穴あきコンドーム
「僕」という一人称がある。
作文で「僕」という一人称を使う高校生はいるだろう。俺だってそうだ。普段、自分のことを「俺」と言うが。けれど作文でなく言葉で「僕」を使っている高校生なんてまず普通はいない。
そりゃ、普通の高校ではない、もっと品のある高校なら「僕」という一人称を使っている人が大勢いるのかもしれないが、あくまで一般的に「僕」を使っているのは俺の周りにはいなかった。
よくよく考えればかかりつけの医者は「僕」を使っていたような気もするが、とりあえず少数だ。
かかりつけの医者と三雲……知っているだけで二人。少数というより、ごく少数。
何故、三雲が「僕」という一人称を使っているのか分からない。親の教育のせいか、周囲の(家庭や親戚関係)環境の影響だろうか、それとも単純にクラスの中で「僕という一人称を使っている自分」というキャラをアピールしたいのか、その辺のところは分からない。
当たり前のように「僕」という一人称を使っていた。
ただ俺には三雲は「ボク」と言う時、何故か吐き捨てるように言っているように感じられた。
いや、それだけじゃない。三雲「僕」だけでなく全てを吐き捨てているというか、何でも投げやりな態度をとっていた。「人生なんてくだらねぇ」とポーズだけのクールさを持っているヤツはいたが、それとは明らかに違っていた。こいつはポーズだけでない。もっと達観したものを身にまとっていた。
○
「おはよう。雨宮、昨日はごめんね」
朝、一限目の授業が始まる前、教科書を机に出して、なんとなくぺらぺらと眺めている時に宮坂に言われた。「ごめん」と言われて一瞬戸惑ったが、宮坂がモデルを友人からの電話でドタキャンしたのを思い出して「ああ、いいよ」と軽く受け流した。
なぜなら、もう人間のモデルは必要ない。
「今日は大丈夫だから、いやぁ。ホントごめんね」
「今日っていうか、もう新しいモデルができたからいいよ」
「はぁ、誰?」
俺はカラスと言おうか、カラスの死体と言おうか、と少し悩んだが、結局「風景画にした」と適当な言葉で誤魔化した。カラスの死体を模写していることが、なんだか禁忌のようなものを感じたからだ。禁忌というのも可笑しいかもしれない。ただこういう日常的な場で言ってはならないような、そんな感じ。
それと「カラスの死体を模写することにした」と馬鹿正直に言って「どうしてカラスの死体を模写するの?」と問い返されてもどう答えてみようもない。素直に「動かない完璧な(しかも腐るからなお良い)モデルをスケッチすることにした」と返答したところで宮坂がどういう顔をするのかくらい想像がつく。
「へぇ、風景画かぁ」と宮坂は相槌を打った後、思い出したように「じゃあ、あの後、三雲君と一緒に風景画を描いてたん?土砂降りだったのに?」と言った。
「ああ、雨が降る前に少し描いただけだから」
「ふうん。じゃあ私、これから用無しか」と宮坂は至極残念そうに言った。
「そんなに残念がることもないじゃん」
「だってねぇ。部活もないし、なんだか授業が終わるとふっと時間が空いてさ」
「いいじゃん。塾にでも専念すれば。どうせ三年になれば受験勉強だけだし、部活っていってもあと数ヶ月で終わりだし、ひたすらベンキョーしとけば?」
「そうなんだけどね。なんだか青春サボってるって感じでさ」
「なんだそれ?」
「なんつーか、アレだよ。燃えるものが欲しいワケ」
「燃えるものねぇ」
「ベンキョーだけが高校じゃないし、これから嫌でも受験勉強だしさ。それまでに何かしなきゃいけないような気がしてさ」
「それは分かるけどね。でもモデルやっても仕方ないんじゃね?」
「とりえずよ、とりあえず!……やっぱ部活を頑張っていたせいかな?帰宅部って、なんだか嫌なんだよね」
何気なく普段通り、宮坂と話していたが、昨日三雲の言っていた「やってしまえば?」という言葉を何度か思い出して、なんとなく宮坂の顔を直視することができなかった。
宮坂と話ながら教室の前の方の席にいる三雲の背中を軽くにらんだ。
「それにしてもさ。仲良いよね。三雲君と雨宮ってさ」
「そうか?仲良くないぜ。部活が一緒ってだけで遊んだりしないし」
俺が三雲の背中を見ていたから言われたのか、それともモデルの話の延長で俺と三雲の話になったのか分からない。急に宮坂は話題を変えてきた。
「え?そうなん?」
「ホント、あいつと仲良くねぇよ」
「うーん、でも、なんていうかさ。三雲君って『こっからはボクの領域だから入るな』ってオーラ出していてさ。周囲に壁作ってるじゃん。それで周囲に馴染もうとしないっていうか……だからいつも一人でいてさ。嫌っている人も多いと思うよ。でも一人でいても全然、平気な顔して……でも雨宮といつも一緒だし、仲良くやっていると思ってた」
「ああ、周囲から見ればそう見えるんかな?けどライバルだからお互いズケズケものを言い合えるだけ。そりゃ、お互い同じ趣味だから話が合うところもあるけど、実際はお互いムカついてんだよ。『自分の得意なジャンルで自分に匹敵するヤツがいる』ってさ。でもお互いの実力は認める。けど、馴れ合いはゴメンだね。認めるところは認めるけど、結局、お互い『あいつより自分の方が上』って思っているからさ。仲良くはできない。けれど今の自分以上の実力を身につけるためにはお互いが必要。……なんつーか、そんなところかな?」
「おお、ライバルかぁ……いいっすねぇ。そういう関係」
宮坂は「まさに青春」と言葉を繋ぎ、うんうんと演技じみた頷きをした。
「三雲は周囲に壁を作っている」聞いて、確かにそうかもしれない、と思った。確かに壁を作っていた。それもかなり分厚い壁だ。それはただ単に三雲の個性と言ってもいいかもしれない。自分に属している部分があるか、そうでないか。単純な好悪で人を見る。誰だってそういう傾向はあるが、三雲の場合その度合いが強い。しかも普通より、かなり。
そしていつも一人でいた。自分の個性を……いわば自分自身を理解してくれる人なんていない。それに理解してもらわなくてもいい。そういう協調性のない子供のようなわがままが三雲の周囲に壁になって存在している。けれど、その壁が三雲独自の世界を深めて行っているように思えた。
おそらくクラスの大多数は三雲を金持ちの息子で自分の殻に閉じこもっている偏狭な男くらいに思っているだろう。けれど三雲が深めていた世界を見ている俺にとって三雲はただの偏狭な男ではない。
「カラスの死体」だ。
リアルの死を切り取って紙の上に書き写していた。
三雲の子供のような笑みを浮かべながら。
あの笑みは平気で虫の足や羽を摘んで取ってその人為的な不具を楽しんだり、カエルの口に爆竹を咥えさせて爆発させたりして喜ぶような類の笑みだった。
偏狭な男というより軽いサイコ野郎。
俺は再び三雲の背中を見た。
ふいに昨日帰り際にどこの女とやったのか、と聞いて間髪入れず「妹」と答えたのを思い出した。
三雲は普段、なんでものらりくらりと冗談を言っているように話す。
馬鹿にされてるんじゃないかってくらい冗談交じりに話す。
(ヤツのことだ。実際馬鹿にしているんだろうが)
「妹」というのも何かの冗談のように聞き取れたが、その言葉には冗談に聞こえないものも感じた。
「なぁ、宮坂、おまえさぁ。兄弟いる?」
思わず宮坂に聞いていた。
「お姉ちゃんがいるいけど、それが?」
「いや、なんでもない」
「もし兄がいるとして、兄とできる?」なんて、とてもじゃないが、ここでは聞けない。
それこそ禁忌だ。俺の言葉に宮坂が何か言いかけたが、教室に先生が入ってきたので言うのを止めた。
もう一度三雲の背中を見た。
ただ、制服と艶のある髪の黒さだけが目に入る。
そこにはいつもどおりの冗談交じりの軽い態度も壁も感じない。
俺はヤツの作っている壁を何も感じず、むしろその個性を面白がって入ってきた。
三雲は俺を同類だと思われているか?
いや、壁に入ってきた俺をライバルだと思っている。確実に。
だからこそヤツは俺に自分の真実を見せ始めた。
「カラスの死体を模写しないか?」
ようはこう言いたいのだろう?
「雨宮、君はボクの考えてることが理解できるか?」
OK。いいだろう。
思い違いかもしれないし、実際そうかもしれない。
とにかくヤツは俺に「カラスの死体」の模写を提示してきた。
今のところ一歩遅れをとっているが、最終的に追い抜いて、ヤツより黒く腐っていく死体を上手く描いてやる。
これから受験勉強に卒業、別々の大学生活。一進一退の絵の勝負、最後に勝ち逃げなんて、高校最後の想い出作りにピッタリだ。
黒板に書かれたものをノートに書き取りながら、心の中で「シスターファッカーのサイコ野郎」と呟きながら三雲の背を見てノートの端に落書きをした。
簡単なカラスの死体。首だけ三雲。そんな落書。
○
いつものように授業は終わった。だが放課後がにわかに忙しくなっている。担任は希望者に進路について相談を受けているらしい。まだ忙しなさと無縁のヤツらもまだ多くいるが。
学校内の空気が変わりつつあった。
受験に関しては俺は地元の短大に決めていた。
美大という選択もあるにはあったが、親は反対するだろう。なにより堅実な選択を喜ぶ人たちだ。そして何より美術部の先輩の話では画力があってコンテストに受賞歴があったとしても受験は受験で別物らしい。それにデッサン力一つとっても独学では身につかないので予備校なり講師なりについて学ばなければならないらしい。デッサンについては美大に入った美術部の先輩がたまに来て、俺と三雲の絵を見てくれてはいたが、それにしたって、美大ごとに求めるものが違うらしい。つまり色々話を聞くと俺は実力はあるが、美大を受験することとなると、別の問題だということだ。
何よりこの不景気に絵だけで食べていける程、世の中甘くはないだろう。
だからこそ次回のコンテストは最高のものを出したいという気持ちがあった。
とりあえず、ここ数日はコンテストに向けて、カラスの死体で練習しようと思っていた。
けれど昼間は晴れていたが急に曇り始め、今は雨が降っていた。
今日はカラスの死体の模写は無理ということで、普通に静物画のデッサンをしようと言うことになり、俺は美術室の前で三雲を待っていた。
美術室の鍵を開けるのは副部長の仕事だからだ。
十分くらい美術室の前で待っていたが、三雲は教務室へ行ったきり帰ってこなかった。
仕方なしにスケッチブックを開いて自分の描いたカラスの死体を見ながら、三雲が描いたカラスの死体とどこがどう違うのか考えていた。
しかし、どこをどう見ても同じカラスに違いない。
けれどあの時に見た三雲のカラスは何かが違っていた。
自分の描いたカラスに見飽きた頃、「悪りぃ、悪りぃ」と全然悪くなさ気に三雲が鍵を指でくるくる回しながらやってきた。
「早くしろよ」
「いやぁ、進路についてセンセーにつかまってさ。今、また教務室に戻らなきゃならなくなって。ったく、あのおっさん、なげーんだよ。ハナシがさ。つか、自分の将来くらい自分で決めさせろって。なんつーか、ボクが決めてることなんだからさ。それでいいんじゃね?アンタに決められたくねぇんだよって、……つーことで、まぁこれから進路についてのハナシらしいんで、鍵だけ渡しにきた」
そういうと鍵を俺に投げてよこした。
「お疲れ様。で、おまえどこの大学にするんだっけ?」
「T映画・映像専門学校。映画監督になりたいのにさ。それが『おまえの学力ならW大狙える』だって、ばっかじゃねぇの……」
映画監督と聞いて、ちょっと心の平衡感覚を失った。
どこでどうなって三雲が映画監督を目指し始めたのか分からない。
そして三雲に東京のW大を狙える学力があったのか、と意外な気がした。
俺はこいつのことをある程度知ってると思っていたが、思っていたより俺はこいつのことを知らないのだと今更ながらに気づかされた。
「そんなわけで雨宮、悪りぃけど、今日は死体も描けないし、コンテスト作品も描けないからさ。今日は一人でゆっくりやってくれよ。なんなら宮坂でも呼んでプライベートなデッサンしても構わないしさ」
「ほらよ」とポケットから小さく薄っぺらな正方形のものを取り出し俺の手元に投げた。
受け取って見るとそれはコンドームで、なんの冗談か真ん中には針か何かでくっきりと穴が空けられていた。「責任取れないならゴムは付けねぇとな……じゃ、がんばれよ」と、教務室へと戻って行った。
相変わらず、どこまで本気でどこまで冗談か分からない。
穴の空いた使えないコンドームを学校のゴミ箱に捨てるわけにもいかずポケットに締まった。
窓を見ると雨がまだ降り続いて、一向に降り止む気配が無い。
とりあえず鍵を開け美術室へ入り、スケッチブックを取り出し、またカラスの死体を見た。
三雲に会った時、三雲の描いたものを見せてもらうんだったと思ったが、一抹の悔しさもある。
コンテストに向けての作品でも描こうと思ったが、スケッチブックを開くと俺はカラスの死体の続きを描き始めた。
脳裏の中に残っている死後硬直しているカラスの姿をスケッチブックに写してゆく……必死に思い描き、鉛筆を走らせた結果、完全に死んだカラスが描けた。
けれどそれはあくまで俺の想像のカラスの死体で本当の死ではなかった。
もっと身体は死後硬直で固くなっているはずだし、黒ももっと生気のない黒さだった。こんなわざとらしく嘴を開けているはずは無い。想像だけではやっぱりダメだ。実際、死んでいるカラスが今欲しい。
そんな時、がらがらと美術室のドアが開いた。
三雲かと思ったがヤツなら、こんな恐る恐るドアを開けたりしない。
「雨宮いる?」
宮坂がまた昨日のように恐る恐る顔を覗かせた。