女給さんにはまだ”こんな所で”立ち止まって貰っては困るのでね
「ええい! しつこい!!」
氷室博士の診療小屋の壁の穴から脱出した私は、貧困街の真黒な土道を走りながら自身の後方10メートルくらいの位置から罵声を上げながらこちらを追ってくる兵士達に対してそう漏らした。
貧困街の目抜き通りを行き交う人々を避けながら私は当てもなく走っているが、残っている魔術式の書かれた栞もあと一枚だ。
魔術を使って筋力を強化して彼らを巻くのは簡単だが、ここではいかせん人が多すぎるし、私が魔術を使ったとなると後ろの兵士達は容赦なく腰や手に携えている銃火器を使うのは容易いに想像できる。
そうなれば目抜き通り(ここ)にいる人たちが彼らの放つ凶弾の犠牲になるのは明らかだ。
「ここでは魔術は使えない。 さてどうするか」
私は走りながらチラリと後方に視線を送り、こちらを追跡してくる兵士の数を確認する。
「ちょっと見ただけだけど……大体3,4人と言ったところか。 とにかく人の居ないところへ行かないと……」
この時代には似つかわしくない猫耳メイド姿をした私など軍服姿で彼らを見つけるより容易いだろう。 真直ぐにこちらへ向かって走ってくる。
さっきまで10メートルほどあった彼らとの距離がどんどん縮まってくる。
普段の探索者の仕事で魔術に頼り過ぎたツケがここに来て出てきている。
魔術が使えない魔術師などただの人間。
それに向こうは軍事訓練を受けている兵士達に対してこっちは女の足に日頃の運動不足と日々の不摂生が拍車をかけて自分の体力の無さを実感させられる。
「とほほ。 私も望月君のことは言えないな」
望月君が陰巣枡に立つ数日前に彼の魔術訓練の際に日々鍛練と偉そうに説教をしたが、まさか自分がこんな状況に陥るなんてあの時は夢にも思っていなかったからだ。
「これは戻ったらダイエットついでにランニングかジョギングでも始めるか」
常人ならばこの状況でダイエットがどうとか考える余裕はないだろうが、探索者の依頼を数々熟してこう言った環境に慣れてしまったせいだろう。
最近、運動不足のせいで自分の腹部周りに贅肉が付いてきたなと考える余裕が私にはあったが、今状況では関係ないし悪化するだけだ。
困ったことに目抜き通りを走れば走るほど、人の数は減るどころか増えるばかりだ。
それに後ろから追ってくる兵士達にももう手が届くか届かないかぐらいまでの距離まで詰められている。
「不味いな。 このままじゃ私まで捕まってしまう」
わざと捕まり最後の一枚の栞を使って古都さんや氷室博士達を助けると言う選択肢が私の頭を過ったが、それでは小屋で古都さんが必死になって私を逃げられるようにしてくれた彼女の気持ちを裏切ってしまう。
それだけは避けたい。
「このままじゃジリ貧だ……ん?」
私の前方10メートルくらい先に見覚えのある背丈に紳士風の姿に黒いシルクハットを被った人物がメイン通りの端っこに立っているのが私の視界に入ってきた。
「あれは最初に出会った……」
そう私がこの時代で最初に出会った老紳士だ。 あの目立つ紳士姿に特徴のある黒のシルクハット見間違うことはない。
すると彼はゆっくりと白い手袋付けた左手を横向きに上げて右側を指差す。
「そこへ行けと言うことなのか?」
まるでこれから向かう場所を教えるようにに左指で方向を指示した老紳士の行動は私にそう感じさせた。
「ならば!」
メイン通りの人々をかき分けながら私は右足を強く左に蹴り老紳士の前を通り過ぎる。
通り過ぎる瞬間に彼の顔を見ると、モノクロを付けた老紳士の表情は何やら口元を緩ませていた。
(彼は一体何者なんだ? けど今は助かる!)
老紳士の正体に疑問を覚えたが、彼が指差した方向へと私は全力で走る。
メイン通りから左に曲がり小道を走り抜けると、そこには広さが10㎡ほどで四方を家軒の壁で囲まれた袋小路へと出てきた。
「行き止まり!?」
広場には木製の電柱に、横に置かれている材木、それに幅が2メートル高さが1メートルほどの木の箱が2つ、ボロボロの布や瓶が積まれて山になっている所があった。
『どこ行った!?』
『探せ!』
メイン通りの方からは左に曲がって私を見失った兵士達が声を上げているのが聞こえる。
ここに留まっていても見つかるのは時間の問題だ。
「こうなったら……」
私は彼らの目を晦ますため木箱の蓋を開けて身を隠す。
程なくして数人の足音が木箱の外から聞こえてくる。
『おい! 居ないぞ!』
『そんなはずはない! ここは行き止まりだぞ!』
『隠れているに決まっている!』
兵士達が私を見つけるために木材を破壊する音や布を剥がす音、木箱の蓋を開ける音が聞こえてきた。
そして1人の足音が私が身を隠している木箱の前で止まる。
『ここか!』
ゆっくりと木箱の蓋が開けられて行く音が聞こえて来て完全に蓋が開けられる。
『………チィ!!』
舌打ちをする兵士の声が聞こえ、”バタン”と乱暴に蓋が閉められて木箱全体に振動を伝える。
『くそ! 他を探すぞ!』
ドタバタと荒々しく駆けていく兵士達の足音が聞こえたがそれも小さくなって行き、やがて聞こえなくなった。
(行ったか……)
私はゆっくりと隠れていた木箱の蓋を開けて表へ顔を出す。
「ぷふぁっ!! ひどい匂いで死ぬかと思った」
私が隠れていたのは幸運かそれとも不運か生ごみが満載されたゴミ箱だった。
「あ~あ、折角、古都さんのアパートで綺麗に洗ってもらったのに……」
ゴミ箱から這い出ると、私の髪の毛やメイド服には生ごみがへばり付き、当然だが鼻が曲がる様な悪臭が再び衣服に染みついてしまったが、満載されたゴミの中に埋もれて隠れていたおかげで彼らの目を誤魔化すことができた。
「ほほほぉ。 あなたは余程ゴミ箱に入るのが好き様ですね。 女給さん」
声のした方に顔向けるとそこにはさっきの老紳士がニコニコした表情を浮かべて広場の入口の所でこちらを見ていた。
「別に私だって好きでこんなところに入ったわけじゃない」
「ほっほっほっ、それは失礼しましたね」
「まぁとにかく助かったよ。 ありがとう」
「いやいや。 昨日助けてもらったお礼だよ」
右手を胸の前で曲げて深々と頭を下げて紳士スタイルでお辞儀をする老紳士の姿を見て私は軽くため息をついて自分の体に付着している生ごみをパッパと払い落とす。
「ところであなたは何者なんだ? あなたのような紳士がこんな所に居るのは何か不自然と私は感じるが?」
「なぁに、老人のちょっとした散歩だよ」
「散歩? こんな貧困街を?」
「それに……」
一呼吸おいて老紳士はこう言った。
「女給さんにはまだ”こんな所で”立ち止まって貰っては困るのでね」
「一体何を言っているんだ? それに私は女給じゃないと何度言ったら――」
その時”カシャン”とガラスの割れる音が鳴り、私は反射的に身構えて老紳士に背を向けて音のした方に体を向ける。
「にゃ~」
「なんだ猫か……」
そこには一匹の黒猫がスッと顔見せて一声鳴くとそのまま家の壁を爪でよじ登って屋根の向こうへと消えて行った。
どうやらそこのゴミの山に積まれていた硝子瓶を悪戯で割ったようだった。
日もすっかり落ち辺りが真っ暗になると、ボンヤリと電柱に設置されている電灯が広場を照らす。
「ふぅ……びっくりした。 ところでさっきの話――」
私が再び老紳士の方へ体を向けると驚いたことにそこにいたはずの彼の姿は影も形もなかった。
「あの紳士は一体何者なんだ? それに”困る”とは何のことだろう?」
彼の残した言葉が頭を残しつつ私は広場を抜けてメイン通りへと歩みを進めた。
・
・
・
・
先ほどの袋小路からメイン通りに戻ってきた私は、何処か腰かけられるところがないかとぶらぶら歩いていると通りの焼き鳥屋の露天の隣に誰が設置したのか分からないが2つの木箱を支柱に木材を横に置いた幅1メートルくらいの簡易的なベンチが私の目に入ってきた。
「少し落ち着けるな。 主人そこに腰かけて休んでもいいか?」
「かまぁないよ」
露天の店主らしき白髭交じりの無精ひげを生やした年齢が40ほどの男性に許可を取って私はそのベンチに腰かけた。
「はぁ~~……疲れた……」
普段、走り慣れていない体を労わるようにパンパンに筋肉の腫れた腿を両手で摩りながら、さっきの小屋で起こったことを振り返った。
まず、第一に氷室博士の研究していた薬と彼の扱いだ。
南雲中尉は氷室博士が大陸で研究してた薬の研究を完成させるために彼を捜索していたのは間違いない。
しかし、兵士の暴走の時になぜ中尉は博士の生死が危うい状況にも拘らずどうして兵士を制止させようとしなかったのか?
昨日の初めに喫茶店でのキリっとした任務に忠実な姿と基地で彼の部屋で出会った時とではまるで性格が違うように感じる。
人がいきなりそこまで変われるものだろうか?
実際、あれが彼の本性だと言うなら納得はするが、それにしても変わり過ぎだ。
第二に菊恵さんのこと。
今までボーっとした態度を通してきた彼女だけれど、博士が危機に陥った時に豹変したあの怪力や異常な回復力、さらに彼女の特徴のある真っ赤に鈍く光る眼は死食鬼の特徴と一致するが、死食鬼特有の血肉を食らう行動が見られなかった。 これ自体は昨晩、2人の兵士はその行動が見られた。
ならば彼女は死食鬼で有って死食鬼ではないことになるが、つまり菊恵さんは人間ではないと言うことになる。
それに彼女の大暴れして兵士が虐殺されている中で南雲中尉は歓喜していたのだろうか?
もしもだけれど、あくまでこれは私の推測だ。
彼が氷室博士の開発した薬品で死食鬼のような超人的な怪力や回復力で最強の兵士を作ろうとしているならば、それは無理な話だ。
昨晩襲ってきた兵士の死食鬼を見るように、彼らは”食事”をする為だけに本能的に狩りを行う。
私が最初に女の死食鬼に望月君が拉致された時も彼女にとってはそれが普通で至って一般的な行為だ。
彼女にとってはただ食事をする為だけの食材を探していたにすぎないのだから。
しかし、菊恵さんは違う。 彼女は明らかに博士を守ろうと行動していた。
これは今まで私が出会ってきた死食鬼達とは異論成る行動だ。
なぜなら死食鬼達は同種であれば庇ったり助けたりすることはあるが、種族に取って食材である”人間”に対してはそんなことはまず有りえない。
もしも捕えた人間を死食鬼がいて、それを討伐する探索者に見つかったとするならば、捕食で不可能と死食鬼が判断すればその場で捕えた人間を殺して逃亡するだろうし、もしかした菊恵さんは死食鬼とはまた別な種族なのかもしれない。
「はぁ……いろいろ考えた益々疲れてきた……」
いろいろ思考して疲れた私はつい深いため息を吐く。 そしてあることを思い出した。
「そうだ。 たしか……」
私は自分のメイド服の右ポケットに右手を入れて中に入ってい物を取り出した。
ピリッと痛みが肩を刺激するが何とか中の物を取り出した。
「これは……小瓶と写真?」
小屋を脱出する少し前に氷室博士が私のポケットに入れたのは、親指大の大きさのコルクで蓋をされたガラス製の瓶が二つと白黒写真が一枚。
まずは白黒の写真に写っている物を確認すると、そこには年齢こそ若いが特徴のある丸メガネを付けた氷室博士と口にちょび髭を生やした博士と同じ年くらいの白衣を着た人物がそこには写されていた。
裏を捲ると今から十年前の日付で”学内にて朝倉と”と書かれている。
「この人を訪ねれいいのか? だけどこの人はどこに居るんだ?」
写真の裏には日付はあるけど今から十年ほど前だし、学内にて場所は書かれているがどこの高校なのか大学なのかそれともどっかの研究所になっている場所なのか、この時代の建造物を把握していない私には皆目見当がつかない。
「後はこれらか」
私は写真をポケットに仕舞い二つの小瓶の内一つを手に取った。
小瓶には深いクリアーグリーンの色をした液体が入っていた。
「これは一体なんだろうか? 博士の話していたワクチンとやらだろうか?」
その緑色の液体の入った硝子の小瓶をジッと見つめて色々と思考や推測を巡らせるが、元々薬学の知識のない私には皆目見当もつない。
「まぁとにかく、写真の人物にこれを渡せば中身がハッキリするわけだし、今は仕舞っておこう」
私は緑色をした小瓶をポケットに仕舞いこみ、残っている最後の瓶を確認した。
残ってた小瓶は雪の様に真っ白な粉末が入っている。 これは博士の話の中に出てきた大陸の研究所で男が持ってきた粉末の一部に違いないだろう。
「けど、この粉末……何か見覚えが……」
私がこの粉末に対して身を覚えがあるのだが、なぜだが思い出すことができない。
「記憶力には自信が有ったのだけれど……う~ん」
私が焼鳥屋の露天の隣で腕を組んで唸っていると、店の方から聞き覚えのある声が私の耳に入ってきた。
「らっしゃい」
「親父一杯くれ。後、適当に焼いて出してくれ」
「毎度」
私が聞き覚えのある声を発する方へ顔を向けるとそこには、黒茶色のトレンチコートにボサボサの長髪を後ろで結んで無精ひげをした人物。
「あっ。 藤堂さん?」
「んぁ? あんたは……須藤さん。 何やってんだぁ? こんな所で?」
焼鳥屋の露天に現れたのは私の銀の鍵の調査を受けてくれて、古都さんの新聞社の先輩でもある藤堂さんだった。