Lesson1.ワスレナグサ(5)
その日、モータル・スピリット亭は朝から戦争だった。
何しろここの料理は王都でも屈指の味を誇るというのに、一年に一度しか味わえないという特別な料理が用意される日だったからだ。
「ミュールちゃーん、ソーセージセット3つ!」
「はいは~い」
「モータルスペシャル全員分たのむぜ、ミュルちゃん」
「は~い。食べ過ぎじゃないですか~」
「エール12つ、ベーコンセット2つな」
「は~い。お酒とのバランスがおかしいですよ~」
「キノコサラダベーコンパンとミュールちゃんを一つ」
「は~い。私は売り切れですね~」
ミュールと呼ばれた女性は、大きな給仕帽で頭の半分以上を隠していたが、輝くような緑色の髪をふわりとなびかせながら、客の間を泳ぐようにスイスイと動き回っていた。
ふんふーんと鼻歌交じりに膨大な注文を受け、メモをとることもなくマスターに伝えると、殺気立った厨房から威勢の良い返事が返ってくる。この混雑は事前にわかっていた事なので、その日は臨時に3人の調理人を雇っていたた。
「はいよ、クラーケンセット2つ、カッパギア盛り2つ、エール6つ、よろしく」
「はーい」
深い青の給仕服に白いレースのフリルと、いわゆるメイドの格好で彼女は注文品を次々に運んでいく。
「よく落ちないよなぁ」
マスターはその後ろ姿を感心しながら眺めていた。彼女はいくつもの盆を腕に乗せて運ぶが、なぜかそれらが落ちたことは一度もない。どんなにおかしなバランスでも、何故か腕に張り付いたように動かなかった。
そしてもう一つ不思議な事がある。
彼女が注文品を運んできた時にどこからともなく落としていく花のプレゼント、それは幻の香辛料と呼ばれていた。
「おっ、俺のは黄色だ!」
「酸っぱいやつか、サラダに合うらしいぞ」
「お前の赤いのは?」
「ふっふっふ、これはレアだぜ。白の斑点があるだろ、激辛なんだってよ。ソーセージにつけると滅茶苦茶うまいって噂だ」
「なっ、ちょっと食わせろ」
「いやだ断る」
誰が始めた事か今となっては判らないが、とにかく彼女の残していった花を料理の上で粉々にしてふりかけると、様々なスパイスへと変化するらしいのだ。どんな色が置かれるのかわからないが、大抵その料理に合った味の花が置かれるという。
この不思議な花は、いまやモータル・スピリット亭の名物となっていた。
しかし、一年に一度彼女が来た時しか口にすることが出来ない事と、肝心の彼女がいつ来るのかわからない事から、ほとんど都市伝説と化している。
花を廻っての小競り合いがあったり、料理の奪い合いがあったりと、喧噪に包まれる酒場の雰囲気がミュールは大好きだった。ここの常連は、変に気を使うこともしないし彼女を慕ってくれている。心の安まる数少ない場所の一つだ。
どれだけ忙しく働いていても、鼻歌が出るほど楽しかった。そのせいで油断していたのかもしれない。彼女がその男から注文を取った時、意識は手を挙げている次の客の注文と、手にした3杯のエールを渡す相手に向かっていた。
「おすすめは何かな」
「モータルスペシャルですね~、卵とベーコン、スープで浸したパンとサラダです」
「うん、じゃあそれで」
「は~い。ありがとうございました~」
くるりと後ろを向き、エールを先に渡しにいこうか注文を受けてしまうか悩もうとしたその刹那、男のつぶやきが聞こえた。
「うーん、そういう格好も似合うんだな」
ピタリ、と動きが止まる。
彼女は、その声に聞き覚えがあった。
ギリギリとぎこちなく首が動き、男へと振り返る。
「げ」
エールの乗った皿が床に落ち、ガシャンと盛大な音を立てると、モータル・スピリット亭の喧噪がざわめきに変わり、そして静寂が訪れた。
今までスプーン一つ落としたことのないミュールが、エールごと皿を落とし、拾うこともできずにその場で固まっているのだから、視線も集まるというものだった。
「おい、どうしたんだミュルちゃん」
「わからんが…」
ひそひそと会話が交わされるなか、彼女の首が『ギギギギギ』と音を立てて回転を始めた。振り返った先には、にこやかに微笑む男がいた。
「く、クダチ?」
「よう、おはようコレッ…」
「うわーっ!」
バチーンとお盆をクダチの口にブチ当てると、周りから「うわっ」とか「あれは痛ぇ」とか同情の叫び声が聞こえたが、そんなものは無視である。
「うふふふふ、何を言おうとしたのかしら」
「ほ、ほへっほはんへひょ…」
「あははは、ちょっとお熱があるようですね、お顔が熱いです。うん、お休みした方がよいです、そうしましょう」
有無を言わさず、クダチを引きずっていき、彼を依頼相談用の小部屋へ放り込むと、後ろ手でパタリと扉を締めた。
「クダチ!」
「いてて、乱暴だなあコレットは」
「何でわかったんですか、それでもって、どうして来たんですか。ギルドで待ち合わせだったはずでしょう」
「どうしてって、朝食を食べに来たんだけど」
「不味いって教えたじゃないですか」
これを見られるのが嫌で、さりげなく誤情報を流したというのに、クダチはここにいて、その上変装まで見破られてしまった。
その事実に彼女は軽いショックを受けていた。
「宿のマスター連中は、不味いと思ってないようだけど」
「ぐっ…まさか裏を取っていたとは、迂闊でした」
「んな大げさな。知り合いにちょっと聞いただけだよ」
クダチとしては、不味いと言われた朝食がどんなものか知りたくて、オレンジフォークのマスターに気軽な気持ちで聞いただけだった。マスターが宿の組合長をしているとは知らなかっただけである。
「じ、じゃあどうして私だとわかったんです?一応変装してたのに」
「さあ、なんでだろう、香りかな」
「私、匂います?」
くんくんと袖を嗅ぐコレットだったが、カモミールの良い香りしかしない。
そんな様子を笑いながら見ていたクダチに、コレットは真面目な顔で迫る。
「このことは、内密にして欲しいんですけど!」
「まあそうだろうね、誰にも言わないよ」
すんなりと了承されると、かえって疑いの目を向けてしまうものだ。
「随分と素直ですね」
「あれこれ詮索するのも、されるのも好きじゃないんだ」
「それは助かるような、物足りないような」
「それより、集合には遅れないようにな」
「私は大丈夫。むしろクダチの方が心配ですよ」
「何で俺が」
「すぐにわかりますよ」
その後クダチは、個室を出た途端周りを囲んでいた客逹に拉致された。
「てめぇ、ミュルちゃんに何しやがった」
「生かしちゃおけねぇ」
「吐け、なにもかも吐け」
もみくちゃにされるクダチを横目に、『ミュール』はこっそりと裏口から脱出することに成功していた。
* * *
「冗談じゃない、あいつら手加減ってものを知らないのかっ」
「だから言ったじゃないですか」
「それにしたって、限度があるだろ。本気で殺されるかと思ったぞ」
「生きててよかったですねぇ」
「他人事だな、おい。こっそり脱出したミュールさんよ」
「うひっ」
いつまでも終わらない騒動にしびれを切らしたマスターが一喝し、命からがら抜け出してきたクダチは、集合場所のギルドでコレットに愚痴っていた。
弾丸のごとく文句を言い続けていたが、暫くして落ち着いてきたところを見計らい、コレットは手から紫色とピンクののハーブを差し出した。
「ん、なんだこれ」
「スカルキャップとバレリアンです」
「スカ…なんだこりゃ。結構強烈な匂いだな」
「でも落ち着いてくるでしょう」
「そういえば」
クダチは暫くその香りを楽しみ、気がつくとすっかり気分は落ち着いていた。
「以前はなかったよな、それ」
「3年もあれば、色々増えるのです」
「なるほどな」
頷き、花をくるくる回してみると、香りがより強くなった。
「それで、ギルドで何をするんだっけ」
「うん、ここ最近で発注されたクムリ村周辺の依頼を見ておきたかったんですけどね」
「じゃあ、手分けするか」
「クダチが来るまえに、終わっちゃったよ」
「…」
自分はどれだけ長い間、あの宿でひどい目にあったのか再認識し、うっすら目に涙が浮かぶ。
「あれ、どうしたんです」
「いや、自分がかわいそうになってな。同情したら涙が出た」
「器用ですねぇ」
呆れるコレットに、話の先を促した。
「それで、結局何がわかったんだ」
「今から馬をとばしましょう」
「何ぃ?」
クダチが目を剥くのも無理はない。一番乗りができるわけでもない今、コストの高い馬を使うメリットなど一つも無いからだ。
「何で、今から馬なんだ」
「一刻も早く行かないと、村が危ないから」
「たぶん、他の人たちは勘違いしてますよ。このままだと村が危険だと思うわけです」
「詳しく話してくれ」
ゴブリンが妙な動きをし始めた時期と前後して、北東の森の探索依頼が出されている。
森で大木がなぎ倒される音がしたり、大きな足音を発見したり、食い荒らされた熊の死体があったりと気味の悪い出来事が続いていたからだ。
そしてこの依頼は、特に差し迫った脅威は無いと判断され、現在でも未着手である。
「ゴブリンが出没する場所と村を挟んで対角線上か」
「気になりませんか」
「ゴブリン達は多分コイツから逃げてきたんだろうな。人の村を盾にするようにして」
「やはりそう思いますか」
コレットは嬉しくなさそうな顔で地図を見つめていた。
「足跡は人と似ていて、大小複数あるのか」
「一年前、この村の近くで狩りをしていた若者が襲われて補食されているんですよ」
「人を食べるのか。するとオーガの一族かな」
「可能性が高いですね」
オーガは人と似た姿を持つが、はるかに大きな肉体と凶暴で残忍な性格を持っている。知性は低いが人肉も好んで食べるという危険な種族でもある。
その種族が自分たちの森に移住し始めたと、いち早く存在に気がついたゴブリン達が逃げ出してきたのだろう。
だが人間達はまだ気がついていない。
「まずいな、オーガがどのくらい居るのかわからないけど、この規模の村だったら2体もいれば数刻で全滅だぞ」
「だから、一刻も早く村に着いて警告しないと」
「それで馬か。しかし無理しても3日はかかるな」
「やれるだけ、やっておきたいです」
「わかった」
クダチが決断が早い人間で助かったと、コレットは安堵する。
ほんの半刻後には、二人とも馬上の人となってクムリ村を目指していた。




