旦那様とお嫁さんの計画
毎日出かけて、昼過ぎには帰ってくるルベウス。
彼女がどんな仕事をしているのかは遥と翠には知らされていない事である。
だが、ルベウスが集中的に働いて、後は考えを纏めて明日に備える仕事。
そんな言い訳を素直に受け入れるのは能天気な遥だけだ。
だからだろうか、ルベウスが遥の生み出した愛の結晶とも言うべき小説の生データをベッドの上で寝転んで閲覧していたその時、翠が部屋のドアをノックした。
協力関係にある翠を快く迎え入れた。
「どうしました。ミドリの方からこの部屋に来るのは珍しいですね」
微笑みと共に翠を迎え入れたルベウスに、翠は真剣な表情で言う。
「ルベウス、貴女の本当の仕事を教えてくれないかしら?」
「どうしました急に。貴女はハルとの幸せな結婚生活を送れればそれで十分なのではないですか」
遥の書いた文章が表示されている端末にチラリと視線を走らせるルベウスに、話を逸らさせまいと翠はルベウスの傍に近寄る。
「それは、そうだけれど。私、家計の管理もしてるからこの家のお金の流れが大きすぎるっていうのが解るのよ。遥ちゃんはこのマンションを買ったのも、貴女が凄いですませてしまったけれど」
「ふむ……つまり、確とした裏づけの無い巨大な収入が、この生活を崩す元になるのではないか。そう思っているのですね」
「ありていに言えばそうなるわ」
翠の言葉を受け、しばらく微笑みという仮面を貼り付けていたルベウスだが。
やがてその笑みを消すと、ハルには絶対に秘密ですよ、と前置きしてから話を始めた。
そして話し終った後、翠は顔面を蒼白にしていた。
知らなかったからだ、ルベウスが一日一本腕をもぎ取るような行為をしているなど。
確かに彼女にとっては遥との平穏な暮らし以上に求めるものなどなかったが、それでもルベウスの行為。
そして日々それを行っているにもかかわらず平素と変わらぬ様子でいるのが信じられなかった。
「ル、ルベウス、貴女……そこまで……」
「そこまで、の後になんと続くのかは大体想像がつきますが。これを知って貴女はどうするつもりですか。ミドリ」
ルベウスの、問い詰めるような言葉に、平静さを失った翠はふっくらとした唇を震わせながら言った。
「は、遥ちゃんに言ってもらって貴女に尻尾を売るのを止めて……」
翠の言葉に、ベッドから立ち上がり、ルベウスは翠の手を取って壁に押し付ける。
このマンションの防音性は高い、恐らく作業にも集中している遥にはその音は届かない。
「いったはずですよミドリ。ハルには内密に、と」
「だ、だけどこんな事……遥ちゃんが知ったら悲しむわ!」
「大きな声を出さないでください。それと、知ったら悲しむなら知らせなければ良い。違いますか?」
じっと、縦に裂けた瞳孔で翠の眼を射抜くルベウス。
そこに翠は人間的な感情では理解できない何かを見たような気がした。
「貴女はそれでいいの。遥ちゃんに言えない事を抱えて、それで遥ちゃんと真っ直ぐに向き合えるの?」
「私は遥に言えないのではありません。言う必要性を感じないだけです。故に、私に負い目はありません」
「そんな……」
「それより、この事実を知ってミドリはどうするんですか?」
「あの、それは……」
口元に手を添えて震える翠の肩に、そっと手を掛けながらルベウスは脳に響く美声で囁きかけた。
「お忘れなさい。貴女とハルは私の仕事に拠る収入で日々を平穏に過ごす。それ以上の事実は必要ではないのです」
「忘れろといわれてもこんな事……」
「貴女はハルのことだけを考えていればいいのです。私の仕事など忘れてしまいなさい」
「……はい……でも、ルベウスのことが心配なのもあるの。だって貴女が居なくなったら、遥ちゃんきっと悲しむわ」
ルベウスの念を押す言葉に、思わず頷きながらも未練を残す翠のあごをすっと持ち上げながら、ルベウスは囁いた。
「ふふ、協力者としては心配してくれるのには感謝しますよ。さて、話はそれだけですか?」
「はぁ。なんだかそれだけじゃ気分が重いわね」
「では、休暇の話でもしましょうか。遥の体調管理に関してはミドリを信頼していますが、たまには運動施設に出かける以外の旅行もいいでしょう」
「旅行、ね。手近な所だと月のアミューズメントパークなんてあるけれど」
月、という言葉に反応して、つっと角に指を滑らせてルベウスは目を瞑る。
「月、ですか。あの空の浮かぶ白い星ですよね」
「そう。あれは衛星っていうんだけど、鉱物採掘施設の更に上に人工の地表を作って大規模発電施設と、行楽に特化した建造物で埋められていった星だから」
「作物の生産には使わなかったのですか?」
「そういう案もでたらしいけれど、食料は自然栽培と宇宙ステーションでのプラント栽培で賄えていた状況じゃ、楽しいことがしたくなったのかも知れないわね」
「なるほど。それでハルをその月の遊興施設へ連れて行くんですか」
ルベウスの問いに、翠はうーんと、考え込みながら言った。
「それもいいかもしれないんだけど、遥ちゃんは地球の自然保護区域に連れて行ってあげたほうが喜ぶかな、とも思うの」
「自然の体験なら電脳の仮想現実でもいいのでは?」
「それをいっちゃうと、旅行自体がね。随分前から旅行体感系の仮想現実は充実してるし」
「ふむ。そうなると休みを取って遥をリラックスさせるような余暇の過ごし方というのは意外と難しいのですね」
「電脳で大体できちゃう時代だからね……」
「運動施設には行ったばかりなんですよね?」
目を開いて聞くルベウスに、翠は頷いて答える。
それを見てルベウスはうっすらと微笑を浮かべて言った。
「なら、家で過ごすというのはいいかもしれませんね。ハルには執筆を休んでもらう事になりますが」
「それって、一日ずっとするっていうこと?」
「それもいいですが、今回はそれは無しで。ただハルを二人で囲んで、ゆったり過ごすというのもよさそうです」
「ふぅん。ご飯は宅配でいいのかな」
「それは、ハルが残念がるのではないですか?ハルは毎日貴女の手料理を楽しみにしていますからね」
さりげなく、私も楽しみにしているのですが、と付け加えるルベウスに、翠は言った。
「でも毎日食べてるものだと新鮮味がね。私も飽きないように工夫はしてるつもりだけど、たまにはジャンクフードもいいかも知れないわ」
「バーガーショップ的な店からの配達ですか?」
「そう。下品な味、なんて言われるけど、遥ちゃんは普通の家の生まれだし、ここしばらく食べてない懐かしい味になってると思うの」
「ふむ。では食事も宅配という事で」
「じゃあ、後は遥ちゃんの説得だけね」
「そうですね。ですがハルの説得は簡単でしょう。何せ愛する夫と可愛い妻からのお願いなんですから」
そう言って、くるくると尻尾の先で円を描きながら同意を求めるルベウスに、翠も笑顔で同意した。
そしてその計画は夕食時に遥に伝えられた。
ハンバーグカレーに海藻サラダというシンプルなメニューを食べながら、遥は二人に聞いた。
「明日は一日時間を取ってほしいって、一日でいいの?」
「ええ、一日で良いんです」
「翠ちゃんも一日でいいの?」
「うん。遥ちゃんも小説書きたいの我慢してもらうんだから。そう何日もっていうのは、ね?」
自分の問いに頷く二人を見ながら、スプーンを止めて目を瞑り、少し身体を傾けながら遥は言う。
「うむむー。私はいつも二人にお世話になってるんだから、小説休みなさいっていうなら何日でも休むよー」
そんな事を言う遥に、ルベウスは首を振って言い聞かせた。
「ハル。貴女の物語は私も楽しみにしているのです。だからそう日を置く事はないですよ」
「そうかな……私、上げ膳据え膳で家事全然せずに書いてるから悪いかなーって……」
「遥ちゃん!私は遥ちゃんが家事なんかしなくても良い様にするのが幸せなの!でも、その、たまには一緒に並んで食器洗いとかしてくれると、嬉しいわ」
頬に手を添えてそんな事を言う翠を見た遥は、ああ今日はちょっとお手伝いしよう、と決心した。
それとは別に、ルベウスの小説を楽しみにしているという言葉に勇気付けられる。
いつも書きながらこれは面白いと思ってもらえてるんだろうか、という気持ちを抱いている遥には、直にそういった言葉を掛けてくれる事が嬉しかった。
ただ、身内と言っていい相手に言われる気恥ずかしさは感じていたが。
「へ、へへー。じゃあ今日は食器洗い手伝うね翠ちゃん」
「うふふ、約束ね遥ちゃん」
「うん」
和やかなな二人を横目に、これは今日は私が風呂を取らせてもらいましょうか、とルベウスは静かに思考するのだった。
そんなルベウスを他所に、夕食は和やかに進み終了した。
こうして、遥は翠と肩を並べて台所仕事をする事になる。
数が少ないとは言え、翠の目的は遥との時間を作ることである。
だから出来るだけゆっくりと、丁寧に洗うように遥に指示する翠。
遥はその指示を疑わずに丹念に皿に磨きを掛ける。
「こんな感じでー、いいかな?」
「いいわよ遥ちゃん。お手伝いありがとうね」
「良いよこのくらい。毎日翠ちゃんがやってくれてることだもん。私だってできるよ」
「それもそうね。所で遥ちゃん、何か飲む?」
食器乾燥機に洗った物を入れて、スイッチを押しながら聞く翠に、遥はあごに手を当て考える。
それから、翠の様子を伺うように、自分より頭一つ分背の高い自分のお嫁さんの顔を見上げた。
「あのね。アレが飲みたいなぁ」
「アレなの?」
「うん。アレ」
「仕方ないわね遥ちゃんは……じゃあ一杯だけいいよ」
「やった!さんきゅー翠ちゃん!」
翠の許可が下りて躍る様な足取りで冷蔵庫の前に立ち、シュッと空気の抜ける音と共に扉を開いて遥が取り出したのは。
抹茶バニラシェイクの容器だった。
遥はそれをちょびちょびと、夢中になって飲み終わると明るい声で言った。
「んー!美味しい!もう一杯!」
「だぁめ。一杯っていう約束でしょ」
「違うよー。大昔に緑色のドリンクを、不味いのにもう一杯!みたいなCMがあったらしいよ」
ふるふるとシェイクの容器を振りながらいう遥に、翠は納得したという顔で頷いた。
「あ、そういうネタだったのね。それなんていうドリンクなの?」
「んー、たしか蒼汁だったかなー」
「蒼なのに緑色なのね……」
「そうそう。それが健康食品だったらしくてさー。野菜ジュース的な」
「そんな飲み物があったのね。今はどうなの?」
「たしか……私も調べて初めて存在を知った時は栄養価操作作物の登場で消えるかなーって思ったんだけど、蒼汁のメーカーは不味いもう一杯から、美味しいもう一杯にずっと昔に舵を切ってたから、名前を変えて今も残ってるみたいだよ」
中身が完全に無くなったシェイクの容器を洗って、水切り籠に入れる遥の話を、翠は更に促す」
「今はなんていう名前なのかしら」
「んとね。美味なるブルーソース、だったかな」
「ああ、時々CMで見かける、あの綺麗な蒼色の合成栄養食品ね。あれは確かに美味しさと栄養バランスを売りにしてたわね」
「小さい頃は良くおやつに飲んだよー。あれ本当に美味しいんだよね」
「私の実家では使ってなかったわね。大家族だったから誰かしらおやつを手作りしてくれたから」
「うちのおかーさんはさー、自分の作るおやつの方がああいう市販品より美味しいって自信あるから、手作りおやつなんてテストで良い点取った時のご褒美にしてたんだよねー」
もっと食べたかったなー、と言いながら台所を出て行く遥に翠も続く。
そして夫婦の寝室に入って、再び執筆に取り掛かる遥に翠は言った。
「遥ちゃんはお母さんの事大好きよね」
「うん。好きだよ。優しかったし、ご飯おいしいし……お母さんがちゃんと教えてくれなかったら部屋の片付けも出来ない女になってたと思うし」
「部屋の片付け?今の遥ちゃんを見てると、部屋を散らかすなんて思えないんだけど」
「いやー、それがね。高校時代はお風呂上りにタオルとか持ち込んでついついそのままとか、口うるさく言われたなー。タオル足りなくなるからちゃんと洗濯機に入れなさいって」
「あら、そうなの?じゃあ今お風呂上りタオルでさっさと拭いただけで着替えちゃうのは」
「うん。タオル溜め込まない対策。そーしとけば部屋にタオルの山作ったりしなくて済むからさー」
からからと笑いながら起動した端末に打ち込みを始める遥の背中に、翠は微笑を向けながら言った。
「そういうところずぼらにしてもいいのよ?」
「うわー。翠ちゃんはダメ人間製造機だー。人はそういう楽に流されると簡単に堕落してしまうんだよ」
「堕落なんかさせないわ。ちゃんと遥ちゃんにも私にその、色々、してもらうんだから」
「むぁっ、ん、んー。まぁ、それはね……旦那さんだし」
「そうよ。夫婦生活はお互いがそれを維持するのに努力しなきゃいけないんだから」
「はい。努力しまーす」
お互い僅かに頬を染め、なんだか空間をピンクな感じにしてから、それを振り払うように遥は打ち込みに集中した。
お互い、何も言わないそんな空気は、遥をお風呂に誘うルベウスが入室するまで続いたのだった。
そして次の日、になる前から。
三人はルベウスの部屋の殆どを占めるキングサイズのベッドで三人一緒に眠りについた。
配置は遥を中心に、彼女の右手に翠、左手にルベウスの順にならんで眠った。
並んで眠った彼女達の中で一番最初に目を覚ましたのはルベウスだった。
ルベウスの身体はあまり睡眠を必要としない。
根本的な体力と回復力、そして脳の情報整理能力が人間より優れているのだ、当然と言うべきだろう。
そしてそれを利用して、ルベウスは遥の左手を握って、それを口に含んで弄んだ。
指を一本ずつ丁寧に舐めまわし、その度にピクピクと反射を返す手の動きを堪能する。
彼女が遥と寝床を共にした朝は、遥の全身がルベウスの唾液塗れというのは珍しくない事だ。
べとべとー、という遥と朝風呂を共にするのは彼女の愉しみの一つだ。
そうこうして三十分ほど経つと、次は翠が目を覚ます、しかし彼女の血圧は低い。
ぼうっとした顔で、隣に遥が居る事を確認すると、その二の腕に頬ずりとキスを繰り返す。
そして小さな声で、遥ちゃん遥ちゃん……、と繰り返す事で徐々にエンジンを掛けていく。
徐々に目が覚めてくると、次第に覚醒しルベウスの行為も目に入るが、翠はそれに関わらず、遥の二の腕を甘噛みすると、すっとベッドから出た。
「ルベウス。私朝ごはんを作るから、遥ちゃんが起きたらその手洗ってあげてね」
「ん……解りました。それでは私はもう少しゆっくりさせてもらいましょう」
翠は遥の左手がふやけるのではないかと言うほど、執拗に遥の手を舐るルベウスをそのままに、朝食を作りに台所に行く。
朝は日本食派な遥に美味しいお味噌汁と漬物を出す準備は万端で、後は米を炊きアジの開きを焼くだけで朝食は出来上がる。
その為に掛かる僅かな時間分くらい、遥に安らかな眠りを続けて欲しい、と言うのが翠の気持ちだ。
そして台所から胃袋を刺激する味噌の匂いと、魚の脂が焼ける匂いが漂い始めると、洗面所で手を洗ってきた遥とルベウスが食卓についた。
「うー……手がふやけちゃったよルベウス様……」
「ふふ、すいません。今日は左手しか舐められなかったので集中してしまいましたね」
「もー、しょーがないんだからー」
「二人とも、朝ご飯が出来たから運んでちょうだい」
「あいあいー」
「はい。今行きます」
こうして三人の穏やかな休日が始まったのだった。