……杞憂ならいいが……
「大丈夫? 菊恵ねぇちゃん」
私達に見向きもせずに真っ直ぐに痩せ型の兵士の横で呆けている女性に近づいた。
(菊恵? この人の名前か?)
「だめだよー。 勝手に外を出歩いちゃ危ないよ?」
「あ…ー」
男の子が話しかけてくると、私達の時とは違い菊恵ねぇちゃんと言われている女性は若干微笑んだ表情を彼に見せたように感じた。
「じゃあ、帰ろう。 あっ!」
男の子が彼女の手を取った時に何かを見つけたようで声を上げる。
「け、怪我してる」
「怪我? ちょっと見せてくれ」
私が男の子と菊恵さんに近づいて彼女の手を見ると、右手の甲が手榴弾の破片でも飛んでしまったのか、刃物で切ってしまったように5センチほどの傷口がありそこから血が少量出ている。
「困ったな。 治癒系は私は得意じゃないんだよな。 絆創膏とか持っていたかな」
私が自分の両ポケットに手を突っ込んでガサゴソと何か傷口を塞げるものはないかと探していると、私の横からいつの間にこちらに歩いてきていたのか、古都さんが真っ白なハンカチを私に差し出す。
「これ、これで傷口を、む、結んでください。 せ、洗濯はしてあります」
ハンカチを差し出す古都さんの手を見ると、まだ恐怖心があるのか少し震えていた。
「……ありがとう」
私は彼女からハンカチを受け取ると、怪我をしている菊恵さんの右手に絆創膏代わりに巻き付ける。
「少し切れてはいるけど、深くはないからこれで大丈夫だろうが、破傷風の危険があるから念のために医者に見せた方がいい」
「ありがとう!! 変なカッコのねぇちゃんって、ああ!!」
元気よくお礼を言う男の子だったが、私と古都さんの姿を見て昨日自分がこの人達に対して何を仕出かしたのかを思い出したみたいで、目を大きく開いて驚いている。
「き、昨日の俺を捕まえたねぇちゃんだ! マズイ!」
「あ、ちょっと!」
「あー…?」
私達の姿に気づいて急いで菊恵さんの手を取って走り出そうする男の子に彼女は状況が呑み込めていないようで、首を傾げているような声を出す。
「!! ちょっと菊恵ねぇちゃん!!」
そして彼女は何を考えているのか、手を取って連れて行こうとする男の子を制止するようにその場から動かない。
「ねぇちゃん!! 逃げないと!! 俺達捕まっちゃうよ!!」
一生懸命に彼女の腕を引っ張る男の子だが、そこは体格と体重の差があるため子供の力ではビクともしない。
「あー…」
彼女を連れ出そうと一心不乱の彼の顔の高さまで腰を下ろすと、菊恵さんは顔を横に振った。
「え、大丈夫ってこと? 菊恵ねぇちゃん?」
男の子は彼女の意外な行動に驚いていたが、私はこの菊恵さんが私達には無反応だったに彼には優しい年上のお姉さんの様に接している。
「やれやれ、昨日のことなら彼女はもう大丈夫と言っていたよ」
私は横にいる古都さんに合図を送る様にチラッと横目で見た。
「そ、そうだよ。 昨日のことはもういいから」
古都さんは私の合図に気づいてくれたようで、昨日、彼が彼女のカメラを盗んだことを不問にした。
「ふ~ん。 あんたら甘いね」
許してもらえたのを良いことに生意気な態度を取る男の子に私は近づいて彼の目線ぐらいまで腰を下ろして自分の顔をグッと男の子に近づけて目を真直ぐに見る。
「許してもらってその態度はないんじゃないか? 普通だったらごめんなさいとか、もうしませんとかあるだろう?」
真っ直ぐに男の子を目を見る私を彼は少し顔横にしてこう言った。
「ふん! だってねぇちゃん達がどんな暮らしをしているか知らないだろ! 父ちゃんも母ちゃんも死んじゃって毎日食べ行くだけでも必死なんだよ!」
「はぁ、だからって全部貧困のせいにして犯罪を犯していいと言うことにはならないだろう?」
「けっ!」
私に図星を突かれて悪態を付く男の子に、今度は菊恵さんが彼の方を真直ぐに見た。
「あー……」
「あ、謝れって言うの? 菊恵ねぇちゃん」
男の子がそう言うと、菊恵さんはコクリ頷く。
「ご、ごめんなさい」
彼女に説得されて、男の子は古都さんに頭を下げて謝った。
「い、いいんですよ! 大丈夫だから!」
古都さんは彼の謝罪に焦った表情を浮かべて、両腕を前に出してブンブンと振る。
「ふふふ」
私はその光景がとても滑稽に見てしまってつい笑いが込み上げてきてしまった。
「わ、笑うことはないじゃないですか!」
古都さんは自分が笑われたことで、先ほどの焦りと恐怖の表情が無くなり、私に憤慨する。
「ごめん、ごめん。 けど、ふふふ」
「ひ、酷いですよ!! 須藤さん!!」
私に顔を真っ赤にして怒って詰め寄る彼女をしり目に、男の子は背を向けて菊恵さんの手を引いて路地の奥へと歩き出す。
「じゃ、”氷室”のオッチャンの所へ帰ろう。 菊恵ねぇちゃん」
(氷室? 今、氷室と言ったか?)
私は男の子言った”氷室”という単語を確認するため、男の子を呼び止める。
「待ってくれ! 今、君は”氷室”と言ったか!?」
男の子と菊恵さんは振り向いてこちらに顔を見せる。
「そうだよ。 ”氷室 義男”、菊恵ねぇちゃんの世話をしている人だよ。 俺はその人に頼まれてねぇちゃんを迎えに来たんだ」
”氷室 義男”、今日、私に南雲中尉が探すように強要した人物だ。
ただ、名前が同じだけでもしかしたら別人かも知れない。
だが……。
「……すまないが、私も連れってくれ」
「え? 氷室のオッチャンに?」
男の子は少し不安そうな表情を浮かべて菊恵さんの顔見上げ、彼女は彼の心を悟ったようでその答えにコクリと頷く。
「分かったいいよ!」
彼女の了解をもらい大きく頷く男の子は元気よく路地の向こうへと菊恵さんの手を引いて歩き出し、私もそれに続いた。
「あ、待って私も!!」
古都さんも私達に遅れまいと、後ろについてきた。
(う~ん。 別に南雲中尉に協力したわけでない。 わけではないけど)
まさかこんな形でその人の手掛かりを掴めるとは思わなかったが、どうにも南雲中尉の手の上で踊っているようなそんな感じを私は受けた。
(けど、行くしかないか)
私は路地を抜けて彼らの住まう貧困街へと向かった。
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男の子と菊恵さんを先頭に私達は路地を抜けて車と人の往来する大通りを歩いてスラムの方へ歩いて行く。
「そういやさ」
前を歩いている男の子が歩きながら振り向いて私に話しかけた。
「ん? なんだ、少年?」
「ねぇちゃん達以外に、地面にへたり込んでたあんちゃん達がいたけど、あの人らは連れてこなくてよかったのか?」
「アイツらはいいんだ。 そのままにしておけば大丈夫だ」
男のは”ふーん”と返事をすると、再び前に顔を向けた。
ふと私が前を見ると自分達が向かっている方向から逆に歩いてくる集団が目に付いた。
その集団は、白い麻のスーツと帽子を被った中年男性と、見たところ私とそう歳の変わらない8人ほどの若い娘たちだ。
彼らは私達の横を通り過ぎる時に娘たちの顔を見たが、皆目に光が無く暗い表情を浮かべていた。
「なんだ? 今の連中は?」
集団が通り過ぎ私が漏らした言葉が聞こえてしまったか、古都さんが声を掛けてきた。
「あれは人買いですよ」
「人買い?」
「地方の貧乏な百姓や商人が、税金を納められなくて自分の娘を遊郭に売るんです。 その時に娘を引き取って代金を払うのが”人買い”です。 人買いに買われて遊郭へ行った娘はほとんど実家へ帰れることはないそうです」
「人身売買か」
こんな非人道的なことが日常的に行われているなんて、私の時代なら警察やらマスコミやらで大騒ぎしているだろうと私は思った。
「あそこだよ」
そんなことを考えていたら、先導してた男の子が指差した方向には、大通りや古都さんのアパートがある下町の建物とは違い、壁は腐ったような木材が使われ、屋根には所々錆が見えるトタンで蓋をしている建物群が見えてきた。
「……うっなんだこの匂いは」
その集落に近づくにつれて、生ごみを日中に放置して腐らせたような匂いと、病院の消毒液ような匂いなどなどが私の鼻を襲った。
「はじめてくる人はみんなそんな顔するけどすぐに慣れるよ」
「……ならいいが」
とてもじゃないが、こんなところに人が住んでいいものかと疑いたくなるような場所だ。
もし私がここに住めと言われたら、速攻でお気に入りの小説とコーヒー豆を持って逃げ出しているだろう。
貧困街へ足を踏み入れると、近くに川の流れる音と真黒に変色した泥の道んに、酔っ払って蹲っている者やずっと空を見てボーっとしている者、子供を連れて洗濯へ向かう女性などなど、多くの人がいることから私が今いるところは貧困街の大通りらしい。
「思ったより人が多いな。 もっと寂れているかと考えていたけど」
「ここに居る人達の大半は地方からの出身者で、自分の地元に帰れなくたってしまった人ばかりです」
そう言えば、写真館の前で老紳士がそんなことを言っていたなっと私は思い出した。
「こっちだよ!」
男の子の先導で貧困街を歩いていると、何所かしらから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「俺じゃない……俺じゃない……」
声のする方に顔を向けると、ゴミ出しようの木製の箱の脇で一人の男性が蹲っていた。
見覚えのあるボロボロの着物に、この声の主はすぐに分かった。
私が死食鬼と遭遇した時に逃げたしたあの男だ。
「あんた、無事だったのか」
「俺じゃない……俺は悪くない……」
私が近づいて話掛けてみるが、私の声が届いていないのか何度も同じことを呟いているだけで反応がない。
「……」
「どうかしましたか~?」
私の行動が気になったのか古都さんがこちらに声をかけた。
「いや、なんでもないさ」
「あの小屋みたいですよ!」
私は男から離れて古都さん達に合流して男の子の案内でここに居る”氷室博士”を匿っている小屋へ向かった。
「ここだよー!」
「あー…」
男の子が元気よく指示したのは、壁はかなり年数がたった木造、屋根は到る所が錆が出ていて所々穴が開いている。
お世辞にもきれいとは言えないボロ小屋だった。
「こんなところに”氷室博士”が?」
南雲中尉から聞いている話だけだと陸軍の研究員で博士の位の人だと、私の時代もこの時代も身分の高い人だと思っていたからいくら貧困街と言えど、もっとマシな建物に隠れていると思っていた。
だが、現実には今にも崩れて無くなってしまいそうなオンボロ小屋に彼はいるらしい。
氷室博士はこんなところで何を考えいるのだろう。
「いや、考えても仕方ないか」
どうにもっと言うか、何と言うか、こうして氷室博士の場所を見つけてしまったのだけども、彼、南雲中尉の思惑道理に進んでいるような気がしてならない。
「どうしたのさ? 入ろうよ?」
男の子が小屋のドア代わりの垂れ幕に片手を掴んでこちらを向いて考え事をしている私を急かす。
「ああ、すまない。 今いくよ」
私が歩みを進めようとした時、古都さんが小屋とは反対方向に顔を向けているのに気が付いた。
「どうした? 古都さん?」
「いえ、何か後ろから誰かに見られているような……」
「えっ?」
私も彼女の方向に目を向けてみるが、入ってきたときと同じく風景しかなかった。
「特に何もないように見えるけど?」
「……気のせい。 だよね」
「ねー! まだー!」
いい加減に痺れを切らして、男の子は私達の立っている場所まで走ってきて古都さんの腕をグイグイ引っ張って中へ入れようとする。
「あ~ごめんごめん。 今いくからね」
彼のこの行動に観念するように古都さんは男の子に引っ張られて小屋の中へと入っていく。
「……杞憂ならいいが……」
古都さんの言ったことは気になったが、これ以上男の子を怒らせても困るので私も小屋の垂れ幕を潜って中へ入った。