死ぬのは……だめ……
「……南雲中尉!」
彼の姿を見た私は驚きのあまり叫んだ。
「お久しぶり……には早すぎるようだな」
私の驚愕の叫びも南雲中尉は愉悦でも感じているようにニタリと笑みを浮かべ、氷室博士の立っている方に顔向ける。
「さてと、氷室博士。 ずいぶん手間を掛けさせてくれましたね」
「な、南雲……」
博士は中尉の姿を見て怯えているようで、顔を強張らせ真直ぐに彼の目に視線を向けている。
「あなたを探すのにどれだけの兵員を動員したと思っているんですか? こんな兵の動かしかなど将軍や閣下が見たらどれほど驚かれることか。 しかし、あなたにはそれだけの価値がある。 さぁ私と共に過去の研究の完成をさせましょう」
南雲中尉は手を引くように氷室博士の前に右手を差し伸べたが、博士は左手で払いのけた。
「ッ!」
「残念だが、僕は軍には戻らないし研究を続けるつもりもない! あんな物は人間が作ってはいけないものだ!」
彼は怯えた目でキッと南雲中尉を睨み付けて虚勢を張るが、博士に叩かれた痛む右手を左で癒すように摩る中尉の表情は笑っていた。
「いいえ。 あなたはすぐに軍に戻りたがりますよ」
中尉は近くにいる兵士に視線を送り、彼の視線を感じた兵士はコクンと頷いて、構えていた小銃のライフルを肩に直し代わりに腰から拳銃を取り出してスライド引き弾を装填し、菊恵さんに狙いを付けてその引き金を引いた。
”パン”と乾いた音とともに彼女が着ているワンピースの左太もも辺りに親指大の穴が開くとそこから蛇口を捻って出てくる水の様に、どす黒い血が噴き出しながら白かった彼女ワンピースを赤黒く染めあげていく。
「きゃぁぁぁぁぁ!!」
「なっ! 中尉!! きさまぁ!!」
古都さんはあまりの出来事に悲鳴を上げ、私は命令を下した南雲中尉を憎しみを込めて睨んだが、次の光景に私は目を疑った。
「あー…」
驚いたことに菊恵さんは、太ももに重傷を負っているにも関わららず、泣き叫んだり発狂するような声を上げずにいつもの様に小さく呟いた。
(どうなっているんだ彼女は……)
私は菊恵さんの姿を見て驚愕した気持ちでいっぱいだ。
普通の人間ならば、撃たれたという事実だけで精神的にショックを受けてパニックになって床に転がりこんでいる。
ましてや彼女の流血している状態をみると、太ももの大静脈に弾が抜けてそこから噴き出ているのは明らかだ。
なのに菊恵さんは平然とした態度でそこに立っている。
「あー…」
これには私だけでなく隣にいた古都さんや周りや彼女を撃った兵士、それに南雲中尉も驚愕した表情を見せていた。
今の状況を驚いていない人物が1人いる。
氷室博士だ。
彼は撃たれた彼女を心配するわけでもなく、ちらりと菊恵さんの傷を横目で見ると何も心配することはない表情で南雲中尉を再び睨み付けた。
「彼女にこう言ったことは無意味だ。 だから君たちは基地へ帰りたまえ!」
驚愕している彼らの隙を突くように氷室博士は兵士たちに基地へ帰る様に叫んだが、この声で自分を取り戻したのか南雲中尉が再びニヤリとした表情を浮かべる。
「なるほど。 彼女が例の完成体か。 素晴らしい。 素晴らしいぞぉ!!」
まるで自分の宝物を見つけたように歓喜の叫ぶ南雲中尉は、基地で彼の部屋であったような雰囲気は無く、ただ体から心まで狂喜を惜しみなく出している。
(これが彼の本性か……。 待てよ。 氷室博士は人の心の研究をしていたはずだ。 じゃあ菊恵さんが完成形とは彼は一体何を作り出したいうのか)
「菊恵は実験体じゃない!! 彼女は……彼女は……」
歓喜している中尉に向かってか、菊恵さんのことを実験体扱いしたことに怒りをあらわにする博士だった。 しかし傷ついた彼女を心配せずになんでそんな感情を出したのか私には分からなった。
「実験体は実験体だ。 ははは、これで我が国は最高の兵士を持つことができる。 閣下の目指す大東亜圏を築くことができる! 第三国と言われる独軍の科学力や米帝の多大な国力など取るに及ばぬ!」
「こんなことの為に彼女はこんな体になったんじゃない! そんな、そんなくだらない理想の為に!」
氷室博士が”くだらない”という台詞に反応をして小銃を構えていた兵士の一人が彼の胸ぐらに掴みかかった。
「くだらない……だと? 貴様!! 閣下のお心の高い理想に泥を塗るか!」
「ぐっ!」
胸ぐらを捕まれたまま壁へを博士は”ドン”と鈍い音立てて背中からぶつかる。
そして兵士はそのまま掴んでいる彼のシャツを襟を交差させて締め上げる。
「がぁ……」
「貴様のような軍を抜けだした非国民が! 何を、何を言うか!!」
怒りで我を忘れギリギリと締め上げていく兵士を、南雲中尉は別に止めるわけでもなくただニタニタとした表情を浮かべてその様子を見ている。
「ぁぁ……」
博士の顔から血の気がどんどん引いて顔色が蒼くなっていく。 このままでは暴走している兵士に殺されるのも必至だ。
「くっ! おい!南雲中尉、部下を止めろ! このままでは博士が死ぬぞ!」
私の声が聞こえているはずなのだが、南雲中尉は私の声を無視して先ほど同じくただニタニタとその光景を楽しんでいるように観戦している。
「くそ!」
痺れを切らした私がポケットから魔術式の書いた栞を取り出そうした時に”ズキ”と鈍痛が走る。
「っ!」
痛みの為に折角取り出した栞は私の指を離れて床へヒラリと落ちた。
「貴様!! 動くな!!」
私の今の動作を不審に思った兵士が小銃を私の前に突き出して制止するよう怒号を上げる。
「だ、大丈夫ですか? 須藤さん?」
古都さんが私の傷を気遣いボソッと小声で私の耳に話しかけてくる。
「ああ、大丈夫だよ。 しかし……」
横目で博士の様子を見るが、すでに顔色は青を通り越して白く成りかけている。
「………」
「ふぅ! ふぅ!」
兵士は興奮状態で今相手がどんな状態か気づいていない。 本当にこのままでは博士は死んでしまう。
その時だ。 締め上げる兵士の腕を誰かが掴む。
「あー…」
腕を掴んだ人物は意外にも菊恵さんだった。
拳銃で腿を撃たれて重傷のはずの彼女が兵士の暴挙を止めようと考えて彼の腕を掴んだのか、それとも今状況を理解できずにただ腕を掴んだのか分からなかったが、何にせよ彼女の行動で兵士の襟を締める力が緩む。
兵士の腕の力が緩んだ為、博士はドスリと床へとうつ伏せに倒れ込んだ。
「なんだぁ!? この女はぁ!!」
「や、や・め・て……」
私は驚愕した。 今まで菊恵さんが力なく『あー』としか言わなかった彼女が、たどたどしいがゆっくりとした口調でそれ以外の言葉を話したのを私は初めて聞いた。
彼女は私の驚愕など余所に続けて言葉を発する。
「ぼ、ぼう……りょくは、だめ……博士……し、死んじゃう……」
菊恵さんはどうやら必死に兵士が博士にしたことを非難しているように聞こえたが、ただ彼女のゆっくりとした喋り方が兵士の癪に障ったようだ。
「はぁ? 貴様! 何を!! こんな非国民など死んで当然! 死んで閣下に詫びるべきなのだ!! こんな非国民など!! 貴様も非国民か!」
沸点の低い兵士は今度は彼女に捕まれた腕を振りほどいて菊恵さんのワンピースの襟を掴んで締め上げようとする。
「お前らのような下民は閣下の名のもとに死ねばいいのだ!! 死ねば!!」
博士と同じようにギリギリと力を込めていく兵士の腕を、再び菊恵さんは右手で彼の左手首を掴む。
「し……ぬ……だめ…」
「……えっ」
何と驚いたことに彼女のワンピースの襟を確り掴んでいた左腕はゆっくりと、菊恵さんの白く細い腕が引きはがしていく。
自分の腕が細腕の少女に力負けをしている兵士は驚きの表情を通り越して唖然としている。
そして菊恵さんは掴んでいる兵士の左手首に力を込み始める。
「くっ! な、この。 イテテテ!! 痛い!痛い!」
「……」
かなり力が込めらているようで、兵士は先ほどの強気の態度と打って変わって、痛みから逃れようと腕を引っ張たり、菊恵さんの右手を引きはがそうと足掻き始めた。
「なんだ。 この女! 中尉! 助けてください! 中尉!」
助けを懇願する兵士の声も南雲中尉は聞こえているはずなのだが、まるで無視しただその行く末を見ているだけだった。
「死ぬのはだぁぁぁぁめぇぇぇぇ!!」
”ぐちゃ”と音が鳴り、菊恵さんは兵士の左手首を握りつぶした。 彼女の右手からは兵士の物と思われる血と細かい肉片がボタボタと床へと落ちる。
「ぎゃぁぁぁあ!!! 手が!! 俺の左手がぁぁぁ!!」
目の前で自分の手首を潰されたことにショックを受けて叫ぶ兵士だったが、菊恵さんはまだ潰れた彼の左手首を放そうとしない。
そして彼女はゆっくりと左手を振りかぶるとそのまま兵士の顔目掛けて平手打ちを食らわした。
”パン”と音が鳴り兵士の頭部が血煙となって消えてなくなった。
「ひぃ!」
目の前で起きた惨状に古都さんは小さな悲鳴を上げる。
菊恵さんが掴んでいる兵士だった物は、力が抜けて膝からガクンと床へまるで人形のように崩れ落ちた。
「死ぬのはダメ……博士死ぬのはダメ……」
彼女は床に崩れ落ちた兵士の死体を放さず、俯いてブツブツと呟いてる。
さすがの兵士達も目の前で同僚が殺された現実にどよめき始め、私と古都さんに向けられた小銃の銃口は全員が菊恵さんに向けられた。
「なんなんだよ。 この女は! 中尉発砲許可を!! 中尉!!」
小銃を構えている兵士の一人が南雲中尉に発砲の許可を訴えるが、彼はそれも無視し先ほどと同じくにやついて菊恵さんの方を見ていた。
「どうしてしまったのだ。 中尉殿は!」
「くそ! どうする!! どうするよ!!」
銃を撃つこともできず、兵士たちの間に益々不安と動揺が募っていく。
そして。
「うわぁぁぁ!」
1人の兵士がプレッシャーに耐えかねて小銃のトリガーを引いてしまった。
”パン”と再び銃声と発砲光が部屋に広がり、弾丸は菊恵さんの素肌の見えている左肩上がりに命中して彼女の肉を抉り血が流れ落ちる。
「死ぬのはダメ……死ぬのはダメ……」
それでも彼女にダメージを受けたと言う態度は見られないし、先ほど同じく俯いてブツブツ呟くだけった。
「ば、化物だ!!」
発砲した兵士がそう叫ぶと、緊張の糸が切れてしまったのだろう。 次々に兵士たちは菊恵さんに向かって小銃を打ち始めた。
兵士たちが放った弾丸は彼女の腕や胴体、肩や腹部などに命中したが、それも銃口から出る複数の硝煙で部屋が真っ白になって視界が奪われる。
「くそ!! 菊恵さん!!」
私が彼女の身を按じて声を上げたが返事はなかった。
聞こえてくるのは銃の発砲音と発射光だけだったが、それも止み暫しの静寂が部屋を包む。
そしてガラガラと何かが崩れる音がなり小屋の中に充満していた硝煙が晴れて行った。
硝煙が晴れて私の目に飛び込んできたのは、白かったワンピースを鮮血で真っ赤に染めた菊恵さんが大量の銃弾が撃ち込まれたにも関わららず同じ場所に立ち尽くしてた。
「彼女は……何なんだ……」
私がそうポツリと呟いた時だ。
「っ!」
菊恵さんは右手に兵士の死体を掴んだまま人とは思えない神速の動きで小銃を構えた兵士達の一人の前に移動して左手を拳を固めて下から上へ彼の腹部へと叩き込む。
「ぶ、おぇ!!」
食らった衝撃で兵士の口から吐瀉物を吐き出して、勢いそのまま天井へとぶつかって床へ落下しピクピク痙攣したのち彼は動かなくなった。
「死ぬのは……だめ……」
彼女がそう呟いたとき、何所から風が吹いてきて菊恵さんの顔を覆っていた前髪がふわりと浮いた。
その時、私は見て驚愕した。
彼女の目があの死食鬼と同じく赤く光っているのを。