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ちまたの短編集

大殿と眼鏡

作者: 生気ちまた

 一


 越後古志の牧野領は古くから海運業で栄えてきた。日本海沿岸を往来する北前船が上方からは新しいものを運び入れ、北の蝦夷地からは海産物を運んで来るのだ。地元の百姓どもは手前で作った商品を船主に売り込み、積み荷を降ろした分だけ生まれる余地に載せてもらっていた。古志の素朴な品が上方で売れるとわかると、船主たちは競うようにして多くの品を古志津から買い入れるようになった。

 一方で信濃川の下流にあたる古志郡では上杉氏の時代より洪水・水害が相次いでいた。また飢饉もたびたび起きたため、牧野家は家祖・成元の代から借金に悩まされた。

 こうした中で大名から政を任された家老たちは、古志津の町人から上納される御用金に多大な期待を寄せるようになっていった。町人たちも敬愛する備前守に応えるべく返済されるはずのない御用金を納め続けた。しかしながら「ある時」から町内の有力者でも到底賄えないほどの金額が城方から求められるようになり、古志津の人々は大金を稼いでいながら飢えと貧しさに苦しめられるはめになった。



 二


 秀介ひですけは激怒していた。必ず古志の人々を苦しめる仕組みを取り除かなければならないと決意していた。秀介には政治がわからない。彼はただの町人である。裏通りのオンボロ長屋に暮らし、月に三度ほど何かしらの手伝いをして手間賃をもらってはグータラしているだけの男である。けれども正義感は人一倍に強かった。だから表通りの大店が御用金に苦しんでいるのを見ていながら何もしないなんてのは、彼にはできない話だった。

 こうなったら一揆だ。一揆を組んで強訴に及ぼう。腹を決めた秀介は、表通りの呉服屋に走った。そこでは彼の幼馴染であるところの忠吉ただきちが、旦那から気に入られて店の経営を任されていた。

「おい! 呉服屋!」

 いつも店先で調子の良い呼び込みをしている忠吉のことを秀介は「呉服屋」と呼ぶようになっていた。忠吉はそれを快く思っていない。恩のある旦那をないがしろにしたくないのである。いずれは旦那の娘をもらって家を継ぐつもりではあった。しかしそれは先のことなのだ。

「ただの番頭にその呼び名はないだろう」

「今日から一揆を起こすぞ! お金を貸してくれ!」

「まてまて。そんなもんをここで口にしないでくれないか!」

 忠吉は古い知り合いをお店の奥に連れていった。店には武家の子女もよく来てくれている。彼女たちの口から変な噂が流れてしまえば彼の店はおしまいである。

 忠吉は秀介に「一揆など起こせば死罪は免れないぞ」と教えた。

 しかし秀介は死など恐れるものかと譲らない。むしろ明和の頃に古志津の市民を救おうとした涌井某のごとく首を晒されてもよいという覚悟であった。

 年末にはいつも多少の迷惑をかけてくるとはいえ、小さな頃からの友人を失いたくない忠吉は、どうにか秀介を止められないものかと知恵を絞った。やがて忠吉は上客の武家から聞いた一つの噂話を思い出した。

「まてまて。一揆を起こして死ぬのはいいが終わってからのことも考えよう」

「終わってからなど知らぬ。それは侍がやればいい」

「知らぬでは済まぬ。とにかく話を聞きたまえ」

 忠吉の話は次の通りである。

 昔から古志を治めておられる牧野の大殿には、近頃目が悪くなっているとの噂がある。忠吉が考えるに、おのずと文書が読めなくなり世相にも疎くなられたのではないか。だから古志津の力では賄えぬほどの御用金を課されたのではないか。

 秀介は息を荒くした。

「もうろく大名め。許してはおかぬ!」

「まてまて。そのようにいちいち暴れないでくれたまえ」

 旧友の気性の荒さに忠吉は嘆息する。

 しかし放っておいて身勝手に一揆など起こされてしまえば、古今の例から考えても大きな商家は必ず打ちこわしに遭ってしまうだろう。忠吉は旦那の店を守るためにも秀介を抑えるしかなかった。だが腹を決めてしまった秀介に変心をしてもらうためには知恵を絞らなければならない。忠吉は必死に考えた。

「そうだ。一揆を起こさずに政を正せる手がある」

「なぜ起こさずにおらねばならぬ!」

 もはや何かしらに拳をぶつけたいだけにもみえる秀介に、忠吉は「お主のところの大家が奇妙なものを手に入れていただろう」と話しかける。

 奇妙なものとは手持ち眼鏡のことである。

「ああ。あれは何なのだろうな」

「あれは目が良くなる道具なのだ。どれ、ひとつあれを大殿に献上してみないか」

 忠吉は手代の平七に命じて、台所から単眼鏡を持って来させた。べっ甲で仕立てられており献上品として不足はない。元々は北前船で上方から運ばれてきた下り物であり、珍しいので一つだけ手に入れておいたのが功を奏した。

 秀介は「しかし己の身では城には行けぬ」と拒んだが、忠吉から「城には縁がある。あとお主にも荷物持ちに扮してもらえば来てもらえる」と絆されて、渋々ながらその意を飲むことにした。



 三


 古志城の奥書院にて木村惣之助きむらそうのすけは文書を読み上げていた。

 牧野の大殿が目を悪くされてから数年。大殿の朱印を要するほどの重要な書状については上席家老の木村が内容をお伝えすることになっている。例えば江戸詰めの家老に向けた手紙や、老中を務めている当主に向けた報告書には朱印が必要である。他には百姓どもへの御触書や、御用金の下知状にしても然りであった。

 木村は若き日より秀でた武士だった。元々は次男坊だったが、大殿の拵えた「修道館」と呼ばれる学校にて知性を認められ、また剣術においても、およそ家中に匹敵する者なしと称された。加えて人心にも気を配ることができた。大殿が仰るには「世が世ならば家中の番方を率いて六つの大組(備)の長となり大戦功を挙げたであろう」とのことである。しかし木村自身は百万の兵を扱えるつもりでいた。

「では失礼つかまつりまする」

 今日の役目を終えた木村は奥書院から出ていく。大殿からは全幅の信頼を寄せられており、今日も何の懸念も示さず朱印を押してもらえた。ありがたい話である。

 木村は文箱を抱えて算用方に向おうとした。

 ところが小者から「根岸殿が城下の商人を入れております」「大殿に下り物の眼鏡を献上したいとの由」と伝えられると、木村はその商人を三之丸まで連れてくるように命じた。その目は鋭利であった。

 いったい、いかなるつもりで眼鏡の献上など考えたのだ。

 上席家老に与えられる三之丸の居室で木村は思索にふけった。やがて先ほどの小者が忠吉を連れてくると、木村は相手が大殿と旧知の仲にある呉服屋の旦那ではないことに安心し、気晴らしに「お主は何のつもりであるか!」と一喝した。

 忠吉は「備前守様に献上したい品がございます」と答える。なぜ一喝されたのかわからなかったものの木村が相手なので問うたりはしなかった。

 すると木村は「ならば女物の衣服でよかろう」と言い出した。

「女物でございますか」

「いかにも。大殿は外孫の吉江様をいたく可愛がっておられる。お主が此度の新田において便宜を図りたいのであれば吉江様から攻めてみよ。将を射んと欲すれば、まず馬を射るべしだ」

「さすが木村様。よき考えでございます」

 忠吉は平伏した。もちろん方便である。彼にそんなつもりはない。

 しかし木村は本心と読んだらしい。

「ならば今日は控えよ。また日を改めるがよいわ」

「おまちください。こちらの品はいかがいかしましょう」

「知らぬ。その品にこだわりを持つのならば理由を尋ねるがよろしいか?」

 木村は苦々しい表情を浮かべた。あくまで大殿の歓心を得るための献上ならば何の問題もない。しかし献上品が眼鏡でなければならないとすれば――木村としては絶対に阻止しなければならない。いざとなれば刃傷沙汰も覚悟の上である。なぜなら木村は大殿に嘘偽りを申している。大殿に伝えている分よりもはるかに巨額の御用金を古志津の商家に課すことで借金を帳消しにしていたのである。それも牧野家の借金ではなく木村自身の借金であったから、誠に性質が悪い。

 古今無双の英雄と同列に語られながら木村には「賭け事を辞められない」という大きな欠点があった。仕方がないので他の家老には刀を突きつけて口を封じ(殺したわけではない)、大殿の側用人や小姓どもにも同じことをしてきた。そんな努力をたかだか忠吉程度に潰されるわけにはいかない。

 一方の忠吉にも友人の凶行を止めたいという力強い念があった。

「こちらの品は下り物でございます。良い品でございます。ぶしつけながら木村様に中身を見ていただいても全く恥ずかしくありません。どうかお受取りいただけませんか」

「ええい。こざかしい。くどいのだ!」

「くどいとはいかに?」

「そもそも地下の番頭風情が城に上るなどけしからん!」

 木村は話の本筋を入れ替えようとした。城下で商いをしている忠吉には通用しない手立てである。しかし忠吉は木村が赤銅色を施された鞘に手を伸ばそうとしているのに気付いていたため物言いは避けた。一刀流の免許皆伝を持つ木村の手にかかれば、自分など一太刀で切り捨てられてしまうだろうと悟ったのだ。

 忠吉は「申し訳ございませぬ。次からは旦那様をお連れします」と平伏し、従者の荷物持ちを呼び寄せて早々に三之丸から出ていった。

 そしてお城から出たところで荷物持ちに扮していた秀介が叫んだ。

「やはり一揆しかあるまい!」

「まてまて。城の番方がこちらを見ておられる。起こす前に殺されるぞ」

「ならば殺される前に起こしてやろうぞ」

「一揆の他にも方法はある」

「しかし先ほどは上手くいかなかったではないか」

「そのとおりだ。だが木村様が怪しいのはよくわかった」

 忠吉は今にも飛び出していきそうな秀介を抑えつつ物思いにふける。忠吉は丁稚や手代の頃から旦那の付き添いで幾度となく城に上ってきた。あの頃は算用方の根岸様を通せば大殿への献上くらいは早いものだったはず。なのに今日にかぎって上席家老に呼びつけられたのはなぜなのか。

 もしや献上品を知られていて、それが木村様にとっては不都合だったのでは。

 忠吉はこの件に深く関わるのをやめにしようと考えた。彼は商家の者である。先に不利益しかないとわかれば手を引くのが当然であった。秀介については荷物持ちの扮装が似合っているのでこのまま働いてもらえばいい。小金を渡してよいものでも食べてもらえばカンシャク持ちも治るであろう。

「どうだ秀介。このまま呉服屋で手代として働いてみないか?」

「そんなことよりも呉服屋の旦那に城まで行ってもらえないのか。あのヤモリのような役人を飛び越えるにはお主では力不足なのだろう」

 秀介はジィッと城方を見つめていた。小指で耳の穴をほじってこそいるが、おそらく忠吉の話はまるで耳に入っていない。彼の中ではまだ『一揆』が終わっていないからであろう。

 ならば雇い入れの話はせめて手を尽くしてからとしよう。

 忠吉は「お願いしてくる」と頷いた。



 四


 表通りから裏道に入ると井戸が見えてくる。湧水を汲むために集まった長屋の女どもの口ぶりは往々にして主人を叩いている。あんなものを聞いていれば嫁をもらう気など失せてくるであろう。秀介はしばし足を止めて自身の不足を補った。

 秀介は起伏の大きな性格をしている。激しい怒りに命を燃やす時もあれば、自宅で静かな自省に包まれる時もある。だから女を紹介されてもすぐに逃げられてしまった。まるで二人の男を相手にしているようだと気味悪がられたのだ。かといって秀介には自省はできても自制はできないため、生まれつきの性質を治すつもりにはなれない。

 似たような話に飽きた秀介が自宅まで戻ってくると大家が待っていた。手持ち眼鏡を通さずには文字も読めないほどの年寄である。白髪を無造作にまとめており汚らしい。ただしその目は秀介が知るかぎりでは古志津でもっとも精悍であった。

「ようやく戻ってきたか。はように店賃をわたさんか」

 大家は秀介に手の平をみせた。しわしわの手が求めているのは六〇〇文。

「今は手持ちにない。そのへんの桶でも持っていけばよかろう」

「もう木桶はもらいすぎたわ。そろそろ秀介もまともに働いたらどうなのだ。忠吉は呉服屋の番頭にもなったのにお主は未だに嫁ももらわず遊んでばかりではないか」

 大家は手持ちの合巻に目をやりながらも秀介に文句をぶつける。往々にして家主(大家)と店子(住人)は父子にも似た結びつきを持つものではあるが、大家のお節介にも良いものと良くないものがある。ただ文句をぶつけられるのと具体的にあれこれしてはどうだと示してくれるのとは雲泥の差があるのだ。

 短気な秀介は顔を真っ赤にした。

「下劣な黄表紙など読みよってからに。老公こそ遊んでないで力仕事でもしてみるがいいわ。さすれば己から店賃など取らずとも暮らしていけるだろう」

「店賃を取らずに住まわせる家主がいずこにおるか!」

「然らば老公が天下で初めてとなろう」

「若造が知ったような口を利くでないわ」

 大家は徴収を諦めたらしく目元に手持ち眼鏡を当てた。読んでいるのは地下の秀介には到底わからぬ代物である。具体的には漢字ばかり並んでいた。

 なのでおのずと秀介の目は、上方から流れてきたという手持ち眼鏡に向かった。忠吉の持ち物もそうだが、表通りの質屋に持っていけばいくらになるであろうか。二年はグータラできるかもしれない。

「いかにした。物欲しげな目をしておるが、お主の目ならば暗がりでもよく見えるであろうに。だが年寄の儂ではそうはいかんのだ」

「夕方に本など読まねばよいではないか」

「人生はつねに鍛錬。心を鍛えてこそまともに死ぬる」

「ほう。では盗まれたらいかにする。その眼鏡とやらを何者かによって」

「ならばこうすればよい」

 大家は右の手をぎゅっと握りしめた。己の腕力によって不埒な盗人を捕えるということだろうと秀介は踏んだ。しかし年の効なのか大家は特別な技を知っていた。

 なんと握った手を右目にくっつけたのだ。

「ほれほれ。こうすれば短い間ではあるがよく見えるぞ」

「その方法ならば眼鏡がなくても読めるのか?」

「いかにも! おぼえておくがよい!」

「ならば眼鏡はいらぬであろう。己がもらおう」

「阿呆を申すな。これは長くやると目が疲れてしまうのだ。所詮はその場しのぎに過ぎん。本質を変えるには物足りんやり方なのだよ」

 片手さえあればカンタンに成し遂げられるのだが、いかんせんやりすぎると目がヘトヘトになってしまうので使いづらい。

 そんな大家の教えから秀介は一つの妙案を思いついた。

 日頃あまり使われない彼のアタマが珍しく「そうだ!」と回ったのである。

 さっそく秀介は長屋を飛び出して、表通りの呉服屋に向かった。しかし店先に忠吉の姿はなかった。おそらく奥にいるのであろう。

 秀介は土足で上がる。

「おい忠吉! 一計を案じてやったぞ!」

「ほう。そうか」

「己とてたまには頭も使うのだ。どうだ!」

「頭を使えるのなら、たまにはこちらの都合も慮ってくれたまえよ」

 旧友からため息をつかれてしまう秀介。

 見れば、忠吉は立派な召し物の旦那に酒を注いでいた。



 五


 明くる日。朝から政務を取り仕切っていた木村惣之助の元に小者がやってきた。両者は身分が異なるため報告は廊下からである。

「木村様に申しあげます。またもや呉服屋の忠吉めが参りました」

「裁可を求めるまでもなく追い払えばよかろう」

 上席家老の木村は淡々と命じた。そう地下の者に何度も来られても困るのである。ただでさえ三河時代からの先方家や他の家老衆に登城させていない分を自分だけで裁いているのだ。彼らに横領を知られないためとはいえ肩も凝ってくる。

 しかし小者が「あの者は旦那も連れてきたのです」と付け加えると、木村はすぐにも立ち上がった。呉服屋の旦那となると案内せねば大殿に怒られてしまう。

 やがて古志城の二之丸に大柄な男が入ってくる。お供に忠吉を伴っており彼に漆塗りの箱を持たせている。箱の中に入っているのはもちろん手持ち眼鏡である。

 今日こそ献上を成功させてみせようぞ。忠吉の目には意志が宿っていた。

「こ、こちらでござる」

 さしもの木村も、訪ねてきた者が大殿の『刎頚の友』とあらば頭を下げるしかない。木村は長らく大坂奉行を務めていたので、呉服屋の旦那と見えるのは初のことであったが、しかしながら城内に大殿と旦那の仲を知らぬ者はいないのである。加えて二十年ぶりの登城となれば木村の心中もざわついてくる。いったい何のつもりなのであろうか。

 木村は小者に襖を開けるよう促す。

 奥書院には越後古志七万石の当主である牧野備前守がお座りになられていた。姿こそ老いておられるが、さすがは元老中だけあって、全身からただならぬ気を発している。

「大殿。城下から呉服屋の宗右衛門が参りました」

「宗右衛門とな?」

 木村の紹介に大殿は目を細める。だが廊下で平伏している旦那の姿を捉えることはできないようだ。旦那が表を上げても大殿は特に反応を示されなかった。むしろ若干ながら気を良くしているほどである。

 やはり大殿が目が悪いというのは本当だったようだ。立派な召し物に身を包んだ旦那――の格好をした秀介は心中でほくそ笑む。もし露見していれば死罪も覚悟の上ではあったがバレなければ問題などない。

 旦那本人の話によれば未だ手紙こそ出しあってはいるものの、もう二十年も大殿とは会っていないらしい。というのも旦那は右足の具合が芳しくないため城山を登れないそうだ。そこで秀介が代役を務めることになったのである。

 秀介は品を作りつつ、白髪のかつらをわざとらしく掻いた。当然ながら秀介には演技の経験はないので、献上の件についてはお供の忠吉が進めていく算段となっている。

「拙者はお供の忠吉でございます。拝謁、至極に存じます」

「うむ」

「本日は城下より大殿に献上品を持って参りました」

「宗右衛門から何かくれるのか?」

「はっ。こちらの箱でございますれば……」

 忠吉は漆塗りの箱を上席家老の木村に渡す。貴人への献上品に危ない物が入っていないか調べてもらうためである。

 木村は受け取った箱を開けて、べっ甲の眼鏡を見て、すぐに閉めた。

「やはり……かような物! いったい、いかなるつもりか!」

「いかもたこもございません。ただの眼鏡でございます」

 忠吉と秀介はわざとらしく平伏した。

 木村は口を震わせる。このまま眼鏡を献上されてしまえば自分の借金は返せなくなってしまう。悔しい。大坂時代に相場遊びなど覚えなければ、こんな情けないことにはならなかった。しかしながらギャンブル狂いは止められないからギャンブル狂いなのである。

「かくなる上はこうするしかあるまいや!」

 木村は漆箱を両手でしっかり持つと、そのまま上半身を後ろに倒すような形で投げ飛ばした。さらに箱が庭に落ちるやいなや「やれい!」と小者に命じた。小者は庭に降り立ち、漆箱を何度も踏みつけた。

 ぐしゃぐしゃになってしまった箱の中から、もはや原型をとどめていない手持ち眼鏡の残骸が見え隠れする。

 目の見えぬ大殿が「どうしたのじゃ」とお尋ねになると、木村は平然と「こやつらは箱に毒虫を入れておりました!」と申し開きをした。なんたる卑劣ぶりか。

 追い込まれた忠吉は殺されないために反論を考え始める。

 箱の中に毒虫など存在しないものの、大殿から信頼されている木村の証言となれば、それは真実とされてしまう。大殿にとって木村は目なのだ。その目が虚言を吐いていると告げるのは大殿に逆らうのも同じである。

 ああいかにするべきか。忠吉は考えるのをやめて平伏したくなる。木村から眼鏡を壊されるくらいはあらかじめ想定していたのだが、まさか謂われなき罪をなすりつけられるとは思わなんだ。

「大殿を殺そうなど。とんでもない話である。拙者が成敗いたそう!」

 嬉々として二人に近づいてくる木村惣之助。

 ここで、これまでずっと黙っていた秀介が口を開いた。

「大殿に詫びをしとうございます。毒虫がいたかはさておき。これでは贈り物を献上できません。かくなる上は一つ、良いことをお伝えいたしましょう」

 本来なら忠吉が告げるはずだったセリフである。

「ほう。よいこととはなんじゃ?」

「カンタンに目が良くなる方法でございます」

 秀介は大家に教えてもらった方法を説明する。

 右手で作った小さな穴から外を窺っていただきたい。さすれば文字は往時のごとく冴えわたるでありましょう。いわゆるピンホール効果である。

 さっそく大殿は文箱から文書を取り出して試し始めた。

「おおお。これは愉快。立ちどころに読めるではないか……何々。下知書。古志津町方。ほほほ。今年中に御用金三〇〇〇両を申し付けるものなり。ん?」

「ひゃーっ!」

 木村が怯えたような声を出す。

「……木村惣之助よ。わしがその方から聞いたのは五〇〇両だったはずであるが」

「い、言いまちがえたのでございます!」

「信用ならん奴じゃの……まあよい。これからはこの手があるからのう」

 右手の穴の奥でギロリと目を鋭くさせる大殿。

 その姿に秀介と忠吉は安堵の笑みを浮かべる。ようやく政を正すことができそうだ。旦那の格好までして城に登った甲斐があった。

「んん? おいおい宗右衛門よ」

 秀介は大殿から話しかけられる。

「なんでございましょう」

「お主、その顔……本当に宗右衛門であるか?」

 秀介と忠吉は目を見合わせた。

 なるほど。よくよく考えてみれば、大殿の目が良くなれば秀介の扮装がバレてしまうのは当たり前である。

「もしや不届き者では! 拙者が成敗いたしましょう!」

 落胆していたはずの木村が「御前にて失礼!」と打刀を抜いた。反射的に秀介も旦那から借りていた脇差を抜く。忠吉は「阿呆!」と叫んだ。刀を抜いてしまえば自ら不届き者であると認めたことになってしまう。

 一刀流で名高い木村惣之助に、哀れな二人は切り捨てられてしまうのだろうか。

「待たれよ!」

 助け舟は長屋から流れてきた。



 六


 栗山千蔵くりやませんぞうは老いてから山風と号し、城下で書物に親しみながら長屋の管理を請け負っていたものの、元来は牧野家の学校であるところの修道館の講師であった。数年前に木村惣之助が上席家老を拝命するまでは牧野家中の武家子弟に漢学を教えていたのである。木村もまた幼年の頃には山風に学んでいた。

「秀介と忠吉が何やら共謀していると知って、久々に登城した次第でござるが、外から聞いておれば惣之助の狼藉ぶりは全く恥ずかしいばかり。大殿の御前ではございますが、師として情けのうございます」

 大家は平伏しつつ、秀介と忠吉について「この二名においては牧野家を想ってのこと」「我らは逆らうのを良しといたしませぬが、悪しきを正すもまた人の道でござる」と助命を乞うた。本来ならば彼の学問では市民の反抗を認めないのに……である。

 幕府の学問所にて名を知られた大家の『ある種の転向』ぶりに大殿は応えられた。

「山風がそれほど申すならば、罰するべきは木村のみであろうな」

「お待ちくだされ! 大殿!」

「先ほどから文書を読み直しておるが、お主はこれほどの金をどうしたのじゃ?」

 大殿から多額の御用金の使い道を問い詰められた木村は、苦し紛れに「拙者が悪いのでございます」「しかし別の道理もございましょう」と口走った。

 これに大家は「お主が道理を申すか」と苦笑する。大殿も首をひねられた。

 だが木村は引こうとしない。ひたすらに秀介をにらんでおり、自身の失脚を必定とみてか、せめて彼を道連れにしようと企んでいるようである。

「拙者の道理とは、すなわち先例でございます。この秀介なる者は、畏れ多くも大殿の御政道に異議を申立てようといたしました。ならば先例に従って死罪にするのが当然かと」

「惣之助、往生際が悪いのではないか!」

 大家が声を荒げる。必死で守ろうとしてくれているその姿に秀介は「ありがたい」と思った。だが木村の言い分にも理はある。古来より一揆や強訴の代表者は所業の善悪を問わずして殺されてきたのだ。そして後世においては義民として祀られてきた。

「己なら死んでも構いませぬ」

「おい秀介!」

 忠吉が諌めようとするも秀介は聞く耳を持たない。秀介にはかねてから市中の苦しみを取り払いたいという公への想いのほかに、歴史に名を残したいという強い野心があった。

 ならば死して義民となるのも大いに結構なのである。

 秀介は「この度は失礼いたしました」と改めて平伏した。失礼とは『礼を失う』と記す。大殿を初めとして城方にも礼はある。そして道理もある。一介の町人にすぎない秀介により政を動かされたとなれば、彼らの『支配の道理』は大きく動揺してしまうのだ。

「わかった。その方には死罪を申し付けよう」

 大殿の言葉に大家も頷くしかなかった。忠吉もまた何も言えなくなる。秀介は満足そうに息を吐いた。木村は笑っている。もはや異議を申す者はいないはずだった。

「お待ちくださいまし! 大殿!」

「おお。吉江ではないか」

 ここで控えの間から現れたのが大殿の外孫・吉江である。直系の孫たちが江戸屋敷に詰めている中で、他家に嫁いだ娘の子でありながら城に遊びに来てくれる彼女は、それはそれは大殿から愛でられていた。髪は濡烏、唇は桜桃、羽織の上からでも見て取れる柳腰に遠山の眉。まさしく解語の花と称されるにふさわしい女性である。

「先ほどより話は聞いておりました。死罪を覚悟の上で乱れた政道を正そうとされた秀介様の肝っ玉。これほどわたくしの夫にしたいと思わせる方はいらっしゃいません」

「なんと! この者に輿入れしたいと!」

 大殿は右手の奥で目を丸くされた。

「はい。しかしながら秀介様とは身分が合いませぬ。さすれば、まずは惣之助の養子といたしまして木村の姓に改めていただき、その上で輿入れしとうございます」

「こんなのを拙者の家に入れ……入れぇ!?」

 吉江の提案にそれまで笑っていた木村は泡を吹いた。よほど嫌だったらしい。

 大殿は「ならば惣之助の処分も済んだようなものであるな」と笑みを浮かべた。

 当の秀介は困惑するばかりであったが、近寄ってきた吉江の美しさに惹かれて「よろしくお願いします」と顔を赤くさせた。忠吉も幼馴染の立身ぶりに思わず感極まっていた。

「ははは。お眼鏡に適いましたな」

 これを言ったのは大家である。

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