ロマンチストな現実主義者
関係を共有しあっている生態系と生態系。
生態系を個人の比喩として三雲に言ったワケだが思い返してみれば、まったくもってその通りだと思う。人間関係と繋がりをもった生態系とは同じようなものだ。
藤崎先輩のいうデッサンのコンクールなんて今の俺たちとっては鬱陶しいだけだ。デッサン。それは技術であって作品ではない。ただ目の前に置かれた石膏像を見たままに正確に描けばいいだけのものだ。昔はそれでもコンクールともなれば燃えるものもあった。同じ目標をもった人間が集まって技術を比べあう。そして俺はその人間たちの上位に選ばれるのだ。それはそれなりの充実感や達成感もあった。しかし今は違う。俺は別に美大へ行きたいワケではないし、デザイン系の仕事につきたいワケでもない。ただ絵が好きで入った部活だ。そりゃ高い評価を受ければ嬉しいが、俺が今やりたいのは違う。他校の美術部の人間なんて知ったことか。最後の作品を作りたい。そしてそれは美術部に入ってからずっとライバル関係だった三雲以上のものを描かなくてはならない。それを最後に俺は地元の短大にでも入って、勉学にでも励み、安定した場所にでも就職し、親から離れて暮らせることができれば、それでいいのだ。
夢が無い?いいじゃないか。追う夢がなければ、地に足の着いた堅実な現実が待っている。
つまりは今、俺はカラスの死体を上手く描ければそれでいいのだ。
けれど藤崎先輩を失ったことで今、俺がぶち当たっている壁をどう乗り越えていけばいいのかよく分からない。それは藤崎先輩が笑い飛ばしたカラスの死体のことだ。どうやったら死を描けるのか。スケッチブックに描かれたカラスは見たまま描いた絵だ。死には確かに近く、模写としてもよく描けている。だがもう一歩足りない気もする。家に帰ってからこの絵を眺めて、観察していると藤崎先輩ならどう描けばいいのか教えてくれそうな気もするのだ。人一倍研究熱心で熱意もあり、俺たち後輩にも気をかけていた。けれど結果はこうなってしまった。三雲を責めるワケにはいかない。俺もあの時そう思ったのだ。藤崎先輩は俺たちにとってもう不要だと。
よくよく考えれば藤崎先輩と三雲、俺で美術部は成り立っていた。
俺が一年の頃からだ。当時の美術部は漫画絵を描いている人たちばかりで、美術としての絵を描いていた藤崎先輩はむしろ浮いた存在だった。そこに俺と三雲が入った。もともと俺は漫画はあまり読まない。ただ絵を描くのが好きで入った部活だったし、三雲も俺と似たようなものだった。俺たち三人が意気投合するのにそんなに時間はかからなかった。そして三人で教科書や専門書などから絵を研究し、名のあるコンクールに応募しまくって、三人がコンクールで受賞し始めたことで美術部の空気が変わった。美術部内部では異端者が外部からは高い評価を受けたのだ。そして我が高校の美術部といえばこの三人の存在が大きいものとなった。他の部員は居場所を失い文芸部へと移っていった。(文芸部といってもいわゆる漫画好きの集まったオタク部といってもいいかもしれない)少しマジメに絵を描くヤツもいたが俺たちは黙殺した。上手くなろうとする熱意より実力のある人間を欲していたのだ。
生態系の中の突然変異種が旧い種を食潰して、ヒエラルキーの頂点に立った。
その生態系はさらに変貌を続け、今は死体を曝している一羽のカラスを描く種となり、変化しなかった者を排除した。
藤崎先輩から聞きたい技術はもう聞けないだろう。ただケータイを開いて彼の名を一押しすれば彼とは話すことはできる。だが会話をするには彼とは決定的に離れてしまった。俺の質問に彼は答えないし、俺も彼に質問をしない。
「カラスの死体を上手く描くにはどうしたらいいのか?」
おそらく彼の返事はあの呆れた笑みだろう。
それに元々堅実な人で奇抜な発想とは無縁の人だ。(彼自身それが許せないからこそファッションを奇抜にしているのかもしれない)あの呆れた笑みと共に凡庸な一般論を俺に諭してくれるのかもしれない。
OK。嘲った笑みも凡庸な一般論もいらない。
必要な物は自分で探せばいい。俺という一つの生態系は生態的回廊(ビオトープコリドー:生態系同士を連結し、生物の移動として役立たせるための空間)を必要としていない。無くても俺という生態系は自給自足で生息し、カラスのように黒い花畑でも作り出せるはずだ。
崩壊寸前の美術部という生息空間の最後に現れた変異種二名の最後の生存競争。
その勝敗が今の俺の興味の全て。あとは俺の知ったことではない。
家に帰るとスケッチブックに描かれたカラスの死体を見た。一歩ずつ近づいてはいる。ゆっくりだが確かな足取りで。いつか近いうちにそこにたどり着ける確信があった。もうすぐキャンバスに描き、完成品を作ろう。発表の場はどこだっていい。文化祭で公開しようか。それとも美術室の壁にでも貼り付けようか。いや、三雲より上手く描ければいいのだ。ただそれだけだ。
三雲が俺に貸していた写真集『ロン・ミュエク』を思い出し、部屋の本という本を探した。確かに借りたはずなのに、どういうワケか探しても見つからなかった。全ての本をチェックしたにも関わらず写真集は消えていた。突然、発情して何も飼い主に行方を告げず遠くに行ってしまった雄猫みたいに。探し方が悪いのか、何かと一緒に捨ててしまったのか。仕方ないので俺はめったに使わない父親のお下がりのノートパソコンを開き電源を入れる。そしてネットに接続した。
ネットに接続して「ロン・ミュエク」について検索をしている間、指はキーボードに触れ、文字を叩き出し目はディスプレイを追っていたが、俺は常に何か別の事を考えていた。それはカラスの死体についてばかりじゃない。死のこと、人間関係と生態系こと、歪な恋愛、そして同性愛のこと、赤い糸のこと……何かが俺の中で化学反応を起したように深化してゆく。深く。とても深く。もうすぐで何かに気づくかもしれないという感覚が神経を鋭敏にしていた。
この感覚は好きだ。絵を描く時の感覚に似ている。
深化した感覚は対象するものとの深いコミュニケーションだと思う。
俺は何かを話したり、気遣ったりするのが苦手だ。それを自覚しているし、他人も認めている。おおよそ直せるものではないのだろう。他人も俺がコミュニケーションが苦手なことを知ると必要以上に矯正しようとしなかった。親でさえそうだ。仕方ない。けれど必要最小限で人間関係を円滑にする術は知っている。それは頭でだ。心でコミュニケーションをとることが苦手な俺の処世法だ。人の行動を見て頭で相手が何がして欲しいのか理解する。簡単なことだ。それをしてやればいい。俺は他人に少々ドライな印象を与えるようだが、それができるようになってからは周囲とトラブルなくやっている。
それらは絵を描く事によって学んだ。
絵から学んだ事は『現実があって、それから論理が出来上がる』ということだ。
どんなエキセントリックな現代アートだってまずは現実がある。対象となる物を観察して自分の中へと受け取る。それを自分の中で形に換える。人との関わり合いもその応用だ。俺はそれで生きている。俺にとって絵は言葉より進化したコミュニケーション・ツールだ。少々誤解を招きやすいが、そもそも理解や現実なんて誤解の塊だろ?
それらを教えてくれたのは絵だが、カラスの死体を最後に俺はそれを手放す。
何故?それ以上描けば本当にコミュニケーション・ツールになってしまうからだ。他人を喜ばせるためだけの絵に。そこに俺はいなくなる。自由な絵はどこにもない。無目的な絵こそ俺のルーツだ。意味がある絵なんて、そんなの意味ないだろ?カラスの死体は他人のためでなく俺個人のコミュニケーションとしての最後の絵だ。
パソコンのディスプレイにロン・ミュエクの『デッド・タッド』が写し出された。
よく観察する。遠目であるいは近づいて、そして食い入る様に。自分の解釈で、あるいは他人ならどう見るかという別の角度で、視覚と知覚をフルに動因してそれを見て理解しようとした。
たとえ「理解や現実が誤解の塊」だとしても俺と俺の絵を見る者の納得する誤解でなくてはならない。
デッド・タッドは顔面は蒼白で目の周りは黒くくすんだ色を落とし、目は静かに閉じられていた。目や口や頬は彼の生きた歳月を物語るようにやや垂れていた。顔と同じ色に蒼白くなっている身体に筋肉は少なかったが、下腹だけはややぽっこりと余計な肉がついていた。そしてその胴体から手も足がまるで棒のように伸び、白く固く硬直していた。そして彼は男性性器を隠すこともなく曝していた。それは左に曲がっていた。その左曲がりのイチモツを見て、俺はなんとなく右手でマスターベーションをし続けると男性性器は左曲がりになる、という俗説が頭の中をよぎる。
何故、これが作られたのか解説はなかった。これを機にロン・ミュエクは名声を得たとだけ書かれている。その他になんの説明もなければ作者の言葉もない。ただこの作品には作者自らの髪を植えつけた、とだけあった。その一文が俺の中で引っかかっていた。
自分の一部を作品に取り入れる。作品は完全に自分の一部ということか?もしくは自分の一部であったものの集合体だ。もともと父親の死体の精巧なレプリカだ。去っていった自分の一部。
「死とはそういうことだよな」と俺は独り言を言った。その声は深夜の自分の部屋に響いた。まるで自分の声でないように。そして消えていった。
俺の父親のことを思った。
ごく普通の父親だ。昔は何かを必死に目指していたのだろうが……今はマジメで面白味なく、普段は夜遅くまで会社で仕事をし、週末には家で寝ている。この人は何が楽しくて生きているのだろう、と考える。毎日の晩酌のビールなのか、それともたまにふらりと出かけてレンタルショップで借りてくる古いフランス映画を観る事なのか、それとも仕事が生きがいなのか。全部違うように思えた。きっと俺と住んでいる世界が違うのだ。彼の世界の楽しい出来事と俺の世界の楽しい出来事は決定的に違い、生きがいもそこでは別の色をしている。そして何故か知らないが(もしくは必然的に)こうやって一つ屋根の下で暮らしている。この人が死んだら?生活に困るだろう。ただそれだけだ。けれど生活に困る以外の何かが決定的に失われる予感がする。
お互い理解と現実は程遠いところにいるのに感じる喪失感。
宮坂は言った。私は仮面を被って生活していると。現実は多かれ少なかれ人は少し現実とは距離を置いて生きているんじゃないのかと思う。どんな人も少し妙なところがあるように。そして絵だって現実を描いているワケじゃない。紙の上に描かれた色を現実の物と錯覚させるだけだ。けれど死はまるっきりの現実だ。しかもそれは石膏像とは違う種類の現実だ。思考として感知できる現実。そして人の心で知覚できる種類の決定的な現実。
そこに誤解と現実との距離はない。
決定的な現実がそのままあるだけなのかもしれない。
「ロマンチストな現実主義者め」
俺は自分の部屋から三雲に向かって憎々しく吐き捨てた。
けれど部屋に響いた声はどこか嬉しそうに俺の耳に届く。
○
翌日、俺は映画館の前にいた。
宮坂に呼び出されたためだ。日曜の映画館前は意外に人はまばらだった。
秋晴れの日曜日に人は暗いところで座って大画面で繰り広げられる映像を観たくはないらしい。それよりは晴々とした空の下で散歩なり、釣りなり、ジョギングでもしていた方が有意義に感じるのかもしれない。
高二の男女二人、ハタからみればデートに見えるかもしれないが、俺達にとってはデートというより、いつもの調子で宮坂と世間話をしているだけだった。
大体、宮坂のファッションは男とデートしようというものではなかった。アバクロガールズの白いパーカーにジャストフィットした紺のセーターにタンクトップを重ね着して、色落ちしたブルージーンズに黒のコンバース・ワンスター。俺が着てきたジャケットが何か女々しく思えた。正直俺より男らしい。
「どの映画にする?」「アクションでいいんじゃね?」「えー、やっぱこっちの恋愛モノでしょ?」「宮坂と恋愛観てもなぁ」「じゃ、雨宮に合わせてディズニー?」「お子様ランチじゃ腹一杯にならねぇよ」「でもお子様ランチって旗付いてくるじゃん」とか、そんな恋人というより、友達ムードたっぷりの会話の後、リュック・ベッソンのアクション映画を観ることにした。もちろん映画代金はワリカン。付き合いといっても仮面の恋人だろ?どちらかといえば宮坂に金を払ってもらいたいくらいだったが、何故か宮坂は俺に聞こえるように舌打ちをした。
映画は面白かった。
ハードボイルドでデンジャラス、ユーモアがあればクールに決める。山があれば谷がある。分かりやすく感情移入しやすいストーリー。男と女は結ばれて、敵はしぶといが遂には倒れる。ストーリーは映画の中では完全に完結せず適度に問題定義を投げかけてくる。
完璧じゃないか。完璧すぎてDVDが販売されると余計な映像が付いてくるコレクターズ・エディションが真っ先に売れ、ツタヤでレンタルが開始されると全てのケースに貸し出し中の札がつけられ、しばらく経つと中古でちらほら売られ、一年経てばハリウッドプライスとか、いかにもカッコよさそうな名前の付いた特売で三枚三千円程度で売られ、その内テレビのロードショーで放送され、最後はワゴンセールで千円以下で売られるところまで容易に想像できた。
「すっごい、面白かった」
宮坂の素直な感想だ。言葉に出せば俺も同じだ。だから頷いた。
正直、今は映画を観たい気分ではなかった。何か深化してゆく思考がごく普通の日常でふと潜ることを止めてしまうのではないか、と俺は危惧していた。今はどこまでも潜って行きたいのだ。虚飾を取り去った現実であり、誤解に囚われている故に見ることのできる現実とかそういったものだ。
つまりは何かによってふと魂を抜きとられ、全てを冷たくしてしまったカラスと対峙していたい。
けれどよくできた映画がそうであるように映画の話題は尽きなかった。
だから宮坂との話も弾む。心のどこかにある危惧はなりを潜め、わずかに機能しつつ、頭のほとんどは映画の話になった。元々、宮坂とは話しやすい。気は合うのは確かだ。今は映画に関しての会話をするのが楽しい。
笑顔で映画の話をする男女二人。確かに今の状況を第三者から見たら恋人に見えるかもしれない。
男と女。女と女、男と男より容易に結びつけて見ることができるだろう。これが同性間ならただの仲の良い友人に見えるに違いない。
どんな弾んだ会話も何かの拍子にふっと空白が空く時がある。その時に宮坂が「お茶でも飲んでいく?」と言ってきた。帰るにしてもまだ時間はあるし(それも映画の不思議だ。少なくとも俺にとっては長すぎもせず短すぎもしない適度な時間を潰せる娯楽だ)、心の奥には早く家へ帰って絵を描きたいというくすぶったものがあったが、そのくすぶりは俺に宮坂の誘いを断って家に帰らせるほどでもなかった。
駅の近くのスターバックスにでもしようと提案したが、混んでいるということで却下され、駅構内の喫茶店にするかと提案したら、また却下された。
「じゃあ、どこにすんだよ」
「いや、まぁ、行きたいところがあってさ」
宮坂は「まぁついて来て」と言って駅とは逆方向のショッピングモールに向かって歩き出した。
宮坂は常にハッキリとモノを言うタイプの人間だ。そりゃ仮面を被っているだの言っていたが、俺にはズケズケとモノを言っていた。少なくとも仮面ではないだろう。もしかしたらズケズケとモノを言う仮面なのかもしれないが……とにかく宮坂の物言いに何か引っかかるものがあった。
「どこだよ」と俺は聞いた。
「ルイジアナ・ママって喫茶店」
「あんまり美味しいコーヒー出ささそうな店の名前だな」
「名前はアメリカンな感じだけどね。メニューは女の子向けで美味しいよ。オススメはウィンナー・コーヒーとアイリッシュ・コーヒー。私はアイリッシュが特に好き。寒いときなんてウィスキーが入っているからすぐに温かくなるし、ホイップの甘さも疲れた身体を癒してくれて絶妙っす。今日は暖かいからパフェかな」
「パフェはいいよ。ホイップとかクリームとか、俺、甘いの苦手だから普通にコーヒーでいいや」
「男子って甘党が多いって聞いてたけど……」
「それは大多数の意見さ。俺は甘いの嫌いだし」
ルイジアナ・ママはビルの二階にあった。ちなみに一階は美容室になっている。その横にある気を抜いていると見落としそうな階段から上って行く。店の入り口のドアにはトウモロコシのイラストとルイジアナ・ママと書かれた看板があり、その看板の下にアルバイト募集の張り紙が控えめに張られていた。喫茶店なのに看板のデザインにトウモロコシが使われているのかよく分からないが、ドアの向こうからコーヒーの香りが漂ってきていた。
店内の内装はレンガ造りを思わせる内装で、アメリカンな名前とは裏腹にヨーロッパ風な落ち着いた雰囲気の小さな店だった。客は俺たちの他に四人。二十台前半の二人と三十台前半の二人だった。どちらも女友達二人で来たらしく、軽い食事をとりながら、俺達若造に見向きもせず女同士の会話をしていた。
「いらっしゃいませ!」
若い女の子の店員が明るい声で俺達に対応してきた。
そして禁煙席に俺達を案内して、メニュー表を俺に手渡した。
そこで店員の顔を見た時、見覚えのある顔だと思った。
胸の名札を見ると『アルバイト・白石香織』と書かれてあった。
思わず宮坂の方を向く、宮坂はまるで何事もないようにメニュー表を見てチョコレートパフェを頼み、店員……白石の顔を見ようともしなかった。