Lesson1.ワスレナグサ(8)
ポタリとフードから垂れてきた雨の滴が、杖を握る手の甲に当たり、地面へ滑り落ちていった。コレットはじっと息を殺し、前方を見つめている。
隣からはゴクリと唾を飲み込む音が聞こえ、微かに身じろぎする気配があった。コレットの横にいる男は小刻み震える手を必死に隠していた。さっきまで農作業をしていたのに突然怪物と戦う事になったのだから、仕方が無い。
他の場所で身を潜める村の男達も、似たり寄ったりの状態だろう。彼だけ責めるのは酷というものだ。
しかし、今は恐怖におびえる男に声を掛けることすらできない。
もうじき目の前に現れるはずのオーガは、危険に対してすこぶる敏感だ。音を出せばたちどころに気配をさとられ、計画が台無しになってしまうだろう。
(クダチは大丈夫かな)
村の東で同じように待機するクダチを心配する。彼の所には比較的年寄りが多かったように思う。
二手に分かれる作戦が本当によかったのか、今更ながら不安を感じていた。
コレット達が村に到着してからすぐ、村長宅を尋ねて事情を説明したところ、あっさりと協力を得ることが出来た。というのも、20年前にもオーガの襲撃を受けたことがあるらしく、当時を知る村の老人たちは一も二も無くクダチの話を信じ、全面的な協力を申し出てくれたのだ。
すぐに女子供を村の教会へと移し、防御用の柵を立て、罠をしかけると、翌日から毎日ローテーションで見張りを立てることにした。
降り止まない雨の中、物見櫓からオーガ襲来の知らせが来たのがつい先程の事だ。
もうじき到着かと思われたころ、地響きが隠れている木の枝を揺らした。
ドドッ、ドドッと正面の樹がなぎ倒される音につづいて、肉食獣のような咆哮が当たりを埋め尽くす。
「今だっ、火矢を放てっ」
にわか造りの物見櫓から鋭い指示が飛び、次々と火矢が放たれ、森から姿をあらわした巨大な生物に突き刺さった。
ゴアッと重低音を響かせ、オーガが吼える。
身体に突き刺さった火矢を、無造作に引き抜いて捨てると、オーガは怒りに満ちた顔で物見櫓を見上げた。エサだと思っていたニンゲンが、生意気にも逆らってきたこと、自慢の肉体を傷つけられたこと、ここ一週間獲物が獲れずに空腹であること、何もかもが腹立たしかった。
オーガはこみ上げてくる殺意に身を任せ、丸太のように太い腕を振り回しながら、コレット逹の真後ろにある物見櫓に向かって突進してきた。
「ヒイィッ!」
自分に向かってくると勘違いした隣の男が、思わず上げてしまった悲鳴。それはオーガにとって聞き慣れた、『絶望』というスパイスの効いた、格別のご馳走であった。怒りの中にあっても、その声だけは聞き逃す事はない。
ガ?
一瞬にして立ち止まり、憤怒の形相が狡猾なそれへと変化する。オーガが脅威とされる理由の一つが、この高い知能である。目の前の草むらから、姿の見えないニンゲンの悲鳴が聞こえたという事実から、瞬時に罠を見破っていた。
(マズイ、マズイ、マズイ!)
コレットは隣の男が悲鳴をあげた時にはもう、呪文を詠唱していた。オーガを落とし穴に落としてから、魔法で先制攻撃をしかけつつ矢と槍で安全に仕留める計画は、初手からつまづいた。
「灼熱の赤色竜、その眷属たる火蜥蜴を右手にやど―うえぁ!」
飛んできた物体を避けるために詠唱を中断する。紡がれた魔法の音符はボロボロと崩れていった。
「うわぁ」
飛んできたのはただの丸太だが、オーガの腕力にかかれば即死やノックアウトを持つ恐ろしい投擲武器に早変わりする。なりふり構わず地べたに倒れ込んで、丸太をかわす。
チラと草むらに視線を投げるが、村人は震え上がったままガチガチと歯を鳴らしているだけだった。
(ですよねぇ…)
オーガは落とし穴を探りながら、少しずつ近づいている。今がチャンスなのだが、敵もそんな事は重々承知しているらしく、すぐに次の丸太を投げられるよう、視線はコレットから外していなかった。
物見櫓からは、散発的に矢が飛んでくるが、薄暗い中動く標的に当てられるほど熟練している者はいなかった。
(うう、詠唱する時間はないし…やっぱりアレをやるしかないか)
炎の中級魔法は、魔力と時間を必要とする。それを補うために村長から用意してもらった魔法の杖は、村の宝の一つだと聞いていた。
コレットは手にした杖をじっと見つめる。
(ごめんネ)
心の中で村長に謝ると、コレットは呪文をあきらめて固有魔法へと意識を移した。
「パルセノキッサス!」
オーガの足下から、6本のツルが延びてきて、その両足に巻き付いた。突然のことに足を取られたオーガが、前のめりになって膝をついたタイミングで、魔法の杖をその頭に投げつける。
オーガは、小さな棒きれが投げつけられたことに気が付いていたが、両手を地面に付いていたし、何よりそれに脅威を感じていなかったので、当たるに任せていた。
自分のような力のある者が投げる丸太と違い、矮小なニンゲンが投げる小枝など、とるにたらない攻撃だと思っていたのだ。
足にまとわりついたツタをブチブチと引きちぎった瞬間、それは起こった。
ギヤアアアア!
突然全身が紅蓮の炎に焼かれたのだ。
驚いたオーガは恐怖と痛みから逃れようと地面を転がり始める。
― 理の環から外れよ ―
魔法の杖がオーガの頭に当たった時、コレットは素早く呪文を唱えていた。逆さまになった魔法の音符が口から発せられた時、魔法の杖は凝縮されていた魔力と術式を一瞬で解放すると、炎となってオーガの身体を包み込んだのだった。
「今だっ、炎を狙え!」
物見櫓からすかさず指示が飛ぶ。派手な目標に次々と矢が命中していき、慌てたオーガは先ほど避けた落とし穴に落ちる。そこに恐怖から立ち直った村人逹が槍を突き刺すと、さすがの怪物も事切れたようだった。
グゴェ…
断末魔を聞いた村人は、しばらく呆然とその様子をみていたが、安堵のため息とともにその場にへたり込む。
「や、やったのか」
その時、物見櫓から金切り声があがった。
「南と東からオーガが来る!ぜ、全部で4体も…ここのよりデカイぞ」
「何だって、じゃあこいつはまだ子供だったって事か」
「そんなのどうだっていい、早く逃げないと皆殺しだぞ!食われちまう!」
「どうすんだよっ」
物見櫓からの悲痛な叫びで、かろうじて踏みとどまっていた村の男たちは浮き足立つ。誰かが『逃げろ』と言えば、堰を切ったように誰もが逃げ出すだろう。その一言が発せられる前に、コレットはのんびりした口調で村人に語りかける。
「大丈夫ですよ、東はクダチがいますから」
「しかし、2体も同時には無理だろう。それに南にも」
「南は私が行きますから、問題ありませんよぉ」
「い、いくらあんたが魔法使いでも杖が無いし、無理なんじゃ」
食い下がってくる村人に、コレットはフードを外して応えた。
「これでも、大魔法使いの弟子ですから」
小雨の中オーガの残り火で映し出された姿は、人よりも耳が少し長く『すこーし』おでこが広い、かわいらしい少女だった。
「えるふ…あれ、えるふじゃないか」
ざわざわと村人たちが騒ぎ始める。中には惚けたように『ほぅ』とため息を漏らす男もいた。このような辺境の村では、エルフを見たことのある者などいなかったが、その存在は吟遊詩人や語り部逹の口を通して聞かされている。
―体力は無いが膨大な魔力を持ち、悠久の時に身を置く、見目の麗しい種族。
「あんた…えるふの魔法使いなのか」
「はい、でも他の人には秘密ですよ」
槍を持った村人6人は一様に固まってしまった。人差し指を口元に持っていき、秘密のお願いをする仕草に、誰もが舞い上がっていた。
「やる。俺は彼女を守るぞ」
「さっきまで腰抜かしてた野郎が何を言う。オーガを倒すのは俺だ」
「貴様等、本物の狩人が誰だかわかってないようだな、それは俺の仕事だ」
男という生き物は、実にバカである。
秘密に弱く、美人に弱く、そして格好をつけたがる。
まことに、愛すべきバカである。
これまでにないほど気合いの入った男逹の一団は、槍を手に南のオーガ撃退へと走り出していった。




