第1部 第11章
(第11章の概要)
語り手の「俺」は、ハジの自宅を訪ねた翌日、職場で同僚たちからハジの様子を尋ねられる。職場にはハジが現れることに対する緊張感が漂い、皆がその動向を注視していた。やがてハジが出勤し、課長ナベサワに呼ばれて会議室に向かう。同席する係長の「俺」は、会議室でハジとささやかな会話を交わすが、
ナベサワによる形式的で冷たい応答が待っていた。それは懲戒処分の指針によるところの連絡のない欠勤は「無届」扱いであると通告され、医師の診断書の提出を求められる。
そうしたナベサワの話にハジは苦しげな様子を見せるが、「俺」はナベサワに同調するように、事務的に対応し、ハジに突き放すような言葉を投げかける。「皆困ってるからきちんとしてほしい」という一言は、明確に“あっち側”に自分が立ってしまったという意識を生む。会議後、ナベサワは「もう決まっちゃってるんだ」と言い放ち、ハジの処分が既定路線であることを匂わす。主人公はその言葉の重みに呆然としながらも、タカスギからの問いかけに「もうどうしようもできない」と答える。
(11章)
俺の訪問は係員の多くが知るところだった。係長ハジさん様子どうでした?そんな声がかかるたびに俺は曖昧に返事をする。今日くるみたいだよ、俺はそれだけ伝える。ハジがくることで何かが起きる、そんな空気が徐々に広がっていた。
ナベサワは朝早くから席にいなかった。予定では部長報告に部長室にいっているという話だった。
タカスギが複雑な表情で俺に尋ねてくる「ハジさんと話ができたんですか?」
俺はその真剣な表情をみて軽く首を振った。
「人事部が動いていることを話したら今日くるとしか言わない」
タカスギの顔が暗くなる「どうなっちゃうんですか、ハジさん」
タカスギは顔を歪めたような感じになる「やっぱりどうしようもないんですか」
タカスギはどこか辛そうだった。ハジのことを真剣すぎるほど考えている様子は伝わってきた。
ハジが住むマンション周辺のもっていたあの牧歌的な空気がふいに頭をよぎり俺もなぜかやるせなかった。・・・ハジさんだ、誰彼ともなくそんな声がした。
ハジが少し強張った表情で静かに座席に着いた。
ハジは俺の視線に気づき会釈をしたようにみえた。タカスギをみるとハジに言葉をかけようか躊躇っているようだった。自分がきっかけをつくったことで悩んでいるのかもしれない。
「係長」
スギタの無感動な声がした、スギタはハジに視線を軽く流す
「ハジさんと一緒に会議室にきて待っていてほしいそうです、課長から連絡がありました」
係員の腫れ物にさわるような雑談がその呼び出し声で一瞬やんだ。
ハジはふいに眉をひそめる。
その姿は何を話すべきか決めかねているかのようだった。
長机がロの字に並んだ会議室の中、ハジと俺は向い合せになり、ナベサワの登場を待った。押し黙ったハジは考え込んでいるともみえた。
俺は軽く声をかけた「奥さん元気?」
その言葉に我に返ったようにハジは口を開いた、はい変わらずです。
「週末よく出かけるんだ?」近くに食事にいったりするんです、気のない返事をハジは続ける。
「マンションはもう住んで長いんだ?」10年にはなります。
「いいマンションだね」
ハジはようやく少し笑顔をみせる「ありがとうございます、不動産屋には掘り出し物だと言われて、妻がすごい気に入ってます」
その時、会議室のドアを開ける音がする「お、待たせしました」
うつ向きがちにナベサワが現れる。
ドアの向こうの誰かと声を交わしている。
ナベサワはチラッとハジに視線を走らせた。ハジはすっと会釈をする。
ナベサワは軽く手を上げそれに応える。
その挙動はいつもの様子だった。
席に座って資料を取り出したときに、大げさな引きつった表情をみせ、ハジと俺に微妙な緊張感が伝染する。
「部長・・・話くどくてね」資料を持っている手に少し力を込めたようだった、懲戒処分に関する指針のタイトル文字がみえる。
「それでは、ハジさん」
「はい」
「最近どうしたの、連絡もなかったですね」
「その件は申し訳ございません」ハジの言葉をじっとナベサワは考え込んでいた。
そうして首を軽く振った。「人事部がちっとばかし、うるさくてね」ナベサワは申し訳なさそうにウインクする。
その表情を作る練習をしているナベサワの滑稽な姿をなんとはなしに俺は想像する、ハジは押し黙った様子だった。
「休む時は必ず連絡してほしいと、伝えていると思います」
「連絡するタイミングを逃して気づかないままですいません」ふうん、とナベサワは聞きながら俺にチラッと視線を送る。
俺はそれを合図に話す「自宅まで行ったんだ」はい、知ってます。
ハジは答える。
「置き手紙は読んでくれた?」ハジはゆっくりと頷いた。
ナベサワはその様子に言葉をなげる「以前もこの話はしたと思います」、ちょっと躊躇いがあった「有休のないハジさんは病欠か私事欠勤かになります」。
ナベサワはハジのことを正面からみた「これからは連絡がなければ無届になります」
以上、とそのままナベサワは言葉にした。
以上。
その言葉が少しの間余韻をもってその場にとどまったようだった。
「人事部がそう言っているんですか」ハジは尋ねた。
ナベサワはあまり話したくない様子だった。
「病気休暇は医師の診断書が必要なんですよね」ナベサワは頷いた。
俺は思わず聞く「医者にはいってるんですか?」
ハジは答えなかった、そのままハジは話を続ける
「診断書だってなんでもかけるわけじゃないんです」
今度はナベサワが尋ねる「どんな医者にかかってるんですか」ハジは首を少し振る
「今は自宅近くで通院しています」。
定期的にですか?俺の質問にハジは答えづらそうにする
「仕事の都合があるので」。
「医者にいってるなら、今後のことを考えると診断書の話は先生にした方がいいと思います」ナベサワはハジを諭した。
「いざって時に必要になります」ハジは少し黙って考え込んだ。
人事部出身のハジにとって課長からのこの通告がどれほどの意味を持っているのか十分すぎるほど知っているのだ。
ツーナッシング、追い込まれている。
やがてハジは観念したように口にする。
「昨日のはどうすればいいのですか」ナベサワは少し笑ったようにみえた
「昨日のは連絡がないので無届です」その言葉に俺は慌てて言い返す
「課長、ハジさんは手紙の直後、すぐ連絡くれています」。
ナベサワは眉をぴくっとした、じゃ私事欠勤かな。
重苦しい様子のハジに声をかける、明日までの提出で大丈夫そうだから。
明日までという期限の設定で、ハジは顔を険しくして苦しんでいた。
俺はその苦しみがどこかで手に取るようにわかっているのに、わかっているにも関わらず、こう告げた。「ハジさん、皆困ってるからきちんとしてほしい」ハジは少し驚いたように俺をみる。
俺の突き放す言葉にこれまでと異なる何かを受け取ったようだった。
「課長もこう言っているし」
「もうどうしようもないよ」もうどうしようもない、ハジはその俺の言葉を小さく繰り返した。
俺は自分の言葉が自分に突き刺さるような痛みを感じていながら、その痛みをわざと覆い隠した。
「無届が嫌なら私事欠勤だすしかない」その俺の言葉にナベサワも満足げにうなづいた。
おれはナベサワのうなづきを横目でみて自分の言葉の効果を確信しながら、ハジに追い打ちをかける。
その汚らしい俺の姿を脳裏からあえて消しながら
「今まで係員の全員が非難している」ハジは俺の言葉をじっと聞いた。
「マニュアルも誰も読んでいない」もういい加減にしてほしい、俺の吐き出した言葉はハジは受け止めた。
会議室の空気が一気に重く濁り始めた。
俺は気づいたらあっち側を選択していたのだ。
あっち側?それはどこなのかは俺は知らない。
ただ、きっと美味しい水のあると思えるうす汚れた場所だ。ナベサワは満足そうにしていた。
「ハジさん、係長もこう言ってるから、これからきちんとするように。以上。」
以上、と再び告げたナベサワの言葉はさっきと異なり俺に対する何かに感じる。
まるで、あっち側にいる俺と、ハジを区切った何かのようだった。
会議室からハジが退席した。
退出しかける俺にむかってナベサワは何かの宣告のようにその言葉を口にする「もう決まっちゃってるんだ」ナベサワの機械じみた重い言葉は確実に俺の中に刻み込まれた。
「仕方ないよ」俺はナベサワを振り返る。
そこには無表情でただ事態をながめる奴の眼だけがあった。
「ハジさん、何も喋らないんですけど」タカスギは俺に心配そうに尋ねる、その視線で俺の何かを必死に探ろうとしている。
遠くでムラシマと桐原が楽しそうに談笑してる姿がある。
俺は軽く首をふる、その様子にタカスギは険しい表情をみせる。
俺は言った「もう仕方がないことなんだ、どうしようもできない」
刹那、タカスギの息を呑む音だけが空間に響いた。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




