キスからキスまでの問題点
「じゃあ俺が告白したら?やっぱワケ分かんない?」
自然に口から言葉が出ていた。声は通常の口調と変わったところはなかったが、内心焦った。
まるで俺が宮坂に告白しているみたいじゃないか。いや、「みたい」じゃない。これは告白だろう。
どうしてこんな言葉が口から出たのか考えてみると「宮坂、おまえに気があるぜ」という三雲の言葉を思い出す。どうしてこんな言葉が俺の口から出たのか。ただ自分が宮坂にどう思われているのか知りたかっただけなのか。もしかしたら実際、俺は宮坂のことが好きなのか。
俺は再び宮坂の顔を見て「冗談だよ」となし崩しにすまそうとしたが、宮坂は少し困った顔をしながらも目は俺の顔を真剣に見つめていた。
その顔を見て俺は確信した。確かに宮坂は俺に好意を持っている。
少し鼓動が高まるのを感じて宮坂から目をそらし削った鉛筆の芯を手の内で眺めた。
俺は何も言わず、ただ宮坂の答えを待った。
どう答えてもらってもかまわない。どうせイエスでもノーでも俺のポジションは変わらない。
どうせクラス内でも個人主義者で通っている俺だ。失恋しようが、恋が始まろうが、他人に何を言われても一向に構わない。俺が宮坂に知らず知らずに恋愛感情を持っていたとしても、それに俺自身が今まで気づいていなかった。そんなささやかな恋愛感情だ。もし今ここで失恋したなら少しは自尊心が傷つくかもしれないが、失うものはそんな少しの自尊心と授業から授業の間の休み時間の話相手を失うくらい。単純にそれだけだ。
「それって……」半分困って、半分笑った顔で宮坂は言った。
「俺と付き合わない?」俺は微笑んで言った。
どう転んでもいいが、自尊心を傷つけられるのは少し嫌だ。
宮坂の少し困ったように下を向き言葉をつぐんでしまった。俺はその間をどう取り繕っていいのか分からず、鉛筆を手の内で転がしてから、しばらく窓ガラスを打つ雨粒と暮れゆく雨空を眺めた後、宮坂に「明日もモデルに来てくれる?」と言った。
「うん」
俺の言葉の後に少し間をおいて宮坂は少し嬉しそう言った。
その言葉は俺の耳には限りなく肯定の言葉に聞こえ、なんだかほっとした。
どういう意味でほっとしたのか?
結局のところ、単純に宮坂が俺に気があるのか、どうなのかを確認できたということだ。
その答えは得られたし、この後、なんとなく面倒臭くも楽しそうなものが待っている予感もする。
ただ少し胸にわだかまりのようなものがあった。
この俺の宮坂への告白(告白とはいえないかもしれない)が三雲の「宮坂、おまえに気があるぜ」という一言によってできた状況だということだ。その一言がなければもしかしたら俺は宮坂にこんな言葉をかけなかっただろうし、特別意識せず、卒業を迎え、別々の進路を行き離れ離れになって、数年後に同窓会でもあれば「やあ、懐かしいな」で終わる仲だっただろう。それがこのザマだ。恋愛?恋人?彼女?正直よく分からない。そもそも人を好きになるってなんだ?そんな得体の知れない恋愛ってヤツを三雲の言葉に動かされて始めたようで、なんだか自分自身が許せない。そして宮坂に特別な感情を持っていない俺にとって、宮坂とは「自然に別れられる想い出作り」になる可能性も高い。
「今日は終わり」と俺は宮坂に言って鉛筆を筆入れに戻し何気なくポケットに手を入れた。
そのポケットの中には三雲が俺に渡した穴の開いたコンドームが何かの呪いのように存在していた。
○
「じゃあ美術室の鍵、教務室に返してくるから」
「そう、じゃあね」
宮坂は軽く手を振って帰ろうとした。なんだか肩透かしを食らっているようで「駅まで一緒に帰らない?」と言った。けれど「またね」と笑顔で言われ、俺も「じゃあ」と手を軽く振って廊下で宮坂を見送った。
告白してOKをもらったはずだと思っていたが、違うのか、と自問自答してみる。
結局、答えは出ずに教務室へ行こうと後ろを振り向くと廊下の向こうから三雲がこちらに走って来るのが見えた。
「よお」と駆けてきた三雲が俺に言った。「今、宮坂と一緒にいただろ?うっわー、ボクがセンセーに長々と説教食らっているときにプライベートモデルで練習?いやぁ、いいねぇ。ったく、部長さんは。でも渡してよかったよ。コンドームをさ。……使った?」
「んなもん使うわけねぇだろ」
「使わなきゃダメだろ?責任取れるん?」
いつものように口の端だけ吊り上げるだけの笑みを浮かべて、校内で不謹慎なことを大声で言う三雲に俺は「返しておけよ。副部長」と美術室の鍵を放って渡した。
三雲はそれを受け取ると「じゃあ教務室にコレ返してくるから駅まで一緒に帰らね?」と言ってきた。
今さっき宮坂と一緒に下校しようとして断られたばかりで、次に三雲に一緒に下校するのを誘われる。なんだか、ちぐはぐで妙な気分になったので「一人で帰る」と言った。
三雲は「一緒に帰ろうぜ。宮坂のヌード描いたんだろ?見せろよ」と子供じみたことを言っていたが、俺は三雲に構わず玄関に向かった。
「ちょっと待てよ!」
後ろの方で三雲の声が聞こえたが俺は無視して歩いた。
外に出るとまだ雨は上がらず、いつもより薄暗くなっており、道路の街灯と体育館から漏れる明かりがやけに明るく見えた。傘を持って来なかったが、傘立てにコンビニでよく見る安物のビニール傘が置き忘れられていたので、それをありがたく拝借すると俺は駅に向かって歩き始めた。
長く降り続いている雨はアスファルトに多くの水溜りを作っていた。俺の履いている薄い布性のコンバースでは容易に雨水に濡れてしまう。俺は下を向き水溜りに足を入れないように歩いた。
宮坂とは駅まで一緒だ。別に一緒に帰ってもよかったはずだ。
単純に廊下の向こうに俺たち二人に向かってきた三雲の姿が見えたから、一緒に帰ることを拒んだのだろうか。まぁそれならそれでいいし、別の理由だとしてもいいだろう。例えば俺が勘違いしているとか。
でもこうやって宮坂のことを考えている自分がよく分からない。
例えばだ。もしこのまま付き合うとして。
いや、「付き合う」「交際」とはそもそも何なんだ?
大人の男女の関係は分かる。しかしそこへ至るまでの経緯がよく分からない。
デート?それはどうやってやるんだ。
俺が言うのか?「遊園地でも行かないか?」「動物園でも行かないか?」とか。
そう言って俺が宮坂と一緒に遊園地なり、動物園なりを歩くとして、それからどうすればいい?一緒に手をつないで微笑みを交わしながら歩く姿を想像したが、それはテレビドラマのように安っぽく、作り物じみていた。
結局、何がなんだかよく分からない。キスとその先は理解できて、他はまるで理解できない。もしこれから宮坂と付き合うとして何をどうしたらいいんだ?
簡単に言うと、だ。
キスからキスまでの間をいかに過ごすか、それが問題だ。
その時、後ろから唐突に何かがぶつかって俺はよろめいて水溜りに右足を入れてしまった。
一瞬で靴は濡れ、靴下越しに冷たい雨水を感じた。
「ったく、置いて行くなよ、部長」と言う声に後ろを振り返れば、三雲がいた。
髪が雨に濡れ、走ってきたのか息を弾ませ「傘忘れたんだよね」と言った。
「てめぇ、足濡れたじゃねぇか!」
俺が怒ると「まぁまぁまぁ……」と雨で濡れた髪の毛をハンカチで拭きながら、相変わらず感情の薄い形だけの笑みを浮かべながら傘の中に入ってきた。
「コンバースって本来、バスケシューズじゃん。内履きなんだよね。雨には不向きだし。こんな時に履くもんじゃないよ。まぁ傘忘れたボクが言うもんじゃないかもしれないけど」と言った後、思い出したように「そうそう、見せてよ、絵」と言って俺が小脇に抱えているスケッチブックを見た。
「駅に着いてからな」と俺が言うと三雲は「よし」と頷いて一緒に歩き始めた。
それにしても男二人で相傘なんてシャレにもならない。これが宮坂ならなんとなくいい感じもするか?
いや、なんとなく面倒くさいし、その光景を人に見られるだけで気恥ずかしい。
付き合うとそれが当たり前になるのか?
結局、宮坂との関係はよく分からないことだらけしか待っていない。
駅に着くと帰宅する人でごった返しており、待合室の椅子も案の定満員だった。
仕方なしに俺たちは駅構内の隅にある自販機の脇、美術とはまるっきり無縁の埃っぽいところでスケッチブックを三雲に手渡した。
二人だけの美術部だ。率直に意見は言い合うことにしている。
良いことも悪いことも忌憚なく言い合う。
そりゃ、ライバル同士見せ合って意見を言い合うのは気分が悪い。けれどそうしなければ上達しないと思っている。美大に行って暇な時にうちらを見に来てくれる美術部の先輩曰く「デッサン力は質と量。たくさん描いて、けれど一枚一枚に集中する。そして厳しい目で自分の弱点を見つけ改善していくことだ」だ。
厳しい目で自分の弱点を見つける、なんて簡単だ。三雲に話をさせればいい。
口を開けば毒を吐く。評価に関しても辛辣だ。けれど、どこか公正なところもあった。
それに三雲に見せることに対してビビっていたら、三雲に負けているようじゃないか。
いつかコイツを俺の前に跪かせることが俺の目標でもある。
「いいじゃん、これ。死んでる」
意外な言葉を三雲が言った。最後の死んでるは消え入りそうな声だ。長年の付き合いだから分かる。この声は明らかに自分の負けを認めている声だった。
少し誇らしげに思ったが、死んでいるとは落書きで描いたカラスのことだろう。あれくらいで関心されても少し困る。俺は三雲を少し買いかぶりすぎていな、と思ったところへ「カラスは全然だけど……」と椅子に座った宮坂を描いたページを出し俺に見せた。
「これはいい」と言って俺に見せた後、三雲はもう一度その絵を観察していた。
それはスケッチブックの上に描かれた椅子に座っている宮坂の描きかけの絵だ。
描き込んだのは顔だけだったが確かにその顔は死んだ人のように見えた。
ふと描いている時のことを思い出す。俺は宮坂を見て、何を思ったのか?
リノリウムの床で冷たくなって横たわった宮坂だ。
それはやはりデッサンではなく、単純に自分の妄想を描いているものだ。
練習なんだからもっと人として描けばよかった、と俺は思う。
けれど三雲は違うらしい。
きっとこの差なんだと薄っすらと気づいてきた。
あの三雲の描いたカラスの死体と俺の描いたカラスの死体の差。
あれは三雲の思い描いた死が俺に迫ってきたのだろう。
俺は何か掴んだような感覚を覚え、三雲からスケッチブックを奪うともう一度、絵に描いた宮坂を見た。
このイメージなんだ。
俺は自分の絵を見て頭の中にその感覚をしっかり刻み込んだ。
「それにしても」三雲が言った。「宮坂とはどうなん?」
俺はスケッチブックを閉じて駅構内の壁に掛けられている時計を見た。
できれば家に帰って今の感覚で何か描いて見たかったが、電車が来るまで少し時間があったので、少し三雲と話をすることにした。
「どうって?」
「やれそうか、ってハナシ」
そうだ。コイツのお陰で悩んでいるんだ。いや、悩みと言っても悩みらしい悩みではないかもしれない。嫌だったらいつでも止めれるし、もしかしたら俺の勘違いかもしれないのだ。
やれることはやれるかもしれない。しかし、三雲のペースに乗るのが嫌だった。
「できそうもないね」と素っ気無く答えた。
「できそうもないかぁ、でもさ。スゲーよな、日本の法律って……」
「いきなり話がでかいな。日本の法律って」
「いやさ。ボクたち十六、七じゃね?この年齢って女は結婚できるんだぜ。男女お互いの了承済みなら、五十のおっさんと宮坂は結婚できる。つまり、あの宮坂の引き締まった体の上にデブったおっさんが乗っかって腰振ってもOKなワケじゃん。法律的に。しかもゴムなしで。でもボクたちは法律的には一切手を触れてはいけません。陰でやってもいいけどゴムつけてね!みたいな。そりゃ社会的に未熟なワカゾーだから仕方ないけどさ。ワカゾーにはワカゾー同士の愛があるワケよ。つまり女と男の結婚できる年齢が一緒でもよくね?とボクは思うワケ。でも一般的に考えてよくない。赤ちゃんができたらさぁ大変。ハイティーンのボクらはどうする力もない。でも五十の男で社会的に地位も収入もある人間ならどうにでもなる。十六の女の子を孕ませても。……なんつーか、一種の暴力だよね」
そう言ってこちらを伺うような笑みを浮かべながら「もし五十のおっさんが宮坂をどうにかできるんだったら、キミが宮坂をどうにかしたいと思わない?つか、そっちの方が清潔だよね」と言った。
三雲の言い方はいつも流れるように耳の中に入ってくる。けどそれは三雲の口調や声のせいでそう聞こえるだけで聞いている人が不快になることを平気で言う。今回だって遠まわしに言わなくても「『できそうもない』とか、さらっと言ってんじゃねぇよ。おまえ、宮坂とやりたいだろ?自分以外の人間が宮坂と寝るのが許せるのか?」と言えばいい。コイツはどういうワケか俺を不快にさせたいらしい。けれど俺の答えは決まっている。どうせ宮坂が誰と寝ようと変わらない。俺は俺。アイツはアイツ。それで完結している。俺と宮坂を結びつけたのは三雲だ。その三雲の妄想に俺は踊らされてしまっただけだ。たまたま偶然が重なって。だからこの偶然の産物をどう処理するか困っている。
だから俺は「いや、いいんじゃない?五十のメタボが宮坂の上に乗っかって、脂汗かきながら腰振って、ベッドを軋ませて、宮坂が口の端からよだれを垂らしながらよがり狂ってもさ」と笑顔で答え「で、なんでおまえは俺をそんなに宮坂とくっつけたいワケ?」と言った。
その言葉に三雲は「雨宮、キミさ。ホントに宮坂には気がないんだ。宮坂も不憫だねぇ」とつぶやいて、真剣なまなざしで俺を見て言った。
「なぁ雨宮、ボクと付き合わない?」