赤い糸とラブレター
まだ何も知らない幼い男の子がいずれ自分が恋をすることを知る時、(陳腐な表現だが)女の子が白馬の王子を思い描くように、男の子は理想の恋人を想像するだろうか?
答えは「イエス」。少なくとも幼い時の俺はその異性の理想像を思い描いていた。けれど振り返ってみれば、その相手は生身の人間でなく、テレビのドラマに出てくる女優や雑誌に載っているモデルのような容姿で、俺にとって都合のいい性格を合わせもった女の子であり、現実の女の子とは大きくかけ離れたものだった。
それは俺の頭の中だけ存在しており、俺以外、決して誰も触れることのできない、可愛く美しい女の子。そしてその存在全ては俺の気持ちに合わせて行動してくれる、ただ自分にとって都合のいい想像にすぎない。その理想の女の子と想像の中で恋をしたことがあった。
それが俺の人生においての恋愛の全てのようなものだ。
しかし、その理想の女の子は俺の成長と共に(それはわりと早いうちに)いつの間にか、その清らかさや美しさ神秘性を失い、単純に俺の性欲のはけ口に代わっていた。
頭の中でその理想の女の子の代わりにリアルな存在である宮坂を当てはめて見る。だが、不適切だ。どう見ても。宮坂と寝れるか?寝ることはできるだろう。俺は健全な男子だ。けれど寝る以外はどうやっても想像することができなかった。
俺の中で恋愛と性交の境界線は曖昧で、限りなくイコールだ。
けれど恋愛という言葉にどこか神聖なものを感じる。少なくともハイティーンの俺には。
結局のところリアルで恋愛をしていない俺には恋というものがよく分からないのかもしれない。
恋焦がれる?君に会いたい?
それらの言葉はまるでここではないどこか遠くの国で起こったニュースみたいに感じる。
女の子と付き合う?何をどうしたらいいんだ?
異性だろうと単純に友達付き合いなら分かる。けれどそれ以上となるとベットの中を想像する以外はまるで想像ができない。休日に女の子と一緒にショッピングだの公園だのレストラン、映画へと出歩く。何のためなのか必要性を感じない。これに必要性を感じれば恋なのだろうか?「一緒にいれば楽しい」という関係をお互いが感じられるのならば。
宮坂と一緒にいたいか?と問われれば「ノー」だ。宮坂は学校内の隣の席の存在で、それ以上でもそれ以下でもない。確かに可愛いかもしれない。性格も明るくいいヤツだ(仮面を被っているとは言っていたが)。けれど一緒に出歩くとか、何気なく部屋で一緒に過ごすとなると何か違うような気もする。想像してみても正直面倒くささしか感じない。
一緒に過ごして楽しければいいのなら、別に女の子でなくてもよくないか?例えば、俺に「ボクと付き合わない?」と言った三雲となら話は合うし、気兼ねなく話せる。それこそズバズバと容赦の無いストレートな言葉だって言い合える。そして同じ趣味を持つもの同士の楽しさもある。(おまけでライバル心もついてくるが)つまり、さっきまで考えていたキスからキスまでの問題点は一切クリアできる。
ただしそこまでだ。それ以上は趣味じゃない。
三雲の言葉に対して俺は「嫌だ」さらりと断った。案の定、俺の言葉に三雲の目から真剣さは消え「まったくキミは指に絡んでいるこの運命の赤い糸が見えないのかよ?」と笑みを浮かべながら言い、左手の小指突き出し俺に見せた。
「ああ、全然見えないね」俺の目には三雲の小指にある赤い糸なんぞ見えない。
むしろ運命の赤い糸が見える人間がこの世界にいるとは思えない。小指に赤い糸が見えるヤツはきっとこの世界を見てないのだ。赤い糸なんて白馬の王子様やら理想の女の子が見れる妄想という目でしか見えないのだ。その妄想を抱けない俺にとって恋なんて、ただの幻想かもしれない。
「男と付き合うなんて趣味じゃないし」と俺の言葉に三雲は「そう?っていうか、女にもキョーミないとかじゃね?」と俺の思っていることをずばっと言い当てた。
「まぁな。今はまだ俺、お子様だからさ」
お子様?いや、お子様だからこそ妄想をし、恋をする。今、覚めている俺はいつ恋をするんだろう。恋愛感情を持たず性欲だけをもてあましている俺は風俗でも通うようになるのか?俺の脳裏に大人になった俺が夜のネオンがきらめく風俗街を颯爽と歩く姿が横切った。怖いくらいに鮮明に。
「つか、三雲、おまえはどうなんだよ?マジでゲイ?」
「ゲイって、キミのことじゃね?」
そういって俺のスケッチブックの描きかけの宮坂の絵のページを目の前に広げた。
「どういうコンセプトで描いたのか知らないけど、ボクが最近描きたいと思っているテーマを描いている。描ききっているといっていい。やっぱカラスの死体からの連想?まぁいいや、それは明日にでもゆっくり聞くとして、宮坂だ。男と女が二人っきりで一緒の部屋で親密な会話をして描いた絵じゃないような気がするんだよね。憶測だけどさ。宮坂が女っぽくない。つーか、なんつーか……」そう言った後、少し言葉が泳いだ。そして適切に表現できる言葉を探すような沈黙の後、弾けるように言った。
「性的なものを感じないっていうか、うん。性の匂いがしないんだ。まるで彫像を模写したみたいに。んで直感的にピンときたんだ。もしかしたらって……」
「俺はゲイじゃない」
俺の言葉に三雲は「ふうん」と頷き、駅構内の時計を見た。
その俺の言葉なんて無かったような素振りで。
そして三雲は言った。
「社会とか世間、システムとかってさ。大多数の常識でできていると思わね?まぁ社会なんて大多数によって構成されているから、大多数の常識でできていた方がうまくいくんだろうけどね。でもボクらは個人だ。大多数じゃない。だから社会や世間やシステムに息苦しさを感じて当たり前じゃね?」
「何の話だよ」
「さぁ?ただ普通でないと人間生き難いけど、普通ってただ大多数の常識ってだけなこと」
洋画の俳優のように首をすくめて言った。それが結構、サマになっている。だが相変わらず人をコケにした態度が気に喰わない。いつもそうだ。毎回こう言われる度に縁を切りたいと思う。けれど絵を描く才能以外持ち合わせていない俺にとって美術部は必要だし、ライバルであり、話し仲間であるこいつの存在もいなくては困る。離れたくても離れられない。余計に嫌なヤツだ。確かに俺と三雲は赤い糸に結ばれているかもしれない。けれどそれは小指でなくて首にだ。お互いがお互いの首を絞めあって遊んでいる。
「雨宮、怖い顔すんなよ。つか、見てみろよ。この駅構内の人たちをさ。百年経てば揃いも揃ってみんな死体。でも姿を見せず静かにどこかで灰になる。だからみんな死なんて非現実のものにしか見えない。限りなく避けようも無いリアルなのにさ。つまり『カラスの死体』だよ。なんかさぁ。みんな本音で話せばいいのになぁ。ウソばっか言ってるから真実が見えなくなるんだよ。カラスの死体が珍しいなんて非常識極まりない。例えばキミがゲイだとしても、ボクは……」
「だから何の話だよ!」
声を荒げた俺が面白かったのか今度は本当に笑いながら「ゴメン、ゴメン。なんつーか、そろそろ時間だわ。じゃ!」と言って三雲は帰りの電車に乗るべく走り去っていった。
ふと時計を見ると俺が乗るはずだった帰りの電車の時間はもう過ぎていた。
仕方なしに俺は駅で二十分ベンチに座り、一人で次の電車を待った。
三雲のせいで、水溜まりに落ちて濡れた靴がやけに冷たく感じられ、ムカついた。
憂鬱なまま電車に揺られ、家に帰るとまだ母親も父親も帰って来ていなかった。
まず靴下を洗濯カゴに入れて晩御飯の用意を始めた。
適当に冷蔵庫を中を見ているうちに、温かいうどんが食べたくなり、うどんを作った。
そのうどんを食べながらテレビをつける。
適当につけたテレビはニュース番組をやっていた。ニュースは奪った、倒れた、死んだ、殺した、……などなど、今日も飽きずにこの世のネガティブを分かりやすく俺に報告していた。嫌気がさして、お笑い番組に切り替えると今度は笑ってばかり、その笑いは決して幸せな笑いじゃない。笑うために笑っているだけ、ポジティブとは程遠い。液晶一枚隔てた世界はやっぱり、どこかリアルではない。
うどんを食べ終わるとテレビを消して、風呂に入って暖まったところでリアルすぎるくらいリアルで気の重くなる宿題をテキトーにこなした。
「ただいま」と玄関で母親の声が聞こえ、俺はそれに応える。
「晩御飯は食べたからいいよ」
「そう、今日は遅くなってごめんね」
いつものことだろ?
俺はノートにもう一度カラスの死体を描いた。
結局、うまくいかず、気分転換に雑誌のモデルを模写した後、ベッドに入った。
ベッドに入って電気を消す。いつの間にか雨は止んでおり、しっとりとした雨上がりの空気があたりを暗く包んでいた。目をつむると三雲にゲイと呼ばれたことを思い出し、少しムカついた。
ゲイ?ただ俺が描いた絵が性的じゃなかっただけだろう?
性的に描けばいいのか?
あの時の宮坂のわずかに収縮を繰り返す胸をリアルに描けばいいんだろう?
それとも唇を柔らかく艶かしく?
玄関で物音がした。
父親が帰ってきたのだろう。母親と何か話しているが、俺には関係のないことだ。
宮坂のことを思いながら毛布にくるまりマスターベーションをしようとした。
あの美術室で椅子に座る宮坂の後ろに回り「おまえは今日はモデルなんだから動くなよ」耳にささやく。そしてわずかに震える宮坂の首元に優しくキスをする。宮坂は切なく甘い吐息が口から漏らす。宮坂は自分から漏れた甘い声が恥ずかしいのか顔を赤くしてうつむく。俺はそんな宮坂の声をもっと聞きたくて制服ごしに宮坂の胸を揉む。宮坂は「いや」といって、俺の手に触れるがその手は添えられるだけで嫌がる気配はない。俺はゆくりシャツのボタンを外し、ブラの中へ手を滑り込ませ宮坂の小ぶりで可愛らしい胸を愛撫する。宮坂は息を弾ませ、吐息のような声を漏らし俺の愛撫に応えている。しっとりと汗ばんだ宮坂の肌を楽しみながら、俺はもう片方の手を宮坂の太ももの柔肌の感触を味わうように這わせる。バスケをしていただけあって柔らかさの中に硬さを感じる太ももの感覚を楽しみながら、ゆっくりとスカートの中に滑り込ませる。そこはもうフライパンの上のバターのようにとろけている。俺を迎え入れるのに充分な状態だ。そこを指で触る。美術室に淫らな水音が響く。宮坂は切ない声をあげながら俺の指の動きに合わせて腰を動かす……。
そんな状況を思いながらペニスをさすっていたが、結局うまくいかなかった。
○
「あ、アレ、OKってことだから」
三限目と四限目の間の休み時間の終わりに今まで見たことの無いような親しみ深げな笑顔の宮坂に唐突に言われた。一瞬、何のことか分からなかったが、チャイムが鳴り終わって社会科の先生が入ってきたところで俺が宮坂に告白したのを思い出した。そのことを忘れていた自分はやはり気が無いのか?それとも薄情なのか?
この了解で、この学生生活がバラ色になる人もいるんだ、と思うと「確かにそういうこともあるかもしれない」と思う。けど今の自分は明らかに覚めているし、心の中をバラ色にできる要素もない。
はっきり「実は気が無いけど、ついつい三雲にの話に乗せられて言ってしまった」と言った方がいいのか?いや、良くないだろ?告白した身で何を言っているんだ、と思う。
とりあえずなりゆきに任せよう。なりゆき任せなら得意だ。
クラスでも空気のように一生徒として流れに身を任せ、自分勝手に動いていながらも何のトラブルもなく学生生活をしている。ようは機転を利かせる時に利かせればいいのだ。いつものようにさらりとやり過ごそう。
授業は滞りなく終わり、いつものように放課後になる。
この決まりきった流れに少しいつもと違う流れが出来ていた。
「ほらよ。部長!」と三雲が美術室の鍵を投げて渡し「プライベートを楽しんでな」と言った。
「おまえも部活に来ればいいんじゃね?風邪でもひいたん?」
「いやいや、そんな出来立てほやほやのカップルの間に入っちゃまずいな、と思ってさ。ホラ、ボク、紳士だし」
「じゃあ、おまえはどうすんだよ?」
「腐敗してきたカラスの死体のお相手。あ、あと明日、藤崎さんが来るって言ってたから明日以降は部活に来るから、宮坂と二人っきりの部活は今日までだよ。じゃあな!」とだけ言って去っていった。
ちなみに藤崎さんは部活のOBで今は美大に通っている。たまに暇を見て後輩である俺たちを見に来てくれていた。
それにしても腐敗したカラスの死体?あの時間が止まったように動かなくなっただけのカラスが腐敗しているんだと思うとなんだか不思議だった。そうだ。腐敗するんだ。三雲の言うとおり人も死ねば腐敗する。土に返るというけど、その土に返る前の不気味な一工程。
不気味な?自然なことなのに人はそれを覆い隠している。
美術室でスケッチブックを開いて、昨日描いた宮坂のデッサンを眺めながら、そんなことを考えていると美術室の戸をノックする音が聞こえた。
俺は「入っていいよ」と言うと昨日よりやや気軽に宮坂が入ってきた。
「三雲君の姿が見えないけど、学校には来ていたよね?部活休んだん?風邪?」
「そんなところ。でも明日から来るってさ」
俺は適当に誤魔化し、宮坂をモデルにデッサンを始めた。
昨日描いたものとはまた違うものだ。ただ宮坂の身体の面や立体構造を意識して形をとりベースを乗せ、描き込んでゆく。
藤崎先輩の話ではデッサンの練習は三時間から五時間で描き上げるのが理想らしい。この辺、俺はどうかと思う。単純に完成すれば早かろうが遅かろうがいいじゃないか。けれどもしかしたら藤崎先輩は美大の受験を前提に話しているのかもしれない。俺と三雲の実力をかっていることは確かだ。しかし俺は美大なんて行く気もない。そして三雲はW大か映画専門学校だったか。後輩に期待してくれているのに申し訳ないがまるっきり気の無い二人に期待されても困る。
人物をモデルに描くのは久々だったので、少し気合を入れるために制限時間を自分の中で設けて描いた。時間は一時間半、俺の本気の集中力の切れるまでだ。せっかくの機会だ。惰性で描いてもしかたない。その制限時間内でできるところまでを描こうとスケッチブックに向かう。描き始めると周囲の全ては見えず宮坂の姿とスケッチブックだけの世界になった。そうなると一時間半なんて一瞬だ。その一瞬が終わると急に周囲が見え始め、どっと疲れが出てきた。とりあえずできたところまでを宮坂に見せると宮坂は本当に嬉しそうに「すごい!」と言ってくれた。
その一言で疲労感が心地の良いものに変わる。
そして俺の絵を見ていた宮坂が言った。
「それにしても雨宮さ。日曜ヒマ?」
「ヒマだけど」
「映画でも行かない?」
「ああ、いいよ」
「何が観たい?」
「行ってから決めてもいいんじゃね?」
何を思ったのか宮坂は真剣な顔で俺の顔をしばらく覗き込んだ後「雨宮って、ホントは私のことをどうとも思ってないよね」と言った。
俺の言葉が悪かったのか。俺の顔に何かそれらしき兆候が現れていたのか。それとも女は男より鋭敏に恋愛感情を読み取る能力が備わっているのだろうか。もののズバリ本心を言い当てられて、俺は「そうかもね」と言うしかなかった。
意外にも宮坂は「まぁ、いいんだけどさ」と別に気にもなく言った。そして「でも日曜、映画には一緒に行って欲しいし、学校内だけでも仲良くしない?」と言った。
「どうして?」と言いかけたところに宮坂は自分のケータイを俺に渡した。
そのケータイには昨日の日付の受信メールが映し出されていた。
From:白石香織
subject:こんにちは
今日はカラオケに一緒に来てくれてありがとう。すごく楽しかったです。
話は変わりますが、以前、加奈がアキレス腱を切った時、真っ先に私に相談してきてくれたことがありましたね。
前に話したとおり私も中学生の時、陸上部で走り込みの時にアキレス腱を切ってからというもの運動部とは無縁になっていたので加奈の境遇は分かります。
周囲を取り巻く環境が微妙に違ってきたり、今までの自分のアイディンティティが崩壊して辛いですよね。
教室内で今までと同じように明るく振舞っている加奈を見ると私の胸の内に軽い痛みを感じます。
私には加奈の辛さが分かります。
その辛さは時が癒してくれるでしょう。
けれど同じ痛みを知るもの同士で分かち合うこともできると思います。
実は高校に入ってからというものずっと加奈のことを見ていました。
多分、こういうことを言うとひかれるかもしれません。
けれど私たちは高校二年です。お互いの進路も違うと思う。
つまりあと一年で離れ離れになる身ですね。
私はこのままで終わらせたくないんです。
私、加奈のことが好きです。
あの晩、アキレス腱のことに関して私に電話をしてくれ、その心情の全てを話してくれました。
もしかしたらと、自惚れていいですか?
加奈も私のことを私同様に思っていると思う。
間違いかもしれません。もし間違いでなかったら、今すぐ会いたいのです。
○○駅で待っています。
--END--
俺は読み終わると軽く平衡感覚を失った。
ごっそりとリアルな感覚が遠のき、言葉がまるで口から出てこなかった。
多分、かなり間の抜けた顔をしていたに違いない。
そんな俺の顔を見ながら、宮坂は困ったような笑ったような顔で言った。
「トモダチ多いとニンゲン関係が大変なんすよ」