体となり、干物となり、最終的には真っ白な骨になるのか。
(そんなの、ヤダ)
王妹は昨夜虫を握りつぶした手を見る。薄ぼんやりとした明かりの中、手のひらに残る虫の残骸。昨夜は見えなかったからできたことを今度はしっかりと目を見開いたままやらなければならない。
かろうじて発見できた地蜘蛛の巣のふたを開け、中の蜘蛛をつまみ出して口に放り込む。二、三度咀嚼したのち涙とともにごくりと嚥下する。吐きそうになるのを必死でこらえ、せり上げてくるものは問答無用で飲み下す。
ねずみの巣らしきアーチ型の穴の前で息を凝らして待つことしばし。昨日は口にすることのできなかったねずみが穴の向こうにちょろりと姿をあらわした。硬くて食べにくかったのでとっておいた蜘蛛の頭を穴の近くに置く。餌の気配に釣られて出てきたねずみを、こんどは迷うことなく一瞬で捕まえた。
脊椎動物ゲットー!
力みすぎて、両手でねずみをつかんだと同時に握りつぶして殺してしまった。
だが食べるには都合がいい。腹部を噛み破って、中でつぶれてしまっている内臓をすすり食らう。残念ながら外側の毛皮の部分は食べられない。王妹はねずみをばらばらに解体しながら骨にくっついているわずかばかりの肉を余さず口にした。後に残ったのは毛皮と真っ白な骨だけ。王妹は名残惜しげに骨に歯を立てる。細い骨には延髄も微々たる量しか備わっていない、が、ないよりはまし。骨すらも、腹を満たす足しになるのなら、必死で噛み砕いて嚥下する。
手の届く範囲内に生きてるものがいなくなったころ、いまだ飢えが満たされない王妹はとうとう石にこびりついているわずかばかりの苔まで口にした。
苔すらも食べつくし、王妹の周りだけ、朽ち果てた廃墟というより手入れのされた小道のような見かけになっていた。
そしてようよう光の差す場所を求めて立ち上がる。
髪はほこりと蜘蛛の巣まみれでざんばら。仕立てのよいドレスも同様に薄汚れ、あちこちにかぎ裂きがあり、ドレスというよりはむしろ襤褸布をまとっているようにも見える。
それでも王妹の目はぎらぎらと光って、生きる意志をあらわしていた。
王妹が、そのこころもちのありようを、人類とけだもの間を行ったりきたりしつつもなんとかその生命をかろうじてつないでいたころ。
朝早くに起こされたメルトーヤはこの上なく不機嫌だった。
メルの寝起きは悪い。下手をすると、起こしにきた使用人を夢うつつのまま物言わぬ死体に変えてしまうこともあるほどだ。なので起こすのは副官のロキスタ、もしくは全身を甲冑に固めた兵士と相場は決まっていた。
その日、起こしにきたのはロキスタだった。
寝起きの不機嫌さからくる攻撃性は、ロキスタの姿をみとめると生理的反射の要領で雲散霧消する。なんとか意識を覚醒といえるレベルにまで引き上げようと努力するメルの聴覚がこの場にそぐわぬ音を認識する。
それはゆったりした動作で両の手を二度、ぱしっ、ぱしっと打ち合わせたロキスタが生んだ音だった。
「残念な無能だと常々思っていましたが、やればできるではないですか。ほんのわずかですが見直しましたよ」
言ってる意味が良くわからない。…が、どうやら褒められているような様子。ということは、あの人を小ばかにしたような手の動きはもしかしなくても拍手!?
「待ってそれ拍手と認めちゃったらなんかおれ人としてとても大事なものを見失ってしまいそう…」
「そういうオプションはもうこっちでは最初から外して対処してますから大丈夫です」
「おれの人格、オプションと違うよね!?主体だよねフツー人格って!」
「ええ普通はそうです」
「ロキスタさん正直に答えて、ね。あなたはおれのことを人間と思ってますか?」
「…人間、気味?」
「気味って…。しかも疑問系って…」
深く考えればとても悲しい事実が明らかになりそうだったので、メルは全力で理解を拒否した。
「昨夜遅くに届けられたこのリスト、目を通させていただきました。収監されている王族すべて照会してありますね。やればできるものです。不思議です」
あれこれつっこみたいのは山々だったが、メルはロキスタが手にしている書類を見て首をかしげる。下僕と化したこの国の第一王位継承者が塔のリストアップ作業に着手したのは昨日の夕方、日も落ちて暗くなったころだった…はず。それがなにゆえその日のうちに完璧に網羅されてロキスタの部屋に届けられていたのだろうか。
メルがちらりと部屋の隅にうずくまっている第一王位継承者に目をやると、彼はばちこーんと気合の入ったウインクをよこした。さくっと屠りたい気持ちを抑えて視線を無理やり彼からもぎはなした。
「あー、えっと。あれだね、世に不思議なしってことだね。んじゃ、今日はそのリストの中から中枢に近いところにいそうな王族探し出して尋問、もしくは懐柔…だね」
「いえ、それよりこのリストはもっと使えそうな部署があるんで、そっちにまわそうかと思ってます。ってかまわします」
「え、ちょ…。じゃ、おれどうやって探して…あ、そか」
「ええ、閣下にはさっきからかまってアピール絶賛展開中の下僕的ななにかがいるじゃないですか。それ、別名生きた情報源とかいいますよ、たぶん」
うっすらと事情を把握してる気味なロキスタ。
「うあー、おれなんであのときこんなキモウザい男選んじゃったんだろう。なんで女の子にしなかったんだろう。今からでもチェンジって可能かな?」
キモウザい男は満面の笑みで両手を交差させている。わかりやすくチェンジ不可の意味だろう。
「ええとおれたぶんあの情報提供者と直接話したらSAN値とかが下がりそうなんで、間にワンクッション的ななにかが欲しいかな。具体的に言えばおれの変わりにあれと会話してくれる補佐役希望」
「あ、いま別件で忙しいのでそっちに人さけませんから」
ロキスタはあっさりとメルの切実な願いを却下して、書類を手に部屋をあとにした。
残されたいろんな意味でかわいそうな男ふたり。
気まずい沈黙が落ちる。
(寝なおしていいかしら?)
「ダメですよ、お仕事、さくさく終わらせないとまずいんじゃないですか?」
メルの心の声にばっちり正確な受け答えをしてみせる元第一王位継承者。
「えーと…。突っ込んだら負け、かな。やっぱり」
「人の上に立つものは細かいことを気にしない度量があると割りと生きやすいですね」
「いや、君らそこらへん気にしてなかったからあっさり制圧…、あ、突っ込みそうになった、ヤバイヤバイ」
「気をつけてくださいよ~、うっかり突っ込んだらSAN値下がりますしー」
メルは無言で机につっぷし、手に触れた邪魔なものを腕でなぎ払ってわずかな安息スペース的なものを確保した。
ちなみにメルが机から払いのけたのは、さめかけた彼の朝食で、それをフリスビーキャッチ犬もかくやの俊敏な動きで捕らえ、自分の目の前にきれいに皿を並べなおしたのはいわずもがなの下僕である。
「では、ありがたく頂戴いたします」
ちなみに朝食の献立は、軽く焼いたトースト二枚、一枚にはたっぷりのバター、もう一枚には甘酸っぱいマーマレードが塗られている。別のさらには半熟のふわふわスクランブルエッグ。もぎたてのプチトマトのソテー添え。フレッシュなグリーンサラダには薄切りハムとカッテージチーズが盛られていた。欠かせないのがティーポットになみなみとおかわりが用意されたダージリンティ。
液体の入った容器をこぼさずキャッチするのはなかなか上級スキルだなあ…と、一滴の飛沫すらこぼれていないじゅうたんを見やったメルは、その脇に一瞬で空になった朝食の器を発見して絶句した。
「いや早すぎるだろ!?」
深く考えるとSAN値が下がると確信できたので、メルは意図的に話題を変えた。
「あ、昨日お願いしたリスト、その日のうちに全部網羅しちゃったんだってね」
メルがトライしたとき、半日かけた成果はといえばとりあえずの塔の構造図、地下に何階、地上に何階程度。しかも膨大な空白を埋めているのはかろうじて判明したした部屋番号のみという残念さであった。それをたった数時間ですべての空欄を埋めたという。
「えーと、魔術は使えなかったはずだけど?」
「はい、使ってません。でも同行してくれた部下の方はなんかやけに驚いてましたね」
「なにやらかしたんだよ」
「いえ、ただ普通にですね、正しい順番で塔を回って仕事しただけですよ?みなさんご存じなかったようですが、あの塔にはショートカット通路がたくさんあるんです」
「なるほどそれは予想してた…。んで、あんたは…。あー、名前で呼んでもいい?」
「仰せのままに、いと高きところにまします我らの主様」
「うん、ついでにその無駄な修辞もなしの方向で…って、そんなにおかしなこといってないでしょ?なにそのわざとらしい驚愕の表情。あとそんなに堂々と舌打ちしない。舌打ちってのは相手がよそ向いた隙にひっそり打つもんだよ」
「はああ、だっせー。マジうっぜー」
「キャラ変わり過ぎ…もうなんでもいいや。あのさ、ロヴ君はあれかな。普通の人は知らないような隠し通路とかそういうのに詳しかったりするのかな?」
「は!?マジウケるんスけど?」
メルはふたたび机につっぷした。
先は長そうな予感がひしひしと感じられた。
「えっとー。なんかあれこれ注文ばかりつけてるみたいで悪いんだけどさ。さっきまでのへりくだった変な言葉を百、いまのイミフな反応を一として、ためしに五十くらいの出力で対話お願いできるかな?」
「んー、五十だとこんなもんかな。そいやあんた、名前聞いてなかったんだけど…。あ、おれのことはロヴでいいから。君とかつけられるの逆にアレだし」
「…卑屈、見下しときて今度はタメ口か。なるほど両者の中間というわけね。じゃあロヴ、微妙に不本意だけどよろしく頼むよ。おれはメルトーヤ。メルって呼ばれてるよ」
「メル…ね。呼びやすくていいよ。んで、メルはこの王宮の隠し通路のことを知りたいのか?」
「あ、うん。それともひとつあるんだけどね…」
「ひとまず言っとくけど、城内の隠し通路はちょっと膨大すぎてしかも一呼吸ごとに増えてる可能性もあって、一人でそれ全部知ってるやつなんかいないよ?いろんな用途があって、いろんなヤツが使うわけだからね。だから情報は何人もの王族に聞かなきゃ全部はわからないんだよ」
ふむ…、とメルは腕を組んで考え込んだ。どうやら目的の情報を得るためには長丁場を覚悟しなくてはならないようだ。
「じゃあロヴ、もうひとつの方をさくっとやっつけちゃおうかと思うんだけどさ。唐突な質問に思えるかもしれないけど、王妹ってどんな人?」
珍しいロヴのきょとん顔が見られた。
「えっと、そんなに唐突過ぎた?」
「あっと…や、ごめん。このひとどこまで知ってるんだろうと考えてたら返事遅れた」
「え?何も知らないから聞いてるんだけど」
「知らない?よりによって?叔母様のことを?とてもじゃねえけど額面どおりに受け取ることはできないな」
「なにがお前をそこまでフル警戒させたのねえ!?」
「そこからかよ!…案外本当に事情知らねえのか?」
こころもちロヴの口調な伝法な方向にシフトしている。こちらのほうがより本来のキャラクターに近いのだろう。
「あのねえ、自慢じゃないけどおれは肩書きこそ伯だけど田舎領主と変わりない新興貴族もいいとこだぜ?王宮内の王族情報なんてそれこそ雲の上だよ。あんたが第一王位継承者だってことも名前聞いて初めてわかったくらいだしさあ…」
ああ…と、ロヴは顔に手を当てて嘆息した。それからうん!と気合を入れて目覚ましのように自分の頬を両手でぱしんとはたく。
「オッケーオッケー。了解した。そういう仮定で進めてみよっか」
「仮定も何も事実なんだよ悪いか」
「悪かねーけどかわいそ」
「ほっとけ」
「いやまあほっといたら話進まないからおやさしいおれさまが話を進めてやるけどよ…、メルは魔術ってどう思う?」
「は?魔術は魔術なんじゃないかな?」
「ああ、聞いたおれが悪かった。じゃ、あのな、貴族と王族の違いってなんだか知ってるか?」
「おれそこまで馬鹿にされないといけないの?違いもなにも、王族は魔術が使えて貴族は使えないってとこだろ」
「そう、傍流でも神祖の血を引く子孫はすべからく魔術が使える。ま、血が薄まれば薄まるほど力は弱くなっけどな」
それまで問題にもされなかったことではあるが、改めてどうなのと問うてみれば、王族の魔術の仕組み、なにげに謎である。なんというか、最初からそういうもの、魔術とはごく当たり前に存在するもの…と常識の一部として刷り込まれているので誰も疑問に思わない…そういう状態だ。
「だいたい血の一滴で魔術が使えたり使えなかったりすんのも不思議な話だよな。魔力ってのは血に宿るのか?」
「まあおれも専門家じゃねえから詳しい仕組みは知らないんだけどな。でも王族の血だけ単品で取り出してもその血を媒介に魔術が使えるわけではないらしいんだ。血液の成分なんかも特にほかの貴族や平民と変わらないらしいしな。その辺の研究はまあ一通りされつくしてはいるらしいぜ。その過程で何人の王族が犠牲になったか知らないけど」
「さすが王族、目の付け所が猟奇だね…」
「で、ここまでひっぱっといてまあ結論から言うとだ。叔母様は魔術が使えない」
「ふーん…。て、え?なんだそりゃ?」
メルはさっくり流しそうになって思わずのどから裏返った声を出す。
「うんうん、やっぱり奇異に感じられるよなあ。元王ことおれの叔父貴にして叔母様のおあにい様はあんだけきらきらしい純王族って感じの魔術が使えるのに~ってさ。だからさ、最初はみんな、叔母様が前王妃の腹に宿ったときはものっそい期待もしたんだそうな。なんだかんだで高位の魔術使える人間の数が増えりゃ、そんだけ他国への牽制になるし、魔術があれば侍女とかいらないから人件費浮くし…」
「あ…いや。国家規模の問題から身近で卑近な面においても魔術ってのは…」
「うん、チートだな」
「それ言っていいのかどうか迷った」
「チートっつかご都合主義ってか、微妙に表現に困るよなあ。それで話を戻すと、純血の家系で魔術が使えないやつが生まれたんだ。周りがどういう反応するか…」
「うーん、ハンパなくがっかり?」
「…だな。がっかりもしたろうさ。それよりなにより生まれたのがさ…」
「王妹?」
素でボケたメルを半眼で眺め、話を進めるためにロヴは軽く流した。
「そーねー、王妹生まれたわねー。そして王妹と同時に疑惑が爆誕しちゃったのよ」
「ああ…疑惑ね、うん。たとえば不貞の?」
「それもある。けどな、前王妃は王族なんだ。仮に前王妃が貴族あたりと…いや基本的に男なら誰でもって感じでフリーダムに不貞を働いたとしても血が薄まった分弱くはなるだろうが魔術自体は使える子供が生まれる道理なんだ」
「それが使えなかったとなると…?」
「うん、前王妃の血筋に疑惑の声が上がった」
「しかし…王族の系譜はそれこそ魔術の問題があるから厳正で正確なものなんだろ?前王妃だって、そのまた上にさかのぼったところでほぼ確実に王族同士の婚姻だよな?」
「そう、一滴でも王族の血が入れば生まれてくる子はなんらかの魔術が使える。それだけ魔術の因子は強い。…と考えられてきた。だが、王妹の出現によってなんかいろいろ基礎的理論とかもろもろから覆されてなー」
当時のことを思い出してか、遠い目になるロヴ。近しい親族なだけあって、騒ぎの渦中にいやおうもなく巻き込まれ、さまざまな派閥の争いに担ぎ出されてもみくちゃにされた苦い記憶。まあ魔術が王族のアイデンティティであるならば、ゲシュタルトを伴う理論の可能性はすべての王族にとって忌避すべきものとなる。
「まあ…大騒ぎだったんだろうね」
「ん、なかにはお祭り騒ぎと勘違いしてたやからもいたけどな。そんで前王妃が屈辱のあまり憤死。憤死ってすげーなー、アレ。昔の戦乱時代の武将くらいしかそんな死因で死んだやついねーだろ。憤って死ぬんだぜ?なんだよ、死因、憤りって…」
ロヴは一応は親族である義理の叔母の冥福を当然祈るべきではあるのだが、その死因が死因なだけに祈るべきかはたまた拝むべきか迷う。
「まあ…ここ最近見ない死因だけど…。けど歴史を紐解けば昔の貴族とか王族とかって自分の恋心をうまく歌に読めなかったせいで死んだり、ひとめぼれの片思いでぶっ倒れてそのまま死んだりとかフツーにあったらしいぜ?死因、恋とか…どうよ」
「昔って…人類のテンション高めだな」
空気が重くなって、ふたりはしばし沈黙した。
「あ、いやいやこんなオチつけて暗くなってる場合じゃねーんだよな。王妹の話だ。そんなこんなで前王妃はアレだし、前王とかもそーとー参ってさ。どう議論を尽くしたところで王統の系譜を疑い始めたら自分たちにまでとばっちりが来る。こりゃ封印したほうが平和だね。そうだねって流れで、王妹の話はタブーになったってわけさ」
「なるほどね、王族のタブーか。そりゃいきなり聞かれたら警戒するよな」
「んだ。しっかしなんだっていきなり王妹のこと聞いてきたんだ?ぶっちゃけ隠し通路どうこうより問答無用で圧勝の爆弾的機密だぜおい」
「そりゃ話聞いてみりゃわかるけどさ、そんな前情報なしで王妹逃亡疑惑なんだよいま現在リアルタイム進行形でぶっちゃけたところ」
メルはここまで聞けたらまあいいか…と、情報を一部を明かしてみせた。というか本音がほとばしり出た…といった方が正しいかもしれない。
「はい?」
無論展開が飛躍的で説明自体かなり足りないのでロヴは怪訝そうな顔つきだ。とりあえずロヴの理解を待つより詳細な説明をするより、ひとまず自分の疑問点をつぶしていこうとメルは質問を重ねた。というのもこのままでは現状推測しか語れないからだ。
「あのさー。魔術が使えないせいで王妹って虐待されたり…してた?」
「虐待?なんじゃそりゃ」
メルはロヴの表情を横目で観察するが、ロヴには混乱の色しか見えない。これが芝居だとしたらこの第一王位継承者(仮)は厄介な食わせ物である。だが幸いロヴは王宮の悪癖にあまり染まっていないようだ。若いせいもあるかもしれない。
ロヴの関与はないと判断したメルはさらに切るカードの種類を増やした。
「うーん、たとえば王族全員捕まえられそうになって、王妹が魔術使えないって貴族や平民にバレたらヤバい…とかでちょこっと王妹に消えてもらおうかなって勢力が存在したとかさ…」
「えー、ねーよ。それにあの状況下でそんだけ仕事できるやつは王族にはいねーよ」
「うわー、断言しちゃいましたか」
「あんま王族なめんなよ?魔術使えなきゃその辺の餓鬼以下のぶちスライムだぜ?」
「それこそ王族をなめくさりきった発言じゃ…」
ロヴは無理解な子供を見るような目つきでメルに無言の圧力をかけた。そしてメルを黙らせておいてから情報を丹念にまとめて理解を得ようとする。キーワードは「王妹」「逃亡」「疑惑」である。
「えーと、そりゃつまり…どういうことだ?叔母様が逃亡中?」
まんまな理解である。
「あ、いや。王妹らしき存在ってか女の人はいるのよ。っていうか、おれたちが確保した王妹…と思われる人物は尋常じゃない怪我をしている」
少しでもロヴから多くの情報を引き出すために言葉尻には気をつける。あえて怪我の内容を伏せたのは最後の用心だ。
そしてロヴの反応は…。ごくごく普通のものだった。
「あーね。あの修羅場じゃ怪我くらいするよな」
とくにとぼけた様子もなく、ロヴはあの騒ぎの中、王妹が怪我を負ったものと理解したようだ。そんなロヴの様子を観察したメルは、とりあえずこの件に関してロヴはシロだとあたりをつける。
となれば協力者が多いほうがいい。なにより自分が王宮素人なことは嫌というほど自覚している。そこまで考えて、シアとの別行動は早計だったかなーと軽く後悔する。本来ならある程度事情に通じているシアが尋問を担当したほうがいろいろ無駄は省けたかもしれない。だがしかし、体育会系気味でアウトドア派のシアは二択で必ず体を動かすほうを選ぶ。
とりあえずどちらかというと文化部系のメルは対話による相互理解を目指して手持ちのカードを気前良く開いていった。
「いやいや、怪我っていうか。騒ぎの中で意図せずつけられた傷…とは思えないんだ。具体的に言うと顔と喉を薬品で焼かれて手指は第一関節まで鈍器でつぶされて…」
「はい?」
「確保したときにはすでにその状態だったそうだ。おれたちはなにも手出ししてない」
なにそれ、まじホント?あらいやだ奥様、おれたち、ウソ、つかなーい。みたいなやり取りが無言で交わされる。
「うーん…とりあえずその女性を王妹と仮定して、そこに第三者の介入がないものとした場合の可能性としては、ものすごーくアグレッシブな自殺?の失敗?」
「どんだけマゾな自殺方法だよそれ」
「そっかー、それで逃亡疑惑なわけかー」
軽く示唆するだけでロヴはかなり正確に事情を把握する。それが緩慢な自殺でも自傷行為でもないとすれば、身元をわからなくするためにつけられた傷、と考えるのが自然だ。そして王妹の所在を曖昧にすることがどういう結果を生むか。
「うーん、確かに叔母様は侍女や使用人たちからは結構慕われてたなー。王族の中でこそハブられてっけど、そーゆー事情知らないやつらにとってみれば気取らないいい主だったろうね。それこそ、人物判定不可能な影武者を用意して逃亡を補助…しようと思った使用人がいてもおかしくはないくらいには」
「王族ヘタレなのに使用人根性あるなー」
「魔術使えれば王族そこまでヘタレはしません」
「いや、もっと根本的なところで存在の本質みたいなものが絶対的にヘタレてる」
「なにそれ根拠は?」
メルの迷いのない口調に興味を惹かれたようにロヴは問いかける。
「うん、じゃあ根拠を述べる前にここで驚愕の真実を明かそう」
いささかもったいぶった口調でメルはとっときのワイルドカードを提示した。
「王族でないおれが魔術を使えるとしたら、王族の存在意義はヘタレでしかなくなる」
ロヴはしばらくの間思考停止に陥った。
そのころ、休息をとりつつ比較的フリーダムに動き回っていたイルシアの別働隊は、かなり長いこと使われていないものと思しき屋敷の攻略に取り掛かっていた。
「イルシアミンスル閣下、当建物は王族ニアーヴェ様の別荘となっております。ですがニアーヴェ様は病弱でいらして、かかりつけ医のいる王宮にもっぱら居を移しているとの由、別荘を最後にお使いあそばしたのは六年前との記録があります。よって、当建物は某重要人物の潜伏先としてかなりの高確率になっており、最優先でクリアすべき物件かと思われます」
「ん…確率計算したの誰だ?」
「超文系の軍師ですがなにか」
「せめてやや理系気味くらいの人材はなかったのか?」
「基本われわれ体育会系ですので」
「まあ…これってまた同様に確からしい…のかな」
信じようが信じまいが同じなんだよな…とイルシアはぼんやりと思う。二分の一の確率で予想を外す軍師が出した確率はもはやミステリーである。
そこへ、遠くから早馬が駆けてくるのが見えた。
「おい、物見」
イルシアの簡潔な問いに、組み立て式の簡易やぐらで見張りをしていた男が答える。
「あの早馬ですね?…えーと、友軍です、伝令旗をつけてます。所属を示す旗はギーヴリア辺境伯エルヴェ家のものに似ています。ここからではこれ以上視認できません…でも、あの、こう、もやっとしたラインがですね…」
「ニュアンスで報告されてもな…」
「いや、あのですね、申し上げてよろしいものか…こう、騎手のですね、腰の辺りのラインがどうも…まろやかというか、それでいて全体の雰囲気は鋭角というか…」
「ならメルの副官のロキスタだな。定時連絡だろう」
ならばあちらもほぼ予定通り…といったところか。
「ですっですよねっ!」
「どもるな…」
「あのっ!わたくしどもロキ様親衛隊になり隊有志にて、ロキ様をお出迎えアンドおもてなししてよろしいでしょうか?実はかねがね準備しておりまして…」
やぐらの上でクネクネと体をよじりながら、期待に満ちた目でイルシアを見つめる物見。
「隊内に別隊を勝手に作るなそして迎えに行くな」
無表情にそして無慈悲に返す言葉でばっさりと切り捨てる。
いつの間に隊内の風紀がそんなに乱れていたのかイルシアは今後、隊内の綱紀を引き締めようと決意した。
いつも以上に厳しく眼光鋭いイルシアに虫けらでも見るように一瞥された物見は、眼光に射すくめられてあっさり引き下がった。
「む…無念」
パントマイム芸人としてやっていけそうなくらいのリアルさ加減で、視線の矢に射殺された人間の末路を忠実に再現する無駄に芸が細かい物見。
「無意味に果てるな」
おひねりは…どこからも飛ばなかった。
「せ、せめて。ロキ様がお使いになる床机にわたくしどもが夜なべして編んだテーブルクロスとクッションカバーをおく許可をいただけませんでしょうか」
物見は死の演技を脱ぎ捨てて、ダッシュでやぐらを降りて、荷物の中から上等の薄紙に包まれた布的ななにかを取り出した。薄紙をはがして現れたのはは無意味に完成度の高いレース編みの大作。これだけの大きさのものを編むのは一晩の夜なべ程度では到底追いつかないだろうと思われる。しかも相当の熟練の手のものでなければ作れないレベル。
なあ、おまえら、アホだろ?アホの子らだろ?と問い詰めたいのをぐっとこらえてイルシアは物見をにらみつける。物見はいったん死んだことになってるルールかつ、死人に殺人光線は通用しません理論にのっとって流暢なセールストークをつるつると並べ始めた。
「あの、こちらはですね、センターに立体的なアイリッシュクロッシェをあしらったモチーフを斬新な七宝編みでつないだもので、タイトルはあなたのお尻に敷かれる名もなき薔薇でありたい一号です。こちらのものは伝統的なパイナップル模様とネット編みで作られておりまして、最後に初々しいピンクの糸でブリューゲル編みをしつつ周囲に編みこんでいく力作フリルが自慢の逸品でしてその名も…」
「そういう無意味な語彙は増やしたくないから説明するな」
「ものすごく頑張ったんで誰かに説明したくてたまりません」
「手芸の腕磨いてないでちゃんと武芸の腕を磨けよ」
「え、うちの手芸部全国いけるレベルなんですけど」
「誰だ責任者!…は、もしかしておれか」
この頭に花が咲いてるような部下たちをどうしたものか…。大いに頭を悩ませるイルシアであった。
そしてようようロキスタがイルシアの仮天幕にたどり着いたのはそれから一刻もたたないころあいだった。
「おい、誰か。ロキスタの馬を休ませて手入れしてやってくれ」
馬は酷使されましたという表情で哀れみを請うようないななきをあげる。
「まだ到着まで数刻はかかると距離から目算していたが、飛ばしたなロキスタ」
「はい、メルトーヤ様から離れる職務のときは通常速度の三倍速いスピードで、逆にメルトーヤ様へと報告に赴く際はなぜか通常の三倍の時間がかかるのです。仕様です」
「根本的にメルの副官として不適合なんじゃないか?」
「同感です。しかしわがロクスタン家の家訓は『一度箸をつけたものは最後まで口にすること』なのです。小さいころは、なんでもおいしく食べましょうといういい家訓だとおもっまてしたが…今となってはその真意に気づかずうっかりアレに箸をぶっさしてしまった自分の軽率さをただ愚かだったと思うばかりです」
「それ家訓ってか闇鍋ルールのような気もするけど…それにしてもロクスタン家といえば良くも悪くも結構な家柄だしね、成り上がりのメルの下につくのが嫌だってのは良くわかるけど…」
「あ、いえ、メルトーヤ様が嫌いというわけではないんです」
「ああ、ツンデレ?」
「はげしく違います。誤解のないように申し上げますと、副官としては上官であるメルトー様にはそれらしい大人物になっていただきたいわけです。身近にイルシア様といういい見本がありながらあの体たらく…。これは残念といわざるを得ません。いいですか?ただでさえメルトーヤ様は小柄で細身で童顔です。性格もなんかふにゃふにゃしてます。全体の印象は失敗したお笑い芸人です。せめてイルシアさまくらいの重々しい威厳とにじみ出る支配者オーラを持って入れば、わたくしもこんなにメルトーヤ様の一挙一動にイライラしたりしません。もしくはクールで怜悧なイメージで押すならあの見かけでも十分役に立ちます。見せ方次第ではかなりいいとこまでいける素質はあるんです。なのに…問題の本質は…メルトーヤ様の中でその重要性がまったく理解されていないということに尽きますね。頭の中に咲き誇るお花畑がかれる様子もありませんし。このキャラが変わらない限り人身掌握の前になめられておわりです」
イルシアの脳内で、ロキスタ=メルのおかん。という図式が出来上がった。イルシアがそんな失礼な想像をしているとはつゆしらず、ロキスタは本題にたちかえる。
「まあ…ホントにホンキでヤバくなったらロキシタン家直伝のあれこれでなんとでもできますけどね。さて、こうして急いでご報告に駆けつけたのになかなか本題に入らず申し訳ありません。こちら…ですね、このリスト、現在桃花の塔に収容されている王族の詳細情報です。これをイルシア様の下に届けんがため、かくはせ参じた次第です」
「ふむ」
イルシアはロキスタから手渡された書類をぱらぱらとめくって目を通し、それからちょっと怪訝そうな顔をした。
「ですよね」
ロキスタが断言する。
「え?」
「まさかメルトーヤ様がこんな短期間にこんな綿密な調査を行えるわけがない、イルシア様いまそう思いましたよね」
「いやまあそうなんだが…心の声にはなるべく返事しないでくれるとありがたいな」
「これは出すぎたまねをいたしました。ですがここはきちんと説明しておいたほうがのちのちよろしいかと思いまして…。実はメルトーヤ様、それと知らず元…ですけどこの国の第一王位継承者をパシリとして使ったようです」
「知らないって、怖いものないんだな」
「わたしが最後に見かけたときはタメ口でボケツッコミしておりましたよ。相手が第一王位継承者だって気づいた上で、です。…あの思考の柔軟さは宇宙人レベルですね」
「あー、まー。なんていうか、メルって正式な身分制の外側にいるような微妙な立ち位置だからなあ…。で、えーと?城の蔵書庫の王統譜と実際の牢内人物のつきあわせはやってみたか?集めた王族がこれですべてかってのが一番重要なところだからな。王宮内に乗り込んだ際の死傷者リストもあったろ?たしか実働班を指揮してるもののほうからそちらに渡してあるとおもうんだが」
「はい、意外と早く現場からリストが上がってきたのでほかの資料とつき合わせて詳細なチェックをする時間は取れました。今回王族以外は敵じゃありませんから関係のない人を間違って投獄していた場合それなりに陳謝と誠意を品を渡して丁重にお帰りいただきました。使用人や下働きのものはもう手を見ればわかりますからすぐに判別できましたのでとりあえず通常業務を命じております。運悪く怪我したものたちもいましたが、そちらは治療施設に移してます。残ったものの判別には王統にある正規の王族リストを使用し、実際の王族とを照会して本人確認ははあらかたすませましたので…。で、まあ結果から申し上げますと、唯一リストと実物の間に齟齬があったのは王妹殿下の侍女関係のみでした。王妹殿下付きの侍女なんですが、一名不明であとはすべて死傷者のほうのリストにありました。ちなみに完全死亡の黒丸がついてます」
仕事をしているときのロキスタは別名生きる演算装置との異名をとる。
むべなるかな…とイルシアは心の中で嘆息する。
「まあ、十中八九、その不明の一名とやらが現在塔に入ってる女と同一人物だろうな…。だがほかの侍女はなぜ死傷者リストに入ってたんだ?とくに抵抗しない限り使用人の類は殺すなとの命を出しておいたんだが…」
「…あくまで予測に過ぎませんが、影武者にあれだけの傷を負わせるくらいです、きっと死に物狂いで抵抗したんでしょう。殺されることを見越して…」
「魔術が使える状態だったら魅了の呪文や傀儡の呪文などである程度精神支配はできるが…。あの状況下ではそれはない。昨今珍しい忠義だてだな」
「確かに忠実な家臣に恵まれた王妹は運がよかったのだと思います。でも…」
「やはり気になるか」
「はい、確かにあの広い王宮、そして大勢の王族。たとえ魔術が使えなくてもひとりやふたり、逃げおおせていてもまあ想定範囲内ではあるのですが…」
「王族は血が濃いほど美形が多くなってくるからな。王妹ともなればおつきの侍女とは見た目がまずぜんぜん違っていただろう。まず顔をつぶしたのも道理だな…」
「美しい女性であれば、たとえ顔をつぶされたとしても美しかったころの立ち居振る舞いが身についてますから付け焼刃は結構見破れるんですけどね…。なおかつ王族のほとんどが魔術が使えなくてキョドってたので相手の様子を観察すれば意外と王族の見分けはたやすかったとメルトーヤ様にお聞きしました」
「だから逃げおおせたとしてもせいぜい王統の末席に連なる下位の王族だろう…と?」
「ええ、特に情報系はかなり気を使って遮断していたので王宮の奥殿に住まいする高位の王族は、実際にわたしたちを目にするまで何が起こっているのかわかっていなかったはずです。制圧は音もなくすみやかに…やってのけた自信はありますから」
そこでロキスタはイルシアの顔をじっと仰ぐ。
「つまり、王妹を逃がすほど手際が悪かったわけではないと?」
「言い訳めいて聞こえるかもしれませんが、それがわたくしの本心です」
「まあ、おれとメルも似たようなことを昨日話したな」
「やはり何かわたしたちが見落としている重要なファクターがあるのでしょうか」
「うむ、可能性の話をするならそれこそいくらでも思いつく。まあ伏せられたカードを当てる遊戯も暇なときならいいだろうが、いまは少なくともこれ以上考え事を増やしたくはないな。だがまあ、可能性によって今後の捜索の手はずも変わってくる…ゆえにそれは決しておろそかにしていいものではないのだが…」
「ああ、面倒なことはうちのメルトーヤ様にさせましょ。イルシア様は狩りが大変お得意だと伺いました。いま現在イルシア様の手勢が神出鬼没に動き回っているおかげで、実は治安維持に一役買っているという状況でして…。実はひそかにこの機に乗じてよからぬことをたくらむ輩がいるとの情報も入っております。ですが幸いにしてどちらを見てもイルシア様の手勢がいて、石を投げればイルシア様の手勢に当たる現状とても動きづらそうにしてるんです。なので遠乗りするもよし、狩りをするもよし、遺跡探索するもよし。好き勝手動いてくれるとこちらもかなり助かります」
「いや、石は投げんでやってくれ…」
「あの、できればですね。イルシア様のお家の紋章のついたマント、ありますよね。あれって予備とかないですか?うちのでくの坊たちにもそれつけさせて市中うろうろさせればさらに効果的だと思うんです」
ロキスタのテンションがだだ上がりしてるらしく、キャラが変わったようにぐいぐいと押してくる。もともと押しの強い性格だが、イルシア相手にはややセーブしている感があった。だがいまやノンブレーキノンストップである。
「え?いや、それくらいはまったく問題ないが。だがいいのか?隠し通路の洗い出しと王妹の人物評価についてはおれが言うのもなんだがメルに丸投げしといたぞ?ぶっちゃけあいつひとりじゃ無理だろうと思っていたんだが。本当にこちらから手勢を割かなくていいのか?」
押されると割りと引くタイプのイルシアは、とりあえず諾としながらさりげなく気になっている点を確認する。
「なかなか思い通りの進捗とはいかないようですが…まあ情報提供源としてはかなりラッキーなカード引いてると思うので、これで結果出せなかったらもうあれ中身抜いて持ち運び楽なようにしましょ」
「えっと…そこはかとなく次に会うときメルがどうなってるのか不安なんだけど…まあ遊んでいいというのであれば調査はメルに一任するが…」
「イルシア様、どうしてそんなに歯切れが悪いのですか?わたくしなにか失礼でもしでかしましたでしょうか」
「…気のせいかメルが忙しいから大変そうだなあとかうっかり同情してしまったら、なんとなく無意味に気のせいなんだけどそこそこ確実におれにとって都合がよくない何かが怒涛のように押し寄せるようなそんな予感がするのだが。まあ…きっと気のせいだな」
「気のせいですよ」
コンマ一秒テンプレ笑顔の即答は疑惑を確信に変える。
ここで「やっぱりメルが大変そうだからおれも手伝う」などと言おうものならメルに降りかかる理不尽な厄災の火の粉がが自らの上にも降ってきそうで、ゆっくりと首を振ってイルシアは友の無事を祈った。
「ではおれたちはしばらく警備という名の休息に移る。朗報を待っている」
「はい、可能な限り迅速に処理いたしますゆえごゆるりと…」
ゆるやかな歩調で去ってゆく馬上のロキスタの背を見送って、ようやくほっと息をつくイルシア。
そして人払いしていた天幕に部下を呼び戻す。
「おまえら、今日の夕食の希望はあるか?」
唐突な質問に最初は首をかしげ、だがそれもつかの間…。
「香草入り豚の詰め物焼き、しばらく食ってないです!」
「おれはそろそろ魚が食いたい…今の時期は渓流鮎なんかいいですよね」
「カバブ、めっちゃ肉のやつ!」
「タンドーリチキン!」
「おれ、何でも食う!」
「おれ、ナタデココ!」
もしかしてイルシア様がごちそうしてくれるのかも…という淡い期待を抱きながらまだ若い彼らは口々に食べたいものをあげていく。
ころあいと見たところでイルシアがみじかく「よしっ」という。
部下の期待はいやがおうでも高まりゆく。…が最高潮に達した時点でお約束というのは必ず訪れる。
「諸君の希望は記録した。各自、自分の食べたいものの食材を自力で調達したまえ。なお、市場で買うというのは自力調達に入らん。そして材料そろえたら自分で料理して食え。これがいまからのお前らの任務だ」
調子に乗ってナタデココと叫んだ部下は顔面蒼白である。
食料は自力で調達。自力で調理、根性で消化。現在の王妹の理念は先に述べた三つとなった。なるべく早く文明社会に戻らないとこのまま野生化しそうな勢いである。
数多く手に入る昆虫類からはわずかなりとも水分とたんぱく質を摂取。脂質と糖質の摂取はさすがに現状なかなか困難である。地衣類からはそれなりの水分とミネラルが得られる。ひとまず生き延びるのには最低限の養分ではあるが、王妹はその摂取にほぼ成功していた。
が。
普段ふわふわの白パンにバター。たっぷりのミルク。食べやすくカットされ、繊維質の部分を取り除いたフルーツなど、消化しやすく栄養価も高いものを食べなれている王妹の胃腸はまるで根性がなかった。
明かりの見える方向ににじにじといざり、脱出を試みる王妹の努力を、自らの内臓の反乱が容赦なく踏みにじる。
尾篭な話ではあるが、王妹は嘔吐下痢の前触れとなる悪寒に襲われた。背筋が凍るような感覚とともに全身に鳥肌が立ち、きりきりと差し込むような腹痛、妙な味の唾液、冷たい発汗。
王妹はそんな体をだましだましゆっくりと光の方向へとはいずって進んだ。
しかし、光差す回廊に出たとき、その光源のあまりの小ささに、王妹は愕然とした。
光は通路の上部にある狭い穴からわずかに差し込んでいた。だが直接外を視認できる角度ではなく、床と平行な短い横穴がわずかに伸び、その先でゆるくL字に伸びて外とつながっている様子。その穴は王妹が立ち上がっても頭の上に位置するため、穴からの脱出を試みようとすれば、最低でも自分の背丈ほどのフリークライミング技術が必要だった。もちろん王妹にそんな便利な技術はない。
だがしかし。なるべく早くに再び文明の光さす場所にたどり着き、しかるべき場所へと赴かなければ王妹の自然な欲求は暴発すること確実である。きりきりと腹を刺すような痛みは断続的に襲ってくる。その痛みは次第に下へと降りてきている。
考えてみればここまで野生化した食生活を送るものに文明の光さすしかるべき場所は果たして必要なのだろうか。光の差さない石組みの通路は天然のレストルーム足りえるのではないか。その日一日くらいはかなりヤバめの空間になることは必死であるが、自然のものを自然に分解するあれやこれやの生き物、微生物などはわりと生息してそうだ。
そこまで考えて王妹はびしっと自分の頬を両手で叩いた。
「ワタシ、ニンゲン、タブン、ブンカテキ」
嘔吐…はなんていうかそれもできればしかるべき場所でしかるべき処置をされるべき失態ではあるものの、いっそくとびに「おもらし(大)」は心理的障壁が高すぎた。その間を取り持つ「おもらし(小)」はあまりの水分摂取量の不足により困難である。
「いやいやいや…、こんなところで排泄物についての考察をしている場合じゃありませんわね。ひとまず昆虫主食の現状から抜け出すためにも光のほうへ…」
気を抜くと朦朧とする意識を奮い立たせて、王妹は穴の真下までようようたどり着いた。壁に体重を預けながら立ち上がり、穴までの距離を探った。
穴のふちまでは王妹が背伸びして伸ばした指先からさらに上へ50センチほど。体をそこまで持ち上げようとすればやはりクライミングは必修である。王妹は、擦り切れてぼろぼろになった華奢な室内履きを見る。足を保護するためには必要だが、ぬるぬるした石組みを上るのには向いていない。王妹は思い切って靴を脱ぎ、細いつま先を石組みの隙間に差し込んだ。ぐっと体重をかけると石の凹凸がやわらかいつま先に食い込む。もう片方の足も同様に石の隙間にかけて体重を分散させる。
遅々としたスピードではあるが、のばした両手を穴にかけて四点で体を固定すると、垂直クライミングは決して不可能ではないと思われた。
じわじわと足場を変えながらほんのわずかずつ体を引き上げ、穴のふちをつかんだ手は穴の奥へと伸ばされ、ようやくひじまで入り、指先より体幹に近い肘で上体を固定できると足への負担はやや軽減された。
粘液を分泌するタイプの地衣類で滑りやすい石組みに慎重に体重をかける。この調子であとわずか、体を押し上げて上体を穴の中に突っ込むことができれば、胸から腹にかけて、面で体重を支えることができる。上体が理想的なポジションに収まるまであとわずか。あと一段石組みを上ればずいぶん楽になる。
と、そこでやはりアクシデントは起きてしまうのであった。
ビシィッ!
かそけき音がした。
その音は王妹の脳裏を閃光とともに焼き、突き抜けた。それはなにかが強い結合を無理やり瞬間的に解かれるときに発せられる音。
無論王妹は何が起きたのか一瞬理解できずにうかつに体を起こしかけた。
そこで上体を浮かして足に全体重をかけると、左足に激痛が走った。その痛みは王妹の背筋にぞわりと何かがはいずるような独特の不快感を与えた。いうところの総毛だった状態だ。
痛みと、それに伴う奇妙な悪寒に耐えながら、王妹はずりおちかけていた体を腕の力でかろうじて食い止める。穴の奥へ手を延ばしつつ、何が起きたのか把握するために先ほど激痛が走った左足をゆっくりと動かしてみる。
王妹は声にならない悲鳴を上げた。
つま先から足の甲、ひざ裏を通って尾てい骨からまるでハンマーでガンガン殴られているような衝撃が走る。さらに骨盤、背骨、延髄、そして脳へと痛みのリレーは神経伝達の速度で瞬時に伝わる。瞬間的な痛みが間をおかず繰り返されることで一瞬の痛みはある程度の時間持続する痛みとなる。痛みは鼓動でリズムで、だから痛みの通路は打楽器で…。そんなとりとめもないことを考えてしまうほどかなりレベルの高い痛みである。
痛みは灼熱の塊のようになっていて、左足のくるぶしから先はどれも同じような感覚しか伝えてこない。だが不自然な体勢下では自分の足を見ることすらままならない。
左足は足場を失って宙にゆれているようだった。つま先が熱い。ぬらぬらした液体にぬれているような感じもする。痛む足をさらに酷使する勇気は王妹にはなかったし、痛んでもおのが主人の意図を汲んである程度の体重を支えようという気概が王妹の左足にあるよしもなかった。
左足を注意して岩場から離して、かつ両手と右足でこの穴を攻略しなければならない。それはかなり存外アクロバティックでトリッキーな筋肉の動きを必要とする。くの字に折れ曲がったからだから足を宙に引き上げる腿裏の強靭な筋肉、そしてその足の重さでバランスが崩れるのを防ぐためにしっかりと背筋で重心の位置を体幹からずらさないよう固定する。そしてさらに前進…ともなると使える筋肉は総動員である。
ちなみに筋肉の使い方とか筋肉を使う練習とかそういうのは一切王妹の経験には含まれない。彼女が使う筋肉は、笑うときの顔の筋肉、そして椅子に座るときにひざとひざをくっつけるための筋肉、残りは生命維持に必要な不随意筋くらいのものである。
「なぜ?どうして私がこんな目にあわなければなりませんの?」
王妹はなんだか自分がやけに不幸続きなような気がしてきて、一瞬ここで心がなえそうになった。最低限の教育は受けたが武芸などは王族の女性としてふさわしくないと一蹴された。サバイバルな訓練などやったこともないし、そもそも強い心…などというものを持てといわれたことはない。むしろやわらかくやさしくたおやげにあればなんかいいことあるかもね…という教育しか受けていない。
もっと以前に心が折れていても不思議ではない状況である。
不自由な姿勢ながらも、ようやく穴に体を引き上げ、足の状態を確かめてみると。
これで折れない心ならむしろ折ってやるのが身のためかもしれない。ここでくじけて生きることをあきらめたほうが総合的にいろいろとましかもしれない。
王妹は左のつま先を見やりながらそう考えた。
左足の親指の爪はきれいさっぱり根元からはがれ、かろうじて付け根のわずかな部位でつながっていた。ぶらりと垂れ下がった元爪と、ざくろのようにはぜ割れたつま先の肉が視覚的にも王妹の生き延びる意思を砕いてゆく。
「これは…あれだわ。なんというか…あえて感想を言うなら、もういっそ爪まるっとはがれてしまってた方がよかった気がするわ…。あとなんだか不思議ね、いままで経験したことがない痛みってとってもびっくりするけれど、それが痛みである限り、私が人である限り、時間の経過とともに慣れるものなのね…。痛いことには変わりがないけれど、とりあえず客観的な意見をつぶやけるくらいには慣れるというか、あー、もしかするとただあまり深く考えたくないだけなのかもしれないけど…」
ひとしきり現状を愚痴った後、瞑目して現実逃避に積極的に移行しようと試みるも結局痛みが王妹の意識を現実につなぎとめる。
「やっぱり…やらなきゃならないのかしら」
つま先を見やってため息をつく。
治療は実のところ新たな傷みを確実にもたらす。だが治療しなくてはここから動けない。王妹的にはもうここでゲームオーバーでもいいかなあ…とすこしやる気ゲージが無気力に傾きつつあるため、積極的に生きる努力をしようとする気合にやや欠ける。
「あっ、良く見たら人差し指と中指の爪も半分めくれてる…しかも苔と土めっちゃ噛んでる…」
ささっと血をぬぐって清潔な布で覆う…くらいではちょっとおっつかない予感に王妹は顔をしかめる。できれば泣きたいところであるが、涙というものは思ったより簡単には出てこない。というか多分干上がりすぎて涙出してる余裕がないというほうが正しいかもしれない。
「せっかく外に出られたと思ったのに…結局ここに足止めされるのかしらね」
王妹はさっくりと移動をあきらめるが、実際のところははっきり言って、動けなくなるほどの傷ではない。戦時中の兵士たちのそれこそ背を割られたり腹を付かれたり手足を失ったりなどという重症に比べたら王妹の傷は傷のうちにも入らないのだが、怪我や痛みとは縁のない暮らしをしていた王妹は自分的初めての大怪我に、早々に移動の見切りをつけてしまっていた。
「せっかく外に出られたのにねえ…ってあれ?外?」
ふと頭上を見やればもう天が見えた。ゆっくりと見回せば、これまで這いずってきた横穴の狭さは何だったんだと思わせるくらい開放的な縦穴。多少角度はあるものの、身を乗り出せばそこはもう外である。少なくともさんさんと日差しが降り注ぐ石畳がそこには広がっていた。
ぐるりと一面同じ材質の石垣で隙間なく塗り固められている。もっとも経年劣化で石畳の隙間からは生命力旺盛な野草がわしわし生えてはいたが、もとは水をも漏らさぬ緻密な石組みだったのだろうと思われる。
やや視線を上方に向けると朽ちかけた石柱、瓦礫、そこに文化の香りはわずかながら残ってはいたものの。
「遺跡…?」
古代に今よりも優れた文明を持っていたとされる謎の文明が残した遺跡。現在では自然と一体化する一歩手前であるのだが、奥ゆかしい現代人たちは、「先祖かもしれない人たちがせっかく作ったものだから…」と積極的に取り壊すでもなく、かといって文化財的に保護するのも「あまりにたくさんあって面倒だから…」と荒れるに任せている。時代の流れによってはときたまうまいこと祭祀の対象としてあがめてみたり、どうもあんまりご利益はないようなので文化財として価値がないかと調査してみたり、調査隊は謎の失踪に遭ってみたりと、関わってもあんまりいいことはないのでいまのところ立ち入りを制限した上で保存の名を借りた放置路線をたどっている。謎はつきぬ存在だがとりあえず遺跡と名づけて保留、もしくは一風変わった自然と同様に認識されている。
「で、この出入り口のないおわんの底みたいな建築はいったいどういった趣向なのでしょうね。実用より装飾、利便性より娯楽性を重視したといわれているご先祖様たちはいったいここで何がしたかったのかしら…」
おわんの底をじっと観察すると、ある一定の高さにそろえられた石柱の残骸が散見する。中央付近に大き目の残骸があり、そこを基点に謎素材でできたパイプがあたりにばら撒かれている。
それは大掛かりな噴水と、水面を歩くように作られた遊歩道が組み合わさった水上庭園だった、というのが数少ない遺跡研究者たちが出した結論だが、遺跡事情に詳しくない王妹にはそこまでの推測は不可能であった。
「でもまあ…多分、池?的ななにか?」
それでも結構王妹の推理はいい線をいっていた。
目を凝らせばおわんの底には同心円状に黒い汚れがある。それは、徐々に下がった水位を示すようなそんな暗示的な線であった。
「そういえば…ここのところ好天続きだったわね」
王妹はいまさらながら自分の地下迷宮の逃避行がとてつもない幸運の上に成り立っていたことを理解した。王城から伸びる現在使われている地下通路はかろうじて排水処理がなされているはずだ。さもなければいざというときに雨天のため順延となりました…が永遠に延期となりましたになってしまう。しかし途中から迷い込んだ古道はおそらく雨が降れば水につかるだろう。網の目のように張り巡らされた地下通路は複雑で、雨水の流れはところによって人一人簡単に押し流してしまえるくらいの勢いになっていた可能性もある。
「でも、もしそうなってたら少なくとものどの渇きだけは癒せたはずですわ」
のどの渇きとともに人生もジ・エンドとなっていた可能性が大ではあるが。
「のどが渇いていて池の近くに出られたことはラッキーなのかもしれませんけれど…池は水があってこそ池なんですわ。水枯れした池の底に出たってなにも解決してませんわよー」
思わず王妹は叫んだ。
出口が見つかり、生存の可能性が高まった…という期待が大きかっただけに現実の落差はつらい。
「まあ手の届く範囲の草の量と種類は増えましたけど…。でも人間って多分雑草が主食ではありませんの」
そして昆虫も普通は主食ではない。
思わず手近な場所に生えている草を腹立ち紛れにむしりまくってみた。
げこっ…。
「たんぱく質ゲットですわー!」
王妹はこの短時間の間でかなり研ぎ澄まされてきた反射神経を駆使して石の隙間に手を伸ばす。
折からの好転続きに干からびかけてはいたが、それなりに英気を養おうと地中で懸命に生きていたけなげな蛙は哀れにも、生きながら咀嚼されるという結構不幸な死に様を迎えた。
「昆虫、哺乳類、爬虫類ときてとうとう両生類きましたわね。これで進化の系統図は網羅したかしら」
残念ながら魚類と鳥類がかけている。
「あら、なんだか生きる気力がちょっとだけわいてきましたわ」
王妹のつぶやきに呼応するようにごろごろと不穏な音が響いた。それは内臓の反乱的な何かではなくはるか遠くから聞こえてくる。
あっという間に一点掻き曇る。
王妹の腹痛は押し寄せる残酷な現実の前にいつの間にかうやむやにされていた。そして湿った風が次なる難関を示していた。
「そうきましたかー」
お湿り程度の雨はむしろ望むところだが、もしここ数日の降雨量を平均化させようともくろむ天地の理が遺憾なく開放された場合、ため池の底で迎える一日はちょっとといわず割と、かなり、デンジャラスゾーンな予感がしないでもない。
「くるならこいですわー」
やけくそで叫ぶ王妹の頬を大粒の雨が叩き始めた。
「む?」
イルシアの鋭い感覚が、大気の状態の変化を悟った。
ロキスタの薦めに応じて王都周辺に点在する実り豊かな森で優雅な狩猟を計画していたイルシアは、数名の部下をつれて狩場の下見をしていたところだった。ナタデココ一号は無視して、任務である彼らのハンティングに沿うよう、それぞれが指定した食材があるかどうかが問題となってくる。
また、どういった獣がどのあたりに潜んでいるか、または森の地形によって、装備などが変わってくるため、初めての場所での狩猟は下見が肝心である。
都会育ちのシティボーイにはそういった調査は向いてない。なので下見には特に猟師や山間部出身の部下をあてている。調査は速やかに済むはずであったが、その中の一隊の帰参が遅れていた。
山で生計を立てるものならこの雨の前触れに気づくはずである。あえて探索を続行させていると考えるのは無理がある。なんらかの事故の可能性が高い。
「第三部隊はたしか南西方向の探索にいっていたな」
「はい、森の南西は地元の人間もあまり立ち入らないような場所だと漏れ聞いてますので、この際きっちり調査すべく腕っこきの猟師や山師やきこり出身のやつらを集めてあります。部隊中一番正確な調査が期待できるやつらであります」
「ふむ」
なおさら遅参の理由がつかめず、イルシアは集合場所である天幕付近に戻って情報を集めることにした。
第三部隊の捜索のための部隊を新たに編成して派遣するかどうか悩むイルシアの元に一騎の兵が戻ってきた。
「ご報告さしあげます!自分、第三部隊に所属するフォロドと申すものであります。イ、イルシアミっ…ミスル様におかれまひては…もとい!閣下の壮健なるお健やかなご尊顔を拝し、えーと」
「テンパってるのか報告する気がないのか天然なのかキャラ作ってるのか」
「こいつ、ただのバカです。脳筋です」
「そうか、フォロド、要点を三箇所簡潔に言え」
「枯れ井戸に落ちたアホを救出しようとしたら変なもん見つけました!」
「よーし、いい感じにおバカ確定な表現だぞー」
「へいっ!お任せくだせえ!」
「わかった、帰れ、すみやかに」
「はっ」
実直に回れ右する脳筋一号。
「…よろしいのですか?」
報告のために本陣に帰参した脳筋兵を再び調査地に送り込むのは、正確な報告が遅れる恐れがある。それを踏まえてイルシアの副官はついとメガネに触れて位置を正した。イルシアの副官、カレドラセルがメガネ関係をいじるのは上官に「それってどうなの?」的な苦言未満、スルー以上の状態のときである。
「あの手の脳筋は現場で一番いい働きをする。ちょっとしたアクシデントが起きているようだから人手はあったほうがいいだろう」
「…まあ、悪くない判断なのでしょうね…しかし閣下自ら赴かないので?」
「おまえおれをなんだと思ってる?」
「脳筋二号」
「即答かよ!そしておれのが後発かよ!」
「冗談はさておき、閣下の性格からしてご自分で出向かれるのが一番手っ取り早いとお考えでしょうね。でも雨も降りそうだしさすがにある程度の規模の隊を指揮する司令官としては軽挙妄動を慎むべきだという理性も微妙に働き気味で…。でもまるで閣下を誘うかのように問題の方面には謎の廃墟や地元の民も近づかないなにかがあるらしい。そんな悪魔の誘惑に心動かさずにいられれる閣下ではないことはもう存分に承知しておりますとも。そうしますともうご命令など聞かなくてもわかりますのでとりあえず濡れないうちに供回りを連れて出発されてください」
「…どっかの部隊もそうだけど、有能な部下一人いると上役いらないよな」
「いえ、わたしみたいなタイプには下がついてこないので適材適所です」
なんのかんのといいながらもノリノリのイルシアはすでに馬上の人となった。
「よし、あくまで軽い現場確認だ。行きたくて行くんじゃないぞー、状況的におれが行ったほうが指揮系統の混乱が最小限ですむと思うから行くだけなんだ、他意はないんだ」
言動から他意がだだもれである。
だが身軽な支度で馬を翻すイルシアは、建物の中で書類片手に事務作業をしているときよりはるかに輝いて見える。
この落差が見たくてカレドラセルなどはイルシアが嫌がるのをわかっていてわざと内務を組み込んだりもするのだが、むろん罪悪感は一切ない。自分の忠誠度をアップさせるための当然のご褒美と思っている。打ち続く内務に無表情のしたでもにょもにょ駄々っ子な一面を抑えているイルシアを見ることが副官のひそかにして唯一にしてそして最大の娯楽である。峻厳で怜悧な自分の副官がたまに謎の微笑を見せる理由をイルシアは知る由もなかった。
「では本陣はカッレ、お前に任せたぞ」
「はいはいいってらっしゃい」
意気揚々とフォロドの去った方向へ馬を向け、振り返ることなく馬を走らせるのも、本陣をカレドラセルが守っているという信頼からくるものである。
ほんのりと自尊心が満たされるのを意識しながら、カレドラセルは主の背を見やる。
「ふにゃふにゃしたヒョロい田舎貴族のメルトーヤ様よりずっといじりがい…もとい仕えがいがあるのに、なかなかうまく転ばないもんだな」
クーデターめいたものを計画した上でイルシアは次期政治体制の長としてメルトーヤを戴くことを選択した。適材適所だとはわかっていても、副官の心境はとても複雑なのであった。
「えっ!?ええーっ!?」
あまりの驚愕にほぼ素の状態になったロヴノールはただ疑問符を繰り返すしかできなかった。気の利いた受け答えも学術的な分析もなにもかも意識のかなたにすっ飛んでしまっている。
「やっぱり驚くよな…うん」
驚愕の事実を告げた当のメルトーヤは改めてロヴの反応に軽くうなづいて同意を示す。
驚愕の事実とは、王家に縁もゆかりもない地方貴族であるメルトーヤが魔術を使えるということ。それはこの世界の理としてありえないことといえる。
「まーね。王族でもないのに魔術使えるとかどう考えてもありえないよな」
「ありえないっていうか、それ魔術?ってか予備軍の才能が開花したとかそういうオチ?」
「そっちの予備軍はずいぶん昔に退役したからそれはない。あと、母にずばりと事実を告げてみたけど真顔でないない言われた」
「ガラス張りの親子関係にちょっとほっこりきた」
「王族の血を一滴でも入れたら魔術が使える。それはそれで動かせない事実だよね。でも逆もまた真なり。王族の血が入らなければ魔術が使える道理はないわけよ」
「もしや、ニュータイプ?」
「どうしてもそういう方向性に結論付けたいみたいだなあ」
「いや、でもさあ…」
ロヴノールは言いかけてふと考え込む。
「そういや叔母様のとき長老連がなんか気になること言ってたなー」
「なんて?」
「たしかおれのかわいそうな記憶によると、取替え子がどうのとか」
「取替え子?それって妖精がこっそり自分たちの子供と人間の子供をすりかえるっていう民間伝承のあれ?」
「いや、わっかんねーし。おれ的専門外だし…。」
「…魔術が使えない王族と魔術を使える貴族。これってまさか、そういうことなの?」
「さー。そのころ長老はお前の存在なんか知らないはずだし?でも王妹の誕生がなにかの予兆だって言う一派が確かにいたよーな気はするなー」
「民間伝承とはいえ微妙にこう、もにょもにょっとした符号がある感じでわきわきするね」
「あー、ニュアンスで語られても…。でもまあそんな感じだな。びみょーになんかあるよな。ここまでひっぱっといてただの偶然ですとか世界の運命つむいだ責任者出てこいよって感じだよな、うん。…常に無く先の読めないこんな状況でおまえ、どーするつもりなの?」
メルは軽く肩をすくめる。
「政権交代しかないじゃん。この状況。それ以外にあるならおれのが聞きたいね」
「やー、そんな面倒なことしなくてもさ、先王の落とし子です。正統です!とか主張して王の首だけすげかえるとかさー、そんなんでいいじゃん。なにも現在の体制全部壊さなくてもさー」
「ロヴおまえの言う王の首ってのはお前の父の首なんだぞ。もすこしオブラートにくるもうか…」
「いやいや、こんだけぶっちゃけた話してる時点でそーゆーオプション外したから。だいたいメルはさ、王なんかになりたいの?べっつにたいしたもんじゃないよ?それなりに仕事あるし、面倒くさいよきっと」
「あー、うん」
メルは眉間をもみこむとちょっとだけ表情を硬くした。
「ちょっと真顔で話させてね。あのね、あんたら王族の統治、すっごいめちゃくちゃ。民的にはそろそろ我慢の限界とかそんな感じなの、知ってた?」
「え?そーなん?」
ロヴは軽く流した。彼にとってそんなことは重要な問題ではないとでも言いたげである。だがそこを正すために立ったメルは自らの主張をここで改めてきちんと王族の一員に伝えておきたかった。
「あのさ、ちょっと前に王がメヒスアルワの植民地だったギーヴリアを取ったじゃん。あれってさ、国と国との間の約束事とか全部ガン無視でさ、言葉は悪いけど切り取り強盗とか諸国に言われてるの知ってる?」
「うん、知らないし、興味もない。だいたいなんでうちの王はそんな辺鄙なとことったんだろうね」
「お気楽だね。そこらへんがちょっと問題なわけよ。いきなりそんな問題の土地に封じられたうちなんか非難の矢面に立ったさ。地付きの民は抵抗するし、入植するうちの民は虐げられるしさ。そこをホントの夜盗がめっさ押し寄せてくるしさ、治安最悪。だいたいギーヴリア取ったのってアレだろ?南方の蛮族や北方の騎馬民族とかから収穫を掠め取られまくってさ、それに対する措置も何もなしで放置。弱ったトコをほかの国から切り取られて肥沃な耕地がどんどん減ってった。その減った分を取り返そうとぜんぜん関係のない土地を獲得した。こんなめちゃくちゃ、文化的国家の名折れだよ、あんたらの政治はさ、とにかく大雑把なの。しわ寄せは民や貴族に直でくるの、そこんとこわかって欲しいのよ」
メルにしては珍しく長広舌である。しかしメルの論は多くの民や貴族の代弁でもあった。浮世離れした王族はうつしよの細かいことにはあまりこだわらない。そのせいで深刻な問題が発生してしまっても気にすることもない。
長い期間、統治することになれ、ぼこぼこ沸いてくる諸問題は無視していればいずれ消えてなくなる。怠惰、無関心、それが王族の慣わしとなっている。
「んー、でもさ。おれら、結構長いこと統治してきたじゃん。そりゃ長いこと治めてりゃいざこざのひとつやふたつおきるさ。なんだかんだで続いてんだぜ?いまのごたごただって百年たてば消えてなくなってるって。体力とか知力使って改革とかしなくてもそれなりに可もなく不可もなく生きてくことに満足してくれりゃこのままの統治で問題ないじゃん」
「んー」
メルは微笑みながら困ったような表情を浮かべた。
「こっから先はちょっと専門的な話とかになるし、うちも副官とかと話さなきゃだし、なにより君らのね、長老とやらにも話を聞きたいんだよね。まあ…実際クーデターかますかどうかはその意見交換会如何かな。確かにこれまでの王族の統治に問題があるのは確かでそれだけでも十分クーデター起こす理由にはなるんだけど、じつはもうひとつ理由があるんだ」
「ふうん、なに?」
「うーん、まあそれがねえ。ちょっと結果待ちというか、まだ公表する段階じゃないって言うか」
ロヴは首をかしげる。
「はあ?ここまできてその及び腰はなんなの?」
「うーん、なんて言ったらいいのかなあ。確かにこれまでこの国は君らのいい加減統治でも余裕でやってける国力あったのは事実だけど。…その国力、ここ数年で顕著に落ち込んでるんだよね。一時的なものならまあ思い過ごしかもしれないけどさ、おれの異能とかも含めてさ、なんかの前触れかもって気がするんだ。それを知るためにも行動を起こしたわけよ。実のところ情報はまだ出揃ってないんだけどね。王妹殿下もはりきって見つけてこなきゃいけないし、王族の実態も知りたいし。それによっておれらの仮説裏打ちされればおれらもやっとまともに動けるんだよ。いまがそのときなのか。それともまだ時間は残されているのか。おれは次の一歩をどこにおけば生きていられるのか…」
「ちょっと話通じないんですけどー」
「こっちも断言はできないんだ。悪いね。ただ、古事に詳しい長老を何人か、そちらで選んでもらえるかな。いろいろと聞きたいことがあるんだ」
「んー、爺ぃども、おれ苦手」
「いま職人にガトー・オ・ショコラとミルフィーユ。クロスグリのタルトを焼かせている」
「あいあいかしこまり!古事に詳しい長老三名ですね!ご一緒にポテトはいかがですか?」
「それ自分が食いたいだけだろ」
ロヴは無言で期待に満ちた目を向ける。
「あー、わかったよ。先に極上スイーツと各種紅茶でハイティーにするか…」
職人に追加で焼かせるケーキのレシピを考えていると、開いていた窓から白い伝令用小鳩が飛び込んできた。
足環にくくりつけられている小さな紙片を取り出して細かい文字を追う。
「なんか見つけた。わかったらまた連絡する。メルへ。シアより」
メルは何度も読み返した。何度読み返しても文章はそれ以上でもそれ以下でもない。
「…なにが言いたいんだこれ。あいつ、久々の外周りで浮かれてんのか?」
外を見やると暗雲が近づいてきている。
メルは窓を閉め、鳥を鳥かごに入れてレシピの続きを考えた。
「なるほど、これはたしかに変なもんだな」
「でがしょ?」
枯れ井戸の底、ランタンに火をともして暗がりを照らすイルシアはなるほどとうなづいた。脳筋の案内で井戸の底におりると、石組みが崩れて奥の空洞に崩落しているのがわかった。奥にはなにがあるかというと…とりあえずなんらかの通路と思われるその古びた石組みの隙間に、女物のあでやかな髪飾りがきらりと落ちていた。
ついでに周辺を捜索すると、長いこと使われず、細かいちりや砂で覆われた床にてんてんと小さな足跡があった。その足跡の上にはほこりもつもっておらず、かなり新しい足跡だということがわかった。
「なにかというよりあれだな、王妹の足跡だな」
イルシアは髪飾りの細工の上等さをさわって確かめ、こんだけ状況証拠がそろっていてこれがただの村娘の足跡とかだったらそんな世界とは進んでおさらばしたいと思った。
イルシアは枯れ井戸の上で待機している部下たちに下から声をかけた。
「どうだ?雨は降ってきたか?」
「いえ、まだです。ですが秒読みです」
「雨で足跡が消える前にたどるぞ。誰か明かり持ちについて来い…そういえば、うちの部隊にはこういう追跡が得意なやつがいたな、レンジャー資格を持ってるとか。そいつはどうしてる?」
「あいつならナタデココを探しに南方へ向かう船に乗るため港まで行きました」
「肝心なところでクソ使えない部下もいたものだ」
フリーダムな命令をだした自分を棚に上げて苦い顔をするイルシア。
「まあ、追跡スキルなら猟師出身のヤツでも十分だろう。王宮からの距離を考えればそう先まで行くこともないだろうしな…」
死ぬ気で逃亡する王妹の移動能力をやや楽観的に見積もって、イルシアはそう結論付けた。実のところ迷宮の入り組んだ通路を抜けた王妹の移動距離は直線に換算するとかなりのものとなる。パニックのバッドステータスは逆に言えば火事場のクソ力的な働きをするため、集中が切れた後の疲労はハンパないかわりに常識外の能力を発揮する場合が往々にしてある。
しかしそんな事情などつゆ知らぬイルシアらはこの先すぐにでも王妹が見つかるだろうとの予測で穴の奥へと向かった。
「それにしてもこの地下道はそもそもなんだ?ずいぶん古いものではあるようだが…」
古くて現在使用されていないことは確かなようだが、そもそも人気のない森の地下に石組みの通路がある時点でかなり奇妙だ。上水や下水などに使用するのであれば市街地の地下に作るはずだ。王都が砂漠地帯であればまあ遠くから水を引くこともあるかもしれないが、市中を川が流れているのにわざわざ遠くから水を引いてくることはない。
「これは、遺跡関係かもしれませんね。建築素材がレンガではなくて、砂漠の向こうで取れる珍しい玉石を使ってます。あの石をここまで規則的に整形する技術はすでに失われて久しいのに、ここではふんだんに使われていますから…」
「なるほどな…遺跡か。だが遺跡なら遺跡でまた面倒だな。たしか地元民がここらに来ないという報告は上がってきていた。それの理由が整備されてない遺跡が近くにあるからだとすれば納得はいくな。その遺跡はここからおよそどのくらいの位置にあるのか正確なところが分かればな…。まかりまちがって王妹がそこまで逃げ延びたとしたら、捜索する側からするとかなりの不利だな」
「入らずの森と呼ばれる区域が南西の森の奥にあるのですが…」
王都周辺の地理に詳しい部下の一人が口を開く。
「一応その森の奥に通称池の遺跡と呼ばれるものがあるそうです。名前の由来まではわかりませんが、地元民の話ではほかの遺跡より危険なのだそうです。ですから立ち入るものもおりませんし、詳しいことはわかりません」
先行きの不安が出てきたことで、なんとなくその場に沈黙が落ちる。
「…どうも雲行きが怪しくなってきたな。いや、地上の天気のことじゃないが」
「それに同意しつつ、地上の雲行きもすでにもうタイムリミットかと存じます」
ランタンを掲げ、岩肌に触れるとじっとりとした湿気が感じられる。地上ではすでに雨が降り始めているものとみて間違いはないと思われる。雨の規模にもよるが、この地下の構造が未知である以上、危険は冒せない。
「ここまできて決定的な収穫はなしか…」
イルシアは髪飾りを握り締めて嘆息した。
「雨が通路に流れ込んでくる危険、そして謎の遺跡に近づく危険…。だがここであきらめてしまえば手がかりは失われてしまう」
「申し訳ありません、われわれがもう少し早く王妹の手がかりを発見できていれば…」
「悔やむな、努力ではいかんともしがたいことがある。たとえばうっかり王妹の逃走ルートにつながる枯れ井戸に落っこちるとか…。ふむ、考えてみればちょっとした僥倖がわれわれを見舞ったともいえるな。少なくともここを王妹が通過した可能性が高いことがわかった。それがわかっただけでもよしとしよう」
「では?」
「うむ、引き返すぞ」
実のところ、王妹の現在地は枯れ井戸から一キロと離れていなかった。イルシアがあと小半時も捜索を続けていれば見つかっていたはずの、ほんの彼らの目と鼻の先にいたことになる。
王妹は自分の首の皮が運命の女神の気まぐれで皮一枚つながったことも知らず、叩きつけるように降り始めた雨に毒づくのが精一杯であった。
「ロヴ、なんでおれに魔術が宿ったのか、お前ならどう思う?」
メルはロヴを個室に招いた。小さな部屋だが暖かいアイボリーを基調とする室内装飾が部屋をあまり狭く見せない。むしろ閉塞感よりも、心地よいプライベートな空間にいるような気分で、そうなると多少の狭さがむしろ心理的な安堵感を与えてくれる。
「さあね、本気で回答しようと思うなら始祖魔術師の謎から解明しないと答えはでそうにないね」
「ロヴがめずらしく物事の重大さを正しく認識しているようでうれしいよ」
「え?めっちゃあさっての方向にボール投げてみたんだけど」
「それがストライクとか、どんな方向感覚してるのさ」
「待ってよ、始祖の伝承とかほとんど残ってないのよ?どうやって謎を解く気?」
「手がかりが完全に失われたとは思ってない。魔術を得た身として、これまでひそかに魔術の仕組みについていろいろと実地で検証をしてみた結果仮説めいたも推測ならできたさ。おそらくそこが足がかりになってくれる予感がする」
「そんなんで始祖の伝承に迫れるかなあ」
「始祖の謎説きがそのままおれの存在の謎を解くとは思ってないけど、おれの存在を含めてさ、この国には奇妙なことがたくさんあるよね。一番奇妙なのはきみら王族と王族が使役する魔術なわけで」
「これってそんなに奇妙?」
「国内にいてはあんまり当たり前すぎてわかりにくいかもしれない。でもおれメヒスアルワに留学してたこともあってさ、まあ外から見たこの国っての、ある程度客観的に見ることもできるのよね」
「メヒスアルワにも呪術師とかいるらしいじゃん」
「うん、だけどあれは原始的な宗教観と多彩な薬草と地味な心理学が組み合わさったものだ。できることといえばせいぜいが、司祭が命張って雨乞いの踊りを踊って低確率で雨が降るくらいのものでさ。それでも呪術として成立してるのは、雨が降らないのは司祭が呪術に失敗したせい。呪術自体の否定にはつながらない論理を確立してるからなんだよ」
「うん、理解不能。続き頼む」
「えーとね、つまりなんていうか。まああっちでは、どのみち摩擦によってしか炎は生み出せないわけよ。こっちみたく、何もないとこからあっさりファイヤボールとかライトニングボルトとか出せないの」
「おれたちの魔術とメヒスアルワの呪術は別物だってことかしら」
「そこが理解できれば十分。うん、そういうわけで、この国の魔術に似たものはメヒスアルワはもちろん、ほかのどの国にもない。ちなみに遺跡ね、あれもこの国だけにある。そして遺跡のロストテクノロジーの恩恵で、この国はほかの国に比べてはるかに文明の成熟度は高いんだ。それは技術力に顕著に現れている。他国にいってびっくりするのはさ、農業はただ平地に種をまくだけ。育つかどうかは天候任せこれ基本。建築なんて石組みはおろか、木と紙しか使わない国とか泥しか使わない国とかざらにあるし。上水と下水の概念もないね。それってつまりね、進化の系譜を基本とした発展と、この国の技術は異質だってこと。遺跡のせいっていっちゃえばそれまでだけど、この国の文明は異質だよ、どっかでショートカットしてる。そうそう…他国の神具みたいなのはほぼ確実にうちの国の遺跡からの不正規流出したガラクタが原型ぽい」
「待って…がらくたが神具って…」
「うん、そんだけの差があるんだよ、そしてその差がどれだけ異質なものなのかほとんどのひとは理解していないと思う」
「でもさ、変じゃない?そんなにうちの技術レベル高いんだったらたとえば作物は大豊作ってことにならねえ?」
「それがそうなってないから逆にこの国はすごく奇妙なの。大規模な灌漑技術や農地の改良、さらには品種に手を加えることすらできるだけの技術があるのに、この国の食料自給率はすごく低い。隣の国とそんなに自然環境は変わらないはずなのにこの国だけやけに旱魃や冷害が頻発する。たった国境ひとつ越えただけなのに、方やなんの技術も使わず自然のままに任せてそれなりの収穫がある。うちはあらゆる技術を駆使してもさっぱり採算が合わない。この国の大地はなぜか枯渇しきってるんだ」
「へえ…」
「これをみてよ」
メルはテーブルの上の花瓶を指した。みずみずしい水仙が生けられ、馥郁たる香りを放っている。
メルがゆっくりと水仙の茎から花びらへ指先を動かす。メルが触れたところから新鮮な水仙はみるみる干からびて色を失い枯れ果てた。
水仙に触れたメルの指先がほのかな光をまとう。
「実際に魔術をみせるのは初めてだね。いまおれはすごく限定的な魔術の使い方をしたからわかりやすく水仙は枯れた。けど同様のことがすべての魔術の発動の際に起こっているんだよ」
「えっとどういう?」
「うん、こう考えればつじつまが合うんだ。魔術はこの国の生気を奪って発動する…とね。そう考えればこの国だけ作物の実りが悪いのもうなづける」
メルの説明を真摯に聞いていたロヴはにっこり笑ってこう告げる。
「うん、さっぱりわかんね」
メルはまあ予想してたので肩をすくめて苦笑した。
「いいよ、ゆっくり話すから、それにしても…まあ、どう話したものかな」
メルはふいと表情を翳らせ、大きなゆり椅子に腰掛けた。重厚なオークのゆり椅子はどんな巨漢を乗せても気のすむまでゆれる所存と言いたげなくらいがっしりとして大降りである。華奢なメルにはサイズが合わないので、隙間を埋めるようにクッションがばらまかれている。そのうちのクッションのひとつをてすりにもたせ掛けてメルはそこに寄りかかる。ついでに足を引き上げてお行儀悪くひざを抱える。
ロヴはあたりを見渡して、適当な長いすに腰掛けた。
「王族はさ…実は異世界人だったとか言ったらどう思う?」
「さっきからわけのわからないことばかり言ってなにがしたいんだよおまえは」
「このね、王族に退いてもらう本当の理由、確証はまだないんだよ。これから裏づけするとこ。それにあたってはやっぱりこの疑惑伝えるべきかなあ。誰かに伝えるべきなのかそれともこのまま闇に葬るべきなのかちょっと判断に迷ってさ…」
「そんなん別にどっちでもいいし?」
「どっちでもいいってことはないんじゃないの?」
「いや真実を知ろうが偽りを鵜呑みにしようが猜疑に凝り固まろうがなんにせよどのみち今後の王族の末路見えちゃってるし?無力化されて幽閉されて、多分もとの暮らしには戻れないんだろ?おれらの統治に文句があるなら王の首すげ替えた後でいくらでも民衆に吹聴すればいんじゃね?」
「うーん」
いっそすがすがしいくらいドライなロヴの主張にメルは肯定とも否定ともつかない返事をする。しばらくとりとめのない考えをまとめるために思考を集中させているように眉根にしわを寄せて苦吟する。
「って…そういう煩悶もまあ似つかわしくないんだね実際」
それから宙に指を遊ばせて不思議な形を描く。
「ボー・エルント=ワズィ・ユ・エルント・ノマーズィ」
「なんか意味ありげな古語をつぶやいておれの気を引く気?」
「いや、意味とか知ってるかなって思って」
「一応丸暗記はさせられたけどさ、おれって必要ない知識維持しとくの苦手でね。あー、そんくらいの構文なら解読できんこともないけど?」
眉尻を下げ、片頬をゆがめてあらあら困った子ねえと心の声が聞こえてきそうなほどわかりやすいせせら笑いを浮かべるメル。そしてそれにイラっときてついまじめに古語を読解してみるロヴ。
「ボーは対を成す語句の等しきをあらわす前置詞。そんでエルントってのは民族。えーとつまり二つの民族は等しいってこと?王族と貴族とかわらねえって意味かなあ」
「はずれー」
両の腕を交差させて大げさにわかりやすく不正解のジェスチュアを掲げるメル。
「そこまでバカにされたらおれ辞書持ってきて調べちゃうよ?」
「ああはい辞書」
メルの人を小ばかにしきった態度にようやく怒り的な感情を見せるロヴに、さらなる怒りをあおると承知で古語辞書をひょいと投げ渡す。
「ざけんな、…一時間くれ」
「ロヴおまえどんだけかわいそうな頭なの?」
「各地で募金をつのるレベル」
「ものすごく貧しいんだね」
「察したら黙れ」
「やれやれー。でもこれくらいは知ってるよね。ボエルナ・ジ・ユルーネ・ジ」
「そこでなんで礼拝の言葉が出てくるんだ?」
「うん、実はさっきの古語とこの礼拝のときの決まり文句は同じなんだよ。祭祀が王族のみに限られるのもここに要因があって…」
「おまえさ、ゴリラに高等数式説いててむなしくならねえ?」
「自分をゴリラ以下って最初から認めて大丈夫?」
「カテキョの爺ぃ共のもろ手をカテキョに指名される前に全力で万歳させたおれだぜ?そんな益体もない話はそれこそ爺ぃどもにしてやれよ、喜ぶからマジで」
「ううん…話しとくべきかなあ」
「ぐっちゃぐっちゃ悩むなよな、マジうぜぇ」
「ここは悩みどころなんだって。変質した伝承を後生大事にあがめてる人たちに真実を伝えるのって親切かなあ」
「そもそもお前親切なの?」
「ひどい…でも確かに。おれそういやあんまり親切じゃないわ」
「だな」
あっさりと問題が解決し、メルの眉間のしわがきれいに取れた。
「んじゃさロヴ、さっきのアレ、お願い。長老さんたちとのティータイムのお膳立て。それである程度の手ごたえあれば、王族の主だったものを集めてちょっと斬新な研究の成果発表とそれに基づいた更なる真実の解明のための情報交換会を開くかな、それも人選お任せしちゃってよい?」
「うん、おれ不参加でいいなら」
いやいやいやいや…と、やわやわ拒絶しかけたメルの耳にノックの音が聞こえた。
「…いやいや?」
誰だろうとつぶやいたつもりのメルの言葉は心の声駄々漏れであった。
さらにノックの音が響く。
「メル?ここにいると聞いたんだが」
王と周辺の治安維持活動を兼ねた優雅な紳士のたしなみである狩りを満喫するはずだったイルシアは、まあ予定外のなにやらで部下ともども王宮に戻ってきていた。
「シア、ようこそおれの素敵空間へ」
「いやいや、ここって王の第二執務室なんだけど」
「ロヴ、良く見て。採光度外視の設計、明かりも少ないしなによりこの素敵椅子。どう見ても本来の用途、執務じゃないでしょ」
「メル、それが本音と建前というヤツだ。指摘すると野暮だといわれるぞ」
ここに来るまでに濡れた外套は脱いできたようだが、軽くタオルドライしただけのイルシアの髪はまだやや湿っている。同様に湿った上着を脱いでくつろぎモードに移行したイルシアは手の一振りでメルをゆり椅子から追い払い、心地よいくつろぎを約束する椅子にゆったりと体を沈めた。
「おー、ジャスト国王サイズ」
感心したようにロヴがつぶやく。これを常々利用していた王もイルシアも堂々たる偉丈夫。ちんまりと止まり木に止まっているかのように見えたメルと違って、イルシアのゆり椅子に座る姿はじつに堂に入っていた。
「…いや、王ってサイズで決まるもんじゃないから」
ちょっと拗ねたようなメルのつぶやきを無視してイルシアが外で起こった出来事を報告する。
「王妹、遺跡に逃亡か!?って見出しがつく感じ?」
イルシアの話を聞いたメルがざっくりとまとめた。
「その流れだと次の記事は、恐怖!!人が忽然と消えうせる謎の遺跡とか?」
ロヴも調子を合わせる。
「どうも巷ではそういう噂が流れているらしいな。調査隊を派遣できる場所じゃないから詳しいことはわからんが」
「遺跡は王の直轄になるからねえ…。そこらへん、王位第一継承者的にはどんな情報もってんの?」
「ゴリラ以下になに期待してんのさ」
「…そうだね、遺跡関係のこと、詳しいのってどの辺?」
「んー、三長老とか、あとは王も少しは知ってるはずだよ。あ、でも一番詳しいのは王室伝承管理部の方かも」
聞いたことの無い部署にメルとイルシアは顔を見合わせる。
「祭祀官とか式典官とかさ、儀礼やしきたりとか細かいのがいろいろあるわけじゃん?そういうのを一括して情報まとめてるのがその管理部ってとこで…。んでなぜか遺跡の管理もそっちの管轄なの」
それが本当なら、メルトーヤが限られた情報の中で出した仮定を裏付けるさまざまな情報がそこに埋もれているはずである。ロヴに対してはかなり吹いていたが、実際のところ現在メルが把握している情報は裏づけが不足している。自説を補強する事実があるのならのどから手が出るほど欲しいところではある。
「えーっと、そのなんとか部の部長さんて誰?責任者の人と話できる?」
「んー、現在桃花の塔の233号室でゾンビになってるパスィシル爺様だな、うん」
「よし会おう、いますぐ会おう」
いろいろ状況を整理する必要があるためイルシアとも情報交換しなければならないことはわかっているが、メルは自らの探求する智への執着に負けた。
そのとき、部屋のおくからごそりと物音がした。
ゆったりくつろぎモードでいた三人のうち、まず体育会系脳筋を代表してイルシアが、ついで頭脳派を自称するメルが、それぞれ立ち上がって剣の柄に手をかけた。ちなみにおぼっちゃん育ちで魔法以外使ったことのないロヴは長いすにくつろいだまま、視線だけ音のしたほうに向ける。
カーテンで仕切られた執務室の奥から物音は聞こえてくる。
「だ、誰だ?」
警戒心を持ち合わせていた二名のうち、やや心もとないほうが噛みつつ誰何する。
「うんむ?その声は、メルか?」
その声はメルにとって聞きなれたものであった。
「古今無双の脳筋、カンピオ将軍?」
警戒を解いて、メルがカーテンを引く。
執務室の奥にはでんと巨大なベッドが存在していた。ゆり椅子、長いすならまだなんとか言い逃れもできようが、さすがにベッドの存在はこの部屋の執務について王の正式見解を待ちたいところである。
そのベッドに身を起こし、ぐいと伸びをしているのはあやまたず、メルの配下のカンピオ将軍であった。
「塔内の見回りをしておったら持病の腰痛が出たもんで静養しとった」
ちなみに将軍に持病など無い。
「あ、えっと。そうでしたかすみませんはい」
なぜか部下に敬語のメル。
「なんぞ、よくわからぬ難しげな話をしておったな」
「あ、聞いてましたか、お耳を汚してしまってすみません」
やはり敬語。そして卑屈なメル。
「だがのー、233号室のな、あれな」
「将軍、もしかしてすでに確保ですか?野生の獣並みの第六感で彼が重要人物だとわかったんですね」
「んー」
メルのやや失礼な表現は気にも留めず、そして同様に情報を持つ人物の重要さにもまったく心を砕かず…。将軍はおもむろに言った。
「その者、わしゃ、折った」
「はい?」
なぜか三人ハモった。
「わし、三文字以上の言葉で理屈っぽい話されるとな、つい折ってしまうのよ。ぬはは、悪い癖だからまあ許せ」
「えっと、だからの使い方が将軍専用です」
決して間違っているなどといわないのがメルの賢明さである。たかがツッコミでも折られる可能性はある。となればツッコミの言葉も選ぶも道理であった。
ちなみに将軍の「折る」は「殺す」の婉曲表現である。脳筋なのに慎み深い一面もある将軍であった。というか婉曲も何も、その巨大な体躯にみっしりついた筋肉の量を思えば彼に折られても死なないのはすでに死んでいるものくらいだろう。メルなら将軍の親指と人差し指で簡単に頚椎を折られるはずで、イルシアですら将軍の鯖折をまともに食らえば窒息死をまぬかれない。
「おれの説の補強…はい消えたぁ!」
メルが現状把握してがくりと膝を突いた。
「ぬん?折っちゃあまずかったか?」
「いえいえいえいえ、将軍が折りたいと思ったのでしたら折りましょう是非」
いいつつうなだれるメル。
「一応葬る前に身包みはいできたがのう。がらくたばかりじゃ。みるか?」
「はい、見ます」
しょんぼりしながら将軍の戦利品を見るメルの目の色がみるみる変わった。
「これ、禁書館の鍵!こっちは祭祀場の鍵だしこれは…墓所の鍵!」
いずれも特定の王族しか入れない場所であり、そこに眠る情報の膨大さはメルが欲してやまぬものである。
小躍りするメルとそれを遠巻きに見るイルシアとロヴ。我関せずと再びベッドに横たわる将軍。
そこへ、再度ノックの音が聞こえた。
「メルトーヤ閣下、イルシア閣下、元第一王位継承者様、こちらにいらっしゃいますね」
凛とした声の響きはメルの副官のものだった。
「すみませんなぜわたしだけ役職名的なアレ?」
「失礼、王位継承権整理番号一番をお持ちであった方といったほうが正確でしたでしょうか。わたくし王室の作法には疎いもので」
問答無用でドアをあけて室内に入ってくるロキスタの威容に気おされ、ロヴは蚊の鳴くような声ですみませんでしたとつぶやき長いすに戻って負け犬らしくうなだれた。
「ぬ?誰かと思えば、ロッキーか」
「あら、あなた。こちらにいらしたの?」
「うむ、なかなかよいベッドがあってな。おまえもどうだ?」
「あなたったら、まだ昼間よ?」
このやりとりを聞いて脳内をフリーズさせてしまったもの約一名。
「…あれ?あの、もし。違ってたらすみませんがあの、おふたりは…その」
しどろもどろになりながら、ロヴは一生懸命回らぬ頭を回転させる。
「夫婦、ですがなにか?」
容赦なくロキスタは事実をびしりとつきつける。
「はいすみませんわたしは貝になりたい」
「誰も止めないわ」
慣れたとはいえイルシアですらいまだこの夫妻が会話している場面に出くわすと多少固まる。そしてメルは「美女と野獣というよりも鬼に金棒」などと余計なことを言ってはいつも三途の川を渡りかける。
「ロッキーの旦那さんがいい仕事してくれたんで、おれはこれから書物漁りなどにいそしみたいなと思う所存だけど」
「かまいませんけど、一応報告いたします。王族確保前と後の気象、作物の生育、土壌の成分分析等ひととおり終了し、グラフ等の資料も完了いたしましたので」
「あ、それ見る。見たいな」
「本の虫になるのでは?」
言外に虫けら的立ち位置がお似合いですと、冷ややかな目でメルを見つめるロキスタ。言外の言葉を理解できてしまうメルは鍵束を手におとなしく退出するしかなかった。
「あ、でもね。一応こっちのめどが立ったらロッキーの報告も聞くから。それと、ちょっと識者での検討会を計画してるから報告書の複製もお願い」
「ここまでくればもう力押しで普通に王位につけますものを…。識者などより民衆へのアピールを練習しくさったほうがよろしいのではと愚考いたします」
「おい、メル。わしの嫁に自らを愚かと言わせておるなら…。折るぞ?」
「やだあなた、これは自らを貶めることにより相手の相手の愚かさを揶揄するという先祖伝来の礼儀作法よ。あまり細かいことにめくじら立てちゃいやん♪」
ロスキタの「いやん♪」発言によりその場が瞬時に凍りついた。
その氷は容易に溶けはしなかった。
「あー、二時間も凍り付いてたせいでタイムロス~」
王宮の地下にある禁書庫でメルは情けない声を上げる。
「おれなんか中腰で立ち上がりかけたとこにフリーズ来たからマジで腰イター」
「あー、そいや長老の話、早いとこ聞いときたいかな。一応こっちに呼んできてくれる?三長老といわず五長老でも十長老でも。とにかくなんか知ってそうな人全部。将軍に折られる前に確保おね!」
最後の切実な一言にロヴも強くうなづいた。
「まあ行ってくるけど、ちょっと時間もらうよ。ゾンビってかミイラになってるかもだから、爺さんたち」
「ああ、ゆっくり食わせて飲ませておいで。手伝いはシアでも呼ぶから」
「ほいさっさ」
ロヴが出て行くのにあわせて、先ほどふらりと出ていったイルシアを呼ぶための伝令を呼ぼうと書庫から出ると、ジャストなタイミングで本人と副官のカレドラセルがこちらにやってきた。
「あれえ?おれまだ呼んでないのに、もしかして心の声届いちゃった?」
「うちの子をそんな電波な人間にしないでいただけますか、メルトーヤ閣下」
カレドラセルはむろんメルに対して容赦ない。
しかし容赦ない人々に囲まれているせいでメルの毒舌耐性はかなり高かった。それよりも副官のうちの子発言のほうが気になって仕方の無いメルであった。そしてメルの中で、カレドラセル=シアのおかんという図式が出来上がるのだが、同様の図式が自分とロキスタに当てはめられてることをメル自身は知らない。
互いに互いの副官はおかんと認識しているが、自らを包む母の愛にはなかなか気づきにくいようだ。
「ああ、古語の書物も大量にあると聞いたからカッレをつれてきたんだ。おれも読めないことはないが、どちらかというと高いところの書物を取ってくる任務などが得意だ」
「イエス・脳筋・オブ・ザ・イヤー。まあ入って入って。埃っぽいけど」
「あ、ではわたくしは先に隣の部屋を片付けてまいります。みたところ、この書庫は保管が第一目的のようですので庫内での読書はお勧め出来かねます。幸い隣室は天井が高く取ってありますのでいくらか明かりを持ち込んでも空気が悪くなることは無いでしょうし。よろしければイルシア様もこちらのお部屋でお茶でもいかがですか?書庫内では基本飲食厳禁ですし、力仕事にしてもまずは先立つものがございませんとね」
書庫への立ち入りを丁重に断った副官の目はこう言っていた「うちの子をそんな暗くて埃っぽいところで働かせたりしたらただじゃおかないからね!」
メルは首をすくめてひっそりと書庫に戻った。
メルが書庫でごそごそとめぼしい書籍を選んで隣室に持ち込むころには隣室はカレドラセルの手によってとても居心地のよい素敵空間に作り変えられていた。
暖炉で赤々と燃える炎。焚き染められたハーブのすがすがしい香り。優雅な猫足のテーブルセットにはカレドラセルが部下から没収した美しいレース編みのテーブルクロスがかけられている。
カレドラセルは埃まみれのメルを見て、冷たい視線で足元の雑巾を指した。
「えっと、この部屋を汚さないために埃を拭けということですね」
メルはおとなしく部屋の手前で書籍の埃を払い始めた。
「終わったら雑巾を洗うついでにご自分のお顔も洗ってらしたほうがよろしいですよ」
忠告とも警告とも取れるカレドラセルの一言…はおそらく後者、もしくはいやみ的なものであろうと思われる。
「それと、本は中へ。先に目次だけでも現代語に訳しておきます」
厳しいのか優しいのかわからない副官である。
そそくさと水場へ向かい、冷たい水で雑巾を洗い、手を洗い、顔を洗うメル。
はっとこの行為にこめられたカレドラセルの無言の悪意が垣間見えた気がした。
「この雑巾で、顔を拭けと?」
継子いじめ的仕打ちにフリーズするメルに、戻ってきたロヴが声をかけた。
「すまん、遅くなった…っておま、せめて顔くらい拭けよな」
そういってロヴは手巾を取り出してメルにほおった。
「あ、そうか手巾という存在があった」
イジメかも!?という衝撃に、メルの脳内からは手巾という存在がすっぽり抜け落ちてしまっていた。シアの副官がそこまで鬼ではなかったことにメルは心から安堵した。
「で、そちらは?」
顔をぬぐい終えたメルはロヴがつれてきた枯れ果てた老人たちを眺めて問う。
「うん、とりあえず部屋に入ろうぜ、書庫じゃなくて隣の。あっちならゆっくり話もできるしな」
「隣室の存在を知ってたんなら先に教えて欲しかった…あやうくシンデレラストーリーを地で行くとこだったよ、しかもさわりだけエンドレス」
「なにその苦行」
「うんちょっとね、自分の上官を猫っかわいがりする過保護部下がおれをかなりハイレベルな虫けら扱いしてくれるからさ、なんだかちょっと目の前が暗くなったのよ」
「あー、あのおかっぱメガネな。いかにも意地悪そーなツラしてたし」
「うんうん、ツラはともかく雰囲気がヤバくてさ」
「にらんだら人殺せそうな感じ?」
「おれ多分ヤツの脳内で三回くらい死んでるわー」
たわいない会話をしながら雑巾を干し終えた二人はくるりと後ろを振り向いた。
そこには極上の笑顔で微笑んでいるカレドラセルの姿があった。
そのころ。
関係者の脳内からはすでに「失踪」ではなく「蒸発」もしくは「行き倒れ」もしくは「怪死」と認識されつつある王妹は、細く細く長く伸びる命の糸をかろうじてつなぎとめていた。だが王妹付け焼刃な根性もそろそろ限界が近い。現状、糸が近いうちに切れる可能性は確かに大であるといえた。
雨雲に喧嘩を売ったら速やかにお買い上げいただき土砂降りの雨で支払いをもらってしまった。いまさら過去の言動を悔いても遅いが、室内からしか雨を経験したことの無い王妹は、実際に雨に降られるということがどういうことか、現在身をもって体感しているところである。
「なんでこんなに寒いのかしら」
それは全身雨に濡れているからである。
大自然がもたらす災厄の前に足指のつめの剥離という悪夢な事実は些細なことになりさがった。痛むつま先を無視して薄暗い地の底から外へと半ばはいずりながらまろび出る。喧嘩上等といわんばかりに仁王立ちしてみると、意外につま先の痛みはその気になれば無視できることに気づく。
だが奇妙な遺跡を歩き回ることができたとして、それがどうすれば生命維持に一役買うだけの幸運を勝ち取れるだろうか。
池らしき廃墟の底から放射状に岸へたどりつくには、徐々に傾斜がきつくなることをまず念頭に置かねばならない。角度と重力の計算を甘く見ると、数度登攀を試みては絶望に叩き落とされる×学習能力を身をもって知らされる。濡れてすべる石造りの傾斜は容赦なく王妹を転ばせ、地に叩きつける。底にみるみるたまっていく雨水のなかに落ちては這い上がり、それを繰り返すうちに王妹の柔肌は擦り傷まみれになる。、全身の擦過傷からは体温とともに体液も流出、吹き降ろす風は濡れそぼった衣類をわずかに乾かしがてらその温度を容赦なく奪ってゆく。
すでに王妹がはいずりながら出てきた穴は、排水溝としての役割を立派に勤め上げており、天露をしのぐ仮の宿りにもならない。
かといって、このおわんの底から這い上がらなければ雨風から身を隠すすべも無い。
「これ、もしかして詰みましたわね?」
はいずる気力さえ使い果たし、かろうじてまだ水没していない石組みの上にぺたりと座り込んで王妹は瞑目した。
「前向きに考えればアレね、乾いて死ぬのはまぬかれたわね」
これからの可能性は二択で答えられそうである。ひとつにはなんとか這い上がる努力を続けた挙句に体力を消耗しきってもうすでに浅くはない水面に倒れ伏し、水死。もうひとつはこのまま水位が上がっていくまで体力を温存し、そしてやっぱり水死。
「まさか、このわたくしが水死とか、ないわマジ。ここはお約束来るパターンですわ。わかってますわよ、これまで眠っていた才能がいま開眼!ですのね?何系の魔術が発露するかしら、水系だったら水死の確率倍率ドンなんだけど…」
マイナス方向に傾きそうになる思考を振り払って、成せば成ると念じつつ意識を集中しつつ、五分経過。そして十分経過。
「さすがに現実ですわね、お約束まるっと無視とは…」
硬く閉じていた目を急に開いたせいか、視界がゆらぐ。
「あれ?」
眇めた目で視点をあちこち動かしていると、なにか見たことのないものが見えた気がした。
「この場で決して見えてはいけない三途の川的ななにかだったらどうしましょう」
この期に及んでのんきなものであるが、その発見が王妹の生死を分けた。
淡く発光する黄色いリング。
この場に似つかわしくなく、なにをなすためのものかはさっぱりわからず、でも無視すると水死二択とあっては躊躇も何もなく不明物体の元に近づくしかない。
気持ちは水没していない落石の上を軽やかに渡り、あっというまにリングの元にたどり着く、しかし現実はよどんだ水をかきわけたまにすこんと意識を失いながら、朦朧とした状態でじわじわとリングに近づいていた。
「ううん、なんでしょうねえこれ」
石組みの隙間にごくごく薄い黒い板状のものがさしはさまれ、件のリングはその黒い板に溶接されているように見える。
「えい」
躊躇したところで水死な王妹は怖いものなどない。リングに指をかけてぐいっと板を持ち上げた。
磨耗した敷石の感じからしてもう少し砂を噛むなりして抵抗があるかと思いきや、それは思いのほかするりと石の隙間から飛び出てきた。
カチリと小さな音がして、石版の根元が固定される。それを合図にしたかのように、池を構成する石組みに無数の小さな光が点滅した。
「いまのは…いなびかりを見間違えたとか?…ではないようね」
黒い石版に目をおとすと、こちらも同様の光の明滅を確認できた。
そして光の粒は石版の上を自在にうごめいてくっついたり離れたりしてめまぐるしく移り変わる。
それをただ座してみていた王妹は、一瞬そのなかに文字列を見た気がした。
よくよく見ると、それはたしかに文字らしかった。光の粒が規則的な形を作って形状を維持したままゆるやかに情報へスライドし、下からは次々と別の文字列が現れる。
「遺跡には失われた古代技術がいまもたまに誤作動するっていうけど…ホントにワケわからないもの出てきちゃったわね。それに、これは、なんていうか、考えてみれば当たり前なんだけどこの文字全部古語じゃないの、古語なんて当の昔に習ってさっくり忘れたわよ!」
それでも過去の記憶をたぐりたぐり、文面を読むうち少しずつ古語の文法を思い出す。
しかし文字列のスクロールスピードは結構早く、王妹が古語の意味を読解する前にどんどん消えていってしまう。
「え、エラー? 終了?ふがいない終了…じゃなくて強制終了、選択示、猶予、…あ、文字がとまった」
王妹はかろうじて判読できた文字を反芻しながらこの板からのメッセージを読み解こうと頭を絞りまくった。が、最後の画面に書かれた古語のうち、解読できた「猶予」「再起動」「カウントダウン」のそれぞれの意味に不穏なものを感じた王妹はもっとよくスクリーンを覗き込む。
案の定、最後の数字は刻々と減っていっていた。
減っていく数字の隣には二つの単語がある。さすがにその意味はたがえることはなかった。
「イエスかノーか…。って、なにがよ!」
回答を求められても問題がわからないのでは答えようがない。
「えい」
緊張に耐えられず、王妹は「ノー」と書かれた部分を指先でタッチした。
ぱっと石版から光が消え、黒い謎の板は微細なモーター音を立てながら元の石組みの隙間に戻っていった。
「あー緊張した」
どっと疲労感を感じて王妹は三途の川のふちが近づくのを感じた。
「渡し守さんにはもう少し待ってもらわないとね…」
言いながら王妹は再びリングを引き上げる。
先ほどと同様の現象が起こる。
今度はさっきよりもすこし冷静に文字を読むことができた。
再び「ノー」を選択。
意外と賢い王妹は再試行を繰り返すことにより、すべての文字列を確認することに成功した。
「えーと、少なくともところどころは読解できたわね」
王妹は五回目の再試行あたりでいちいち端末をシャットダウンせずとも石版をタッチすることでスクロールアウトした文面を読むことができると気がついた。
そしてゆっくりと読める速度でスクロールしながら解読できた文面を読み上げる。
「最終アクセス時の入力者情報は失われました。現在のアクセス者をスキャンしたところ、正統なアクセス権を確認しました。よって管理者権限を書き換えた後、中断された作業の復元が可能になります。管理者変更手続きはこの端末からは行えません。中枢システムに直接アクセスする必要があります。メインブリッジのセントラルコントロールルームへ実体を転移してください。また、前回の予期せぬ強制終了によりプログラムにエラーが発生した可能性があります。エラー検出のためのセーフモードでの再起動では端末を利用した転移が不可能となります。コントロールルームへの転送目的で通常モードで再起動した場合は予期せぬトラブルが起こる可能性があります。通常モードでの再起動に同意しますか? イエス/ノー カウントダウン開始後入力なき場合はシステムシャットダウンの後再びスリープモードに移行します」
確かに読むだけは読めた。それはもう王妹を褒めていいところである。だがしかし、失われて久しい古代文明の知識は現在まで伝わっていない。
要するに、読めはするけれどそれが何を意味するのかやっぱりわからないということであった。
「できるだけ現代語に近い言葉に置き換えて、それから古代語の授業で教わった古代人の豆知識やら微妙に怪しげな伝説やらを思い出して補足するしか、手はなさそうね…っていうかそんなことしてる間に水没タイムリミットが…」
制限時間はせいぜい半刻、それ以上になってしまえば水面がタブレットの高さを越えてしまう。一部水没でもずいぶん読みづらくなるのに、半刻後にはもうもぐって確認するしか手がなくなってしまう。
「前半はお手上げだわー。前回の予期せぬ強制終了…ってところを無理やり現代語っぽくするなら、こうかしら? 前回はびっくりどっきりあわてて終始狼狽の末やむにやまれず遺憾なれど相互意思疎通不可。あら、余計意味がわからないわ」
王妹が言語野をフル回転させた結果、現代語としてすらどうかと思うようなトンデモ文章が出来上がってしまった。
「これ、手法としてあってるのかしら。ほかに手がないからやるしかないんだけれども…自分で自分の翻訳読んで引くわー」
愚痴を交えながらその後を逐次翻訳する。
「とある一定の形式において命令無視が横行するかもね。それでも敢えて設定の変更をせずに一からやり直しますか?人生を…」
身につまされる思いがして思わず翻訳の手が止まる。
「数字を未来から過去へと流し始めますが、時の流れを止める悪魔のささやきに乗りたければお乗りなさい、茨の森で百年眠れ」
翻訳し終わって王妹はがっくりうなだれた。
「最初の訳より意味不明になってるし」
覚悟を決めた王妹は寒さと緊張で震える指先を「イエス」の文字に滑らせた。
同時に石組みの光が明滅し、その光は次第に強くなる。突如足元の石組みが消えうせ視界が真っ白に染まる。
何が起きたのか理解できぬまま、王妹の意識は光に溶けた。
「はい!みなさんおそろいで!お待ちかね!この世の神秘を解き明かそうぜ!古代の文明とはなにか、今に伝わる伝承の真偽。実証、検証、この世のベールに風穴を!」
「いつにもましてこのやわやわ貴族の男うぜーんですけど」
イルシアの副官、カレドラセルのことを陰険おかっぱメガネなどと揶揄したせいでとってもいたたまれない気持ちに襲われたメルはモードを躁状態にシフトして心の平安をなんとか保った。
「まーまずはアレですよ、おれの若気の至り。提出即発禁処分になって、さっき入った禁書庫に堂々の殿堂入りを果たしていたわが卒論。題して、タリス・ヒエルギス王国の宗教と魔術の関係~副題、選民と棄民の真実。読み返したら当時付き合ってた女の子のこと思い出してほろりときちゃいました」
「突っ込みたいところは山ほどあるが、ひとまず落ち着け。普通のテンションで話せ」
イルシアのマジギレ寸前の鋭い一瞥にメルのテンションも多少落ち着く。
「うん、おれの成績の優秀さを見込んで近づいてきた女の子が卒論発禁処分聞いた瞬間笑顔でさよなら言ったときは泣けたわさすがに」
「とりあえず女の話題から離れろ。だがそれは泣いていい」
「ありがと、それじゃあまあ…てきとーに流すんで興味あるとこだけ聞いてください。まずこの論文の基本テーマにもなってるタリス・ヒエルギス王国の国教について、これは知らない人はいないよね。説明省くね」
「あ、そこんとこ詳しく」
挙手して説明を求める王位第一継承者。
「お前実は王位第一継承者(仮)とかだろ?正体現せパチモン」
「いやいや、だいたいこんなもんだって。おれ以外の継承権あるやつも似たりよったりよ?」
「おれら、もっと早めにクーデター起こしてた方がよかったんじゃね?」
これまでロヴと話をしていてなんとなく予想はついていたが、思いのほか王族のいい加減さがハンパないことを再確認させられて、改めてメルはこの国の行く末を案じる。
「ところでえっとー。すんませんいま聞くことじゃないと思うけどさ、なんでこんなギャラリーすくなっ!なの?」
会話するに足る人物は多いに越したことはない。情報源も多いほどいい。メルは王族の重鎮ずらっ…な感じを期待していただけにちょっとテンションが下がった。
「三人も爺様連れてきたんだぜ?」
「もっと爺様保護しとかないと折られるだろ!言ったろ!」
「ああうん、考えたんだけどね、あとは折られてもいいや…的な?」
「お前ちょっと脳筋将軍とこいって折られてこい」
「まあまあ、そういわず。とりあえず爺様たち、おのおの自己紹介よろ。ここでしっかりつかんどかないとモブ扱いもしくは三人セットでひとつの人格的認識になっちゃうからね…」
「えっと…お爺様方、この若いの結構ひどいこと言ってますけどあまり無理して痛いキャラ付けとかしなくていいですからね。あなた方の知識と判断を仰ぎたくてお招きしましたので…。一セットの人格扱いになってもお食事の量はちゃんと三人分ご用意しますのでね」
一応は年長者への畏敬の念をこめて、そしてある程度は様子見で、メルは如才なく長老連に呼びかける。
「さようで…。まあこの年になって一発芸ひねり出すのも骨が折れますでな、お申し出ありがたく存じる。じゃがまあ…お若い方々にとっては年寄りの顔などみな同様に見えましょう。若の無礼もいい加減さもいまに始まったことでなし、われら年よりは気が長いのが唯一の取り得ですじゃ。そちらさまのお気の向いたときにでも話題を振ってくれればよろしかろうと存じますぞ」
当たりは穏やかだがそのうらにしたたかな用心深さを秘めて長老たちはじっとメルをみつめる。メルの表面的な軽さ、道化た仕草にもけして警戒を解かない。メルにとっては多少やりづらい相手ではある。
「おれがいうのもなんですが、そんなに警戒しなくとも特に問題ないと思いますんでできればも少しお気を楽にどうぞ」
「ふむ、見抜かれておるのう。なあユーグエイダ殿?」
「われらも老いたの、警戒心を見抜かれるとは」
「さにあらずさにあらず、トルサグ殿、ユーグ翁。こちらのメルトーヤ殿が慧眼であるのよ。なかなかに見る目をお持ちの御仁ではないか。さすがは賊軍の首魁であるな」
「これこれサリダ殿。軽々に挑発するものではない。われらが命運を握るはあちらであるよ」
「いやなに、見せ掛けの恭順など見破ってしまわれるだろうと思ったまでのこと。さればありのまま述べるもよかろうと思うてのことよ。所詮われらは棄民の末裔ではないか。穢土の子等のそしりを真に受けてなんとする」
「はいさっそく重要ワードきましたね」
やはり長老連の知識の中に自分の必要とする情報があるらしいと、メルは手ごたえのようなものを感じた。
「そこんとこ詳しく行きましょうか。あ、あと賊軍の首魁とかもう持ち上げすぎですから。かっこよすぎですから。おれは存外吹けば飛ぶような小貴族の子倅ですし、側近の部下にすら人格否定される有様ですから。ホントこき下ろされたり軽視されたりは慣れてるんですけどなんか重要視されるとなにしていいのかわからなくなるんでどうかテイクイットイージー」
いささか辟易してメルは長老連をなだめる。
「力づくで軍動かして問答無用であなた方を拘束したことはホント悪かったなって思ってます。でもこうでもしないとあなた方王族は本気にならないのでしょう?」
「へ?王族の本気?それって食えるの?」
「もうロヴには期待してないからダイジョブ!」
それを聞いたロヴは満足げにうなづく。
「や、あんまそっちが楽観視しすぎなんじゃね?って不安になったからちょっと確認したかっただけ、ノープロブレムよー。王族なんてどう踏ん張っても屁すら出ないくらいぎりっぎりでかつかつなんだから」
なにげないロヴの言葉にサリダがぎょっとした表情で鋭い視線の矢を放つ。
「若…」
ロヴはちょこっと肩をすくめただけで明後日の方を向いて口笛を吹く。
「や、これまでロヴがぽろっと重要機密吐くのってむしろ平常運転だって理解してますんで、そのあたりはもうそういうものと割り切って話もとに戻しちゃって平気?」
サリダがほかの二人の老人と顔を見合わせる。そして苦い表情でメルに話を促す。本意ではないことは見事なまでに三人の老人たちの顔にでかでかと書いてある。まあ、それを気にするメルでもないわけだが。
「王族という存在の真実、あなた方がどこまで気づいてるのかもう真実は失われてしまったのかいまはまだ判断できません。でもね、現実は現実。あなた方が気づこうが気づかまいが、実情としてこの国はどこからどうみても駆け足で滅亡に突き進んでます。あなた方がかじ取りするやりっぱなしの政策を見るとほとんど捨て鉢でしかない。遅かれ早かれもうあなた方はすでに立ち行かなくなっているのではないですか?国体を保つことを二の次三の次にしてしまわざるを得ないほどに…。すでに先人の知識は失われています。残っている遺跡もなにも語りません。けれどこの国とあなたがたを襲った同様の不幸について知ることができれば、その真実はあなた方とこの国を救う希望になるんじゃないかと思っているんです…。どうでしょう、間違ってると、思われますか?」
「これはこれは…」
ユーグ翁が苦笑した。
「下等生物が大言壮語しましたなあ」
サリダ翁はもうはばかることなく毒を吐く。
「よりにもよって我らを救う、などとは。一度は選ばれし民として約束の地を希求し、しかる後に希望を絶たれ棄民を名乗る我らにいかようなる救いを与えると?」
「はい、そこなんです」
メルは長老連の謎めいた問いかけをむしろ待っていたかのように悠然と言葉を継いだ。
「ボー・エルント=ワズィ・ユ・エルント・ノマーズィ」
メルが口にした古語に反応してサリダ翁が憤然と言い返す。
「選民も棄民も等しきかな。それがどうしたと?我らが希望のよりどころであり絶望の源である先人の残したる言の葉。それがなんだというのだ」
「いえ、確認しておきたかっただけです。その言葉におもいをはせる前にひとつの仮説を聞いてもらえますか。おれが考察し、愚かにも公の場で公表してしまったがため、そもそも初めからなかったものとされたこの国の国教とそれにまつわる疑問、そして仮定を。…ええ、あくまで仮定の話として聞いてください、きっとその方があなた方の心臓をとめずに済みそうです。よりにもよって、王族の祖は人ではない…という説ですから。いまだ進化の系譜のはじめごろをたどるわれわれの祖先と原初の世界にあなた方は突如現れた。多くの歴史書が語る様々な矛盾と解釈の祖語。それはあなた方の祖がこの世界に属さぬイレギュラーだったのだと仮定することでほぼ解決できるのです。あなた方の先人は今に残る遺跡を築き、魔術を行使してこの国の先住民を使役民とし、絶対的な王権を築き上げました。ですが彼らにとってはこの世界での王権などどうでもよかったのです。この国の名であるタリス・ヒエルギス。これは仮の宿りという意味ですね。彼らはこの世界に興味はなかったのです。たとえるならここは一時的な避難場所であり、彼らの本来の世界は別にあったのです。それがどこなのかは知る由もありませんが、この世界の進化の系譜とは異なるまったくの異世界からあなた方は来たと、そう考えるのははたして荒唐無稽なおとぎ話ですかね。考えてもみてくださいよ、未開の地にいきなり高度な文明社会が生まれるなんて不自然な話じゃないですか。あなた方は故あってこの世界に降り立ったトラベラーなんです。どうしてそれが定住してしまったのかはわかりませんが、当初は元の世界にに戻る目算があったんでしょう。それは長いときを経て次第に文明として退化していき、本来の正しい意味を次第に失っていったのです」
「ご高説、謹んで拝聴するがね。確かに君の語る仮説は物語として実に興味深いが、なにゆえ失われてしまった真実を君が知りえるだろうか。それが真実だと確認する手立てはなかろうて?」
メルのよどみない説明をさえぎって、サリダ翁は憤然と反駁する。
「そうですね…血は混じりすぎましたし、伝承は時の流れにさらされすぎました。風化した技術の継承は形骸化して信仰へと変質し、そしてその信仰すら変容してしまいました。ところであなた方は、魔術を行使することがこの世界の生命エネルギー的なものを消費するという事実にお気づきでしょうか。きわめて限定的な使い方をすることで目に見える形でエネルギーの移行を確認することは可能ですが、魔術の行使がこの国の自然に負担を与えているという事実は数値が証明可能です。おりよくおれの副官が資料を持ってきましたのでどうぞご覧ください」
メルはしばらく言葉を切って、資料が示す事実をみなが認識するのを待つ。
「わかりますか?いま、季節は秋。気温も湿度も次第に低くなっていくはずですよね」
傍らでロヴが首をかしげる。
「ここ数日は気温も湿度も軒並み上昇っぽいけど?」
「数日前から確実に減っているものは魔術を使う王族の存在だ。昨日からはほぼすべての王族が魔術を無効化されて塔の中でゾンビになってるな」
「魔術が使われなくなったら気温も湿度もあがったってこと?」
「若!」
サリダ翁が短く叱責する。
「誘導されておるぞ!」
「誘導なんてしてませんって。ただ事実をお見せしただけです」
「気象が多少季節の流れに逆らうこともままあろうて。この雨で多少気象が乱れただけであろう」
「あえて反論はしませんよ。その可能性も皆無ではないでしょうしね。ただ、この短い期間で観測しただけでこの数値です。大地が失われたエネルギーを取り戻してあなた方がこの地に降り立つ以前の状態に戻るにはしばらく時が必要でしょう。ですが、この国の緯度を考えれば気候は本来隣国と同程度のはず。内陸ですから多少寒暖の差が激しいくらいの違いはあるでしょうが、本国よりやや南方に位置するカロッタの気候は亜熱帯。どう考えても国境ひとつ越えただけで冷害の多発する寒冷な気候帯になるなんて不自然ですよ」
「お若いの、お主はまるでこの世の理をすべて知るかのような言い草であるのう。じゃが気候帯は単に緯度のみで決まるものではないぞ。主の知らぬ理由が存在しておるとは考えぬのか」
「なんらかの地形の理由から寒冷な気候になった可能性がないとはいいません。ですが、あと一年…いいえ、半年でおそらくこの国の気候は本来の温帯域にもどるはず。そう予測する理由はもちろんほかにもさまざまな変化がいまこの国に訪れていることを知るからです。三日で発芽し、十夜で実をつけるトオカ豆という種類の植物があります。この豆が昨日一日で発芽し、十日を経ていない株も実をつけたという報告があります。それからこの時期の煙霞木の狂い咲き、突然のスギ花粉の飛散、湧水量の増加、地底湖の水位の上昇。高峰の万年雪もわずかに溶けつつあるそうです。おそらくほかにも調査すればいろいろな変化を確認することができるでしょう」
ひとつひとつ物証を列挙するメルにサリダ翁が不快気に顔をしかめる。
「いまだ予断の段階であるよ。すべて偶然であればなんとする」
「サリダ翁。確かにいまはまだ断定できる段階ではありません。でも一月後にはいやでも結果は出るでしょうね。その結果をみても同じ態度を貫くようならあなたの意見はただの感情論になりますね。けれど一月後を待てるほどわれわれは悠長にしていられない状況でもあります。ですので最後にちょっとしたショーをお見せしようかと思います」
メルが鈴を鳴らして合図すると、控えていたロキスタを筆頭に武装したメルの手勢が室内に整然と入ってきてた。この場にいる四人の王族のひとりひとりにそれぞれ三人の武装兵がつき、両脇と背後を固める。
次に、花の季節にはまだ早い雪花木の鉢植えがいくつも運び込まれた。
最後にロキスタが魔術無効石をメルに渡す。
「魔術はただの便利ツールというだけではありません。魔術による炎や光はどちらかというとある種の副産物ともいえます。主体はエネルギーの変換のほうにあるのだとしたら…」
メルは言葉を切って左手で石を握り締め、右手を緑の鉢植えにかざす。両腕に魔力の通る回路を作って、石に蓄積された魔力を雪花木に注ぐ。
最初は緩やかな変化だった。次第に雪花木の固いつぼみが大きく膨らんで、その雪のように真っ白な花弁が目に見える速さで次々と花開いた。
「大地のエネルギーを魔術の行使で消費するならば、逆にこのように、魔力を生命エネルギーに変換することも可能です」
メルは雪花木をテーブルの中央にすいと押しやり、それを見つめるものの反応をみる。サリダはこれまでの強硬路線を崩すつもりはなさそうだが、眼前で展開する事象の真意は汲んでいるとみていい。だがユーグは脳内で葛藤が起きているであろう百面相、トルサグはほんのりと物悲しげな渋面。
「ただのおれの妄想だったらどれほどよかったことでしょう」
メルは沈痛な面持ちでつぶやいた。
「王族ならぬ身で魔術を発現してしまった…そして自らが得た力の本質、その原理に枷を付けない状態で近づいてしまった。きっと、王族であればそのような行為は禁忌とされるのでしょう、いえ、もっと簡単に…ただ自分たちは選ばれた血を引いているのだと、ただそう理解していさえすればよかった」
メルにしては珍しくその表情は韜晦、自虐を経たうえでたどりつく諦念、それは不思議と穏やかな笑みの顔を形づくる。
「魔術は…災厄ですよ」
穏やかな笑みをたたえたまま、メルの拳は固く、白くなるまできつく握りしめられ、声音はあくまでも音楽的に…しかし告げる言葉は断罪の…。
「い…い、否…」
サリダの呆然とした力ないつぶやきが、凍り付いた場に弱弱しく響いた。
「否、否っ…否!」
次第に熱を帯びるその声色。だがしかし、否定を意味するその言葉はなぜかしら歓喜にも満ちていた。
サリダのしなびた頬に一筋の涙が流れた。
「そ、そは…福音なり」
湧き上がる歓喜をひたすら押し殺してサリダが絞り出す言葉の意味は、メルをはじめとする面々に困惑のおももちを呈させる。
「よ、漸う、漸う。うつほ船に御饌は満ちたり」
信じられないとでもいうようなおももちでサリダをみつめていたユーグは、そのサリダのまなざしに一筋の光明を見たような気がした。
「サリダ翁…ま、まことか?た、たばかりでは…?」
そのたどたどしい口調がユーグ自身の迷いを表している。
「まことであればよ、わが短き生の中で、よもやまことの僥倖があろうか…。かような、かような希望を目の当たりに、するとは、思えなんだ」
トルサグもまた、その見開かれた眼からあふれる涙をおさえはしない。
だがそれらの言葉はメルの穏やかな笑みを一変させた。
「希望だ?福音だ?…痴れ事もたいがいにするがいい!」
メルがその人生の中でこれほどの瞋恚を表にしたことはなかった。
しかし老人たちはメルの言葉の意味が分からない。
「やかましい小僧じゃのう…まあ、下等な使役民ごときに理解など及ぶまいて。小僧、貴様は劣悪にて矮小なる分際にも関わらず、選ばれし我らに福音を告げたもうという信じられないほどの栄誉を与えられたのじゃよ?栄誉に打ち震えるならばまだしも、その栄誉すら理解できんのか。度し難い愚物じゃ」
「ほっほっほ、おのれの役割も理解できぬ下賤のものになにを言ったところで始まらぬよ」
「さもありなんよ…滑稽じゃ、まこと滑稽よの」
「ボー・エルント=ワズィ・ユ・エルント・ノマーズィ」
「そもそもこの小僧めが言いおったわ」
「長き時を経て、ようやく訪れた豊穣じゃ。うつほ船は幾度となく生まれはしたが、そが中に御饌を満たすことなく世を去りおって」
「さよう、幾度も希望を抱き幾度も絶望した我らは、やがて信ずることを忌避するようになったのであったな」
「いまこそ我ら棄民、おのが素性誇るときぞ来たれり」
このような状況下でありながら、思いもかけぬ報をもたらされた老人たちはそれこそ狂喜乱舞した。すでにメルたちの存在を忘れたようにおおっぴらにふるまうその態度は常の王族そのもの。傲慢と自尊の権化であった。
メルのなかでなにかがふつりと途切れる。
ふわりと笑みを浮かべながら剣の柄に手をやるメルの挙動に、イルシアはいち早くきづくことができた。
一触即発、問答無用、対話不可能。そんなキレたメルの脳天に、イルシアは無雑作に肘を見舞った。
「ちょ、いったーっ!なに?なにすんのさ、シア!ことと次第によってはシアでも許さないよっ!」
「一発では足りないか…ポンコツめ」
再びメルの脳天を恐ろしい衝撃が襲う。
「大変申し訳ございませんでしたっ!」
「戻ってきたか…」
「いや、物理的にこの世から去りかけた気も…」
頭を抱えてうめくメルを見たロキスタとカルドラセルも緊張を解いた。先ほどまでこの場を支配していた圧倒的な威圧感に気おされて身動きが取れなかった警備兵らもほっと安堵のため息を漏らす。
「カッレ、この爺さんどもと若い方、別室に監禁しろ。おれはメルと話すことがある」
イルシアのいつになく真剣な表情に、カレドラセルは軽く目礼して速やかに与えられた任務につく。