コーヒー&シガレッツ
もしかしたら俺はこの時、宮坂が言っていた仮面を始めて見たのかもしれない。
宮坂はメールでラブレターを渡した白石香織に対して、ただのウェイトレスとして接した。まるで他人に対して話すようにチョコレートパフェを頼み、俺に対しては必要以上に親しげな笑みを浮かべメニュー表を渡し「確か甘いの苦手だったよね。コナ・コーヒーがいいかもよ」と言う。そして先ほど観た映画のことを話した。その話は映画館からここまで来るのに話した内容がほとんどだった。俺は少し不快感を覚えながらもその話題に合わせた。
既成事実というか、付き合っているというポーズをとるだけでいいと思っていた自分が甘かったのか。
まさか白石香織がバイトをしている店に俺と一緒に行くとは思ってもみなかった。穏便に収めたいと言っていたのは宮坂じゃないのか?それとも言葉でなく行動で示す方がいいとでも思ったのだろうか?とにかく俺の気持ちになってくれ。お前と俺はトモダチなだけで恋人でもなければ、辛苦を共にする親友でもない。ただの話仲間だろう?俺は白石の視線を感じながら、宮坂の言われるままコナ・コーヒーを頼んだ。
白石香織は俺たちの頼んだメニューを確認のため繰り返す。
俺は宮坂と顔を合わせるワケでもなく、白石の顔をみるワケでもなく、テーブルサイドにある色彩豊かなデザート・メニューを眺めていた。
白石の声は何の感情もこもってない。ただチョコレートパフェとコナ・コーヒーですね、と注文されたメニューを確認した後、メニュー表を受け取ってカウンターの奥に消えていった。
「ごめんね」宮坂が俺に言った。
「正直に言ったら来なそうだったからさ」
「かもね」と俺は言ったが実際どうだろう?言われても来たかもしれない。
俺は彼女達の関係からは部外者に近い。ただ宮坂に少し協力しているだけだ。
ただとばっちりは嫌だし、人を意図的に傷つけるのは趣味じゃない。
しばらくして白石ではない別のウェイトレスがチョコレートパフェとコナ・コーヒーを運んできた。
そしてカウンターの奥から薄手のトレンチコートを着た白石が何かから逃げ出すような様子で出てきて、こちらを一瞥もせず早足で帰っていった。その横顔は特異な病気を抱えた病人のように無表情だった。
「いいのかよ」俺は言う。
こんな事をしても嫌われて困るのは宮坂の方だろう。
そんな俺の心配に対して、宮坂は無言で自分のケータイ電話を取り出し、受信メールの一覧を俺に見せる。下へスクロールするとしばらく白石香織の名前が続いた。もしかしたらこのケータイのメモリには白石香織しか記録されていないんじゃないか、と思われるくらい。
「読む?」
俺は首を横に振った。読まなくても文面が分かりそうな気がした。
「だからさ。言っても聞くような人じゃないみたいだし。このままにしておいてもお互いに悪いしさ。ハッキリ行動に示した方がいいと思ってさ。他にいい方法もないし。学校で恥じかかせるよりはいいかと思って」
さきほどとは打って変って、お互い黙り、窓から外を見た。
下には歩道を行きかう人のが見え、空は鉛色に染まっていた。
やがて、ぽつりぽつりとガラスに水滴がつく。
「女心と秋の空」俺は呟く。
宮坂は重いため息を吐いた。深呼吸のように長く、細い息だった。けれど深呼吸のように体内に空気を入れることはできない。ただまとわりつくような重苦しい空気を一度吐き出し、再び同じ空気を吸うような、そんなため息。
○
次の日の放課後、美術室で俺は一人でスケッチブックを眺めていた。
三雲はまた担任に呼び出されていた。
問題があって呼び出されているのではなく優秀だから呼び出されていた。高校最後の一年間を勉学に励んでW大を目指すか、それともダラダラやってT映画専門学校に行くかの選択での呼び出しだ。だが本人はもうW大に行くと決めていた。しかし、親と担任の言うことを素直に聞くのが嫌だから、と子供じみた理由でT映画専門学校へ行くと見せ掛けで突っ張っている。
俺が三雲の親ならぶん殴って言う事を聞かそうと思う。ただ単なるワガママ小僧ごときにナメられてたまるか。大人の沽券に関わることだ。むしろ俺が三雲の親の代わりにぶん殴ってやりたい。単純にイラつくから。
だいたい変なことに無駄に時間を費やされても困る。カラスの死体を描く時間が惜しい。
カラスの死体の事を考えると居ても立ってもいられなくなる。
今、カラスの死体こそ俺にとっての興味の全てだ。そして、今、この心境で描かなくてはならない。誤解と理解と現実の狭間にある確かな真実を理解せず答えをだせないまま模索しているうちに。
俺は常に変化する。心境だったり、身体に成長だったり……時を止めておくことはできない。けれど絵は今を映す。今、この瞬間のこの心境を一枚の絵にすることができる。今、カラスの死体を描かなくてはならないのだ。それもライバルの三雲と一緒の方がいい。その方がいいものが描けそうな気がした。
だから一人、美術室でヤツが来るのを待っていた。
スケッチブックに描かれたカラスの死体(もう四羽描かれている)を眺めながら、今日はカラスの死体がどう変化したのか頭の中で思い描いていた。
いったい俺はどこまで死体と向き合うつもりなんだろう、と思う。
三雲が描くのなら俺は三雲を追いかけるようにして描くのだろう。
腐敗し、骨になって、死体ですらないカラスの残骸になるまでだろうか。
今、こうやって死体と向き合って何かが深化していく感覚がある。研ぎ澄まされ、まるで今までの自分とは違った別の視野だ。この視野や感覚が死体と向き合うことで変化してゆく。今の自分では想像も付かない感覚。もしかしたらある一定のところまで行くと俺自身が変わってしまうのではないだろうか。
抽象的だった死を眺め続けて、現実のものとして受け入れる。
今までの自分が変えるということは、周りの世界もまるで変わったものとして見えてくるに違いない。
「百年後、この駅の構内にいる人、皆、死体になるんだぜ」
いつだったか三雲の言っていた言葉を思い出した。
おそらくはそういう感覚を手に入れるのだろう。
俺は三雲と同じになりたいのか?同じ感覚でこの世界を見てみたいと思っているのか?
そうなのかもしれない。ライバルとして一歩先に行っている人間と同じ視線でものを見てみたい。
その時、美術室の戸をノックする音が聞こえた。
その遠慮しがちなノックを宮坂だと思い「三雲ならいないよ」と返事をした。
しかし、戸が開くとそこに現れた女子は宮坂ではなかった。
その女子は天然パーマの髪を短くしていた。少し垂れ目でメガネをかけており、顔は痩せているが不必要にこけた頬が不健康な印象を持たせる。そしてスカートは膝下丈で内履き用の運動靴は買え換え時を失ったまま徹底的に古びていた。
「何か用?」
宮坂と間違えたバツの悪さもあって、俺の声は不機嫌だった。
それとその女子のおどおどした態度が俺の不機嫌さを加速させた。
「……いえ、あの」
口ごもり何か言いたそうにしていたが、何も言えずに気弱そうに立っていた。
この女子の顔の知っている。自分のクラスにいるはずの子だが、名前がなかなか思い出せない。
その女子はしばらく下を向いていたがやがて意を決したように手に持っていた白い封筒を俺に渡した。
一瞬、ラブレターかと思った。こんな名前も思い出せない女子からラブレターをもらったところで嬉しくともなんともない。むしろ目の前で破ってやろうかとすら思った。けれどその封筒に書かれた名前を見て俺は驚いた。
「……あの白石さんに頼まれて、じゃあ」
それだけ言うとまさに狼から逃れるウサギのごとく美術室を出て行った。
俺は『白石香織より』とだけ書かれた白い封筒を手に長いため息を漏らした。
「渡す相手が違うだろう」
殺風景で何の装飾もない封筒だった。まるで容赦なく全てを凍えさせる北国の雪原を思わせるくらいの殺風景さだ。封筒止めのシールすらなく、まるで「さっさと読んでくれ」と言わんばかりだった。
そういえば、あの女子は白石のグループにいた子だ。確か名前は岩淵だったと思う。下の名前はどうしても思い出せなかった。性格がおとなしく地味な岩淵は垢抜けた連中の多い白石のグループの中で異質だった。どうして白石のグループにいるのか分からないくらい。おそらくは仲がいいとか、話が合うとかそういう友好的な理由でグループにいるのではなく、周りを引き立てるためにいるのかもしれない。もしくはこういうパシリ的なことに使うために連中に可愛がられているのだろう。
そんなパシリが持ってきた殺風景な封筒。
中身の内容はなんとなく分かった。
あの喫茶店での件に関してのことに違いない。
でもメールを無視して、バイト先にまで行って拒否したのは宮坂だろ?
恨むなら宮坂を恨めばいい。例え俺が仮の彼氏でなく本当の彼氏だとしても俺は無関係だ。
俺はしばらく宮坂を恨みながら封筒を眺めていたが、眺めているのすら億劫になり中に入っていた手紙を取り出した。宮坂のメールを読んだ後だったので長々と何か書かれているかと思えばたった一言だった。
『○○駅で待つ』
「挑戦状じゃあるまいし」
俺はため息混じりに呟いた。
しばらく白石がボールペンで書き殴った手紙を見ていたが、俺は決心した。
これはただの誤解だ。けれど宮坂に協力した以上は、俺も責任を取らなければいけない。
いらない誤解で残り一年の学生生活で余計な神経を使うのは嫌だ。
早く誤解を解いて楽になろう。悪いのは宮坂だ。もしくは勘違いして宮坂に恋愛感情を抱いている白石。俺はそれに巻き込まれただけだ。
まったくこの世は誤解だらけだ。誤解で世界は構成されている。
真実ってヤツは、あるのかないのか分からないくらいほんの少し。
OK。いつもの俺の見解に間違いはない。
俺は机の上に「帰る」とだけ書いたメモと美術室の鍵を置いて○○駅に向かった。
あとは三雲が鍵を教務室に返してくれるだろう。後で何故帰ったかしつこく聞かれそうな気もしたが、適当に答えておこう。いや、話してもいいかもしれない。どうせアイツも友人は少ない。他人に話してクラス内に白石の性癖に関してバラすことはないだろう。興味を持って白石に付きまとうかもしれないが、アイツの見解も聞いてみたい。
「同性愛ってどう思う?」と。
アイツはどう答えるだろう。
「キミには赤い糸が見えないのかよ」
そう答えるような気がした。
○
駅に着くとそこには帰宅中のサラリーマン、買い物帰りの主婦が多く、わずかに学生の姿がちらほら見られた。帰宅部は帰って家なり、塾なりへ行っているのだろう。そして部活動に励んでいる学生が帰宅するには早すぎる。
そのまばらにいる学生の中に白石の姿を探したが、どこにもなく、少しほっとした。
そもそもデリケートな話だ。
白石は同性愛者。そして俺と宮坂は普通の男女(恋人というより友人だが)。けれど白石にとっては俺が恋敵。同性愛者が俺に何を言うのだろう。
もし今まで同性愛者だということを黙っていたのなら、それは同性愛に対しての後ろめたさがあるに違いない。そうだとしたら俺を怒らせてクラス中に同性愛者だということをバラす可能性も考えるだろう。あの手紙だって、何故あんなにも殺風景だったか?(俺に対しての威嚇もあるだろうが)俺か宮坂がヤケになってクラス中に白石のことをバラす時の事を考えれば、ああいう情報の何もないモノの方がいいに決まっている。
おそらく白石は、一時の苛立ちから衝動的に手紙を書いてしまった。そして白石の仲間内で人畜無害な岩淵を使って手紙を俺に渡した。しかし冷静になって考えてみればこの行動は自分にとって不利なだけだ。そう判断したのだろう。だから今、ここにいない。
俺は胸を撫で下ろした。白石を傷つけた事は悪いが、妙な事に巻き込まれてもつまらないだけだ。
学校に帰るのも面倒だし、カラスの死体を描くのも明日にしようと、俺は時刻表を見て帰宅する時間を探し始めた。
そんな時、「雨宮」と名前を呼ばれ、肩をぽんと叩かれた。
後ろには白石香織の姿があった。
白石は学生服ではなく普段着姿だった。
ベージュのAラインコートに胸元と裾のそれぞれ二段のシャーリングとレースの付いた柔らかい素材の白いワンピース。そして、ややヒールの高いウェスタンブーツ(お陰で俺より少し背が低いはずの白石だったが、俺と目線は変わらなくなっていた)。そして首には軽めにマフラーが巻かれていた。そして艶のあるロングヘアに赤いフレームのメガネ。そのメガネの奥の瞳は俺を冷たく見据えていた。
少し背伸びしているような感じのファッションのような気もしたが、可愛らしい顔立ちの白石に凄く似合っていた。正直、宮坂よりも女の子らしく魅力的なくらいだ。
それにしてもメガネだ。メガネには度が入っていた。
白石はメガネなんて学校ではしていなかったはずだ。
「似合うね」
我ながら間の抜けた事を言ったと思う。
「メガネのこと?これアラン・ミクリ」
「いや、メガネじゃなくて。メガネもあるんだけど、白石さんってオシャレだなぁってさ。つか、アラン・ミクリって高いんじゃね?」
「ありがと。高いものが欲しいからバイトしてるんだけどね」
笑顔で何気にない会話をしたが、白石の視線は静かに俺を責めていた。
そして俺に敵意にも似た感情を言葉に乗せた。
「着いて来て」
白石はくるりと踵を返し、歩き出した。
「あのさ。白石さん。誤解なんだよ」
俺の言葉に「後で聞く」とだけ言って俺の方に向きもせず言った。
俺は仕方なく後から付いて行った。
白石は声だけでなく歩き方にまで心情が現れていた。カツカツと踵をアスファルトに突き刺すようにして歩く。俺を責めるように。これがウェスタンブーツでなくハイヒールなら氷にアイスピックを突き刺すような冷たい跡をアスファルトに付けたかも知れない。そんな攻撃的な行進をしながら駅前のアーケードの中の『珈琲屋』という喫茶店に入った。
「確か甘いもの苦手だったよね。コナ・コーヒーが美味しいところ探しておいたんだ」
テーブルにつくとメニュー表も見ず、ウェイトレスにコナ・コーヒーとアイリッシュ・コーヒーを頼んだ。そしてバッグから青い水彩の筆跡が花のようにデザインされたタバコを取り出す。その箱にはCAPRIと書かれている。その箱の中からスタイリッシュな極細のタバコを取り出し、口へと運び、ライターで火をつけた。
一連のクールな動作が馴染んでいた。
学校で仲間と陽気に笑いながら話をしている姿から想像もできない。
そして彼女は「ん」と俺にタバコを勧めた。
俺はタバコを手で制し「誤解がある。話を聞いてくれ」と言った。
白石は極細のタバコを持ちながら手を組んで俺の言葉を待った。
タバコの煙が空調の風に揺れて、俺のところにまで臭ってくる。
その臭いはどこか甘く感じられた。
「そもそも、俺は宮坂の彼氏じゃない。ただ宮坂と一緒にいただけだ」
俺の言葉に白石は何も反応せず、タバコを再び口に運んだ。
そのタバコを口にそっと咥えるしぐさが、どこかセクシャルなものに感じる。
俺は話を続けた。
「宮坂はアンタを好きじゃない。もちろんその気もない。ただのノーマルな女子だ。けどアンタたちの間で何か誤解があったみたいだな。だからその誤解を解くために俺に彼氏のフリをしてくれと頼んできた。まさか宮坂がアンタのバイト先にまで連れて行くとは思ってもみなかったけどな。ハッキリ言って俺は宮坂をどうとも思っていない好きでもないし、嫌いでもない。宮坂も同じだと思う」
「ホントの事、それ?」
「嘘をついてもどうしようもない。宮坂に頼まれたからやっただけだ。一応、友人だし。それに俺を呼んでもどうしようもないだろ?文句があるなら宮坂に言ってくれ」
暫しの沈黙の後、白石は大きくため息をついた。
「どこまで知っているの?」
「メール二通分」
白石はゆっくりとタバコを灰皿に置いて、メガネを外し、両手で顔を覆った。
「カッコ悪りぃな、私。……でもさ、どうしようもなかったんだ」
コーヒーがテーブルに運ばれてきた。
俺は二日連続でイマイチ好きになれない濃い味のコナ・コーヒーに口をつける。
俺の向かいにあるアイリッシュ・コーヒーは手を触れられることなく、静かにあたたかそうな湯気をたたせ、灰皿のタバコは煙を出しながらゆっくりと灰になっていった。
しばらくして白石は顔を覆っていた手をゆっくりと外し、少し赤くなった目にメガネをかけた。
そして灰になりかかった短いタバコを静かに口をつけてから言った。
「ねぇ、雨宮。あなた、私の事どう思う?」