偽りの聖女
パニックに陥ったホール。
泣き叫ぶ女子生徒や、出口の扉を必死に叩く男子。
その喧騒の中で、一際通る声が響いた。
「みんな、落ち着け! パニックになったら相手の思うツボだ!」
声を上げたのはクラスの主役、斎藤だった。
端正な顔立ちに、誰にでも分け隔てなく接する快活な性格。
彼は混乱する生徒たちの中心に立ち、力強く腕を広げた。
「俺を信じてくれ。全員で、ここを出る方法を考えよう!一人も欠けさせたりしない。……俺が、みんなを守るから」
その言葉に、絶望に染まっていた生徒たちの瞳に光が戻る。
「斎藤くん……」
「ああ、斎藤がいればなんとかなる!」
救世主を崇めるような、熱烈な信頼の視線。
俺はその輪から数歩離れた柱の影にいた。
相変わらず、俺の顔は死んだ魚のような無表情だ。
心の中では「斎藤、すごいな」と感心しているのに、端から見れば、仲間の団結を冷笑している不気味な傍観者にしか見えないだろう。
だから俺は近づかない。
ただ静かに観察を続けていた。
俺の脳内では、すでにこのホールの構造が三次元モデルとして構築されている。
床のタイルの継ぎ目。
空気の流れる方向。
そして、壁に埋め込まれたレーザー発信源。
(……斎藤の足元、三枚先のタイルとそのひとつ先のタイルの汚れ具合の差が激しい。恐らく三枚先のタイルは重力感知式のトラップだ。その左、二メートル。赤外線センサー。……今のまま進めば、三分後にはハチの巣になる)
俺は一歩も動かず、網膜に映る情報を処理し続ける。
斎藤は自信満々に生徒たちを誘導し始めた。
「あっちの扉が怪しい。みんな、俺に続いてくれ!」
「……待て」
俺の口から低く、抑揚のない声が漏れた。
自分でも驚くほど冷たい響き。
けれど表情筋が死んでいる俺には、これが精一杯の「警告」だった。
生徒たちが一斉に振り返る。
その視線には、救世主の邪魔をされたことへの不快感が混じっていた。
「……九条? なんだよ、お前。さっきから黙って見てたくせに」
斎藤が困ったような、けれどどこか優越感の混じった苦笑いを浮かべる。
「あそこ、罠だ。行かない方がいい」
俺は短く告げた。
本当は「センサーの波長が可視光線外で配置されているから危険だ」と説明したい。
「……見たくないんだ。友達が、死ぬところなんて」
精一杯の言葉だった。
表情筋が動かない俺の顔は、きっと酷く歪んで見えたに違いない。
けれど、俺の言葉を聞いた斎藤は、鼻で笑った。
「……友達? お前、本気で言ってるのか?」
周囲の生徒たちからも、失笑が漏れる。
向こうで凛が喉を鳴らしている音が聞こえた気がした。
「九条くん、勘違いしてない?」
「いつも一人で不気味だったくせに」
冷たい言葉が俺の胸を刺す。
「お前はただの『クラスメイト』だ。勝手に友達面するなよ」
斎藤は吐き捨てると、俺の制止を振り切り、歩みを再開した。
ほとんどの生徒は俺の異様なまでの気迫に圧され、足を止めていた。
けれどプライドを傷つけられた斎藤だけは止まらなかった。
「見てろよ。俺がここを開けて、全員を助け——」
斎藤の足が、一枚のタイルを踏み抜く。
その瞬間。
『検知。……排除を開始します』
無機質な機械音声とともに、ホールの空気が震えた。
網膜を焼くような、紅い光の線。
超高出力のレーザーが、格子状に展開される。
「え——」
斎藤が声を上げる暇さえなかった。
一瞬前まで自信に満ち溢れていた「主役」の身体。
それが目に見えないほど細い光の糸に触れた瞬間、ズレた。
ボトッ、という鈍い音が静寂に響く。
床に転がったのは整然と切り分けられた、赤い四角い肉塊。
先ほどまで俺を嘲笑っていた口も、力強く仲間を導いていた腕も。
すべてが均等な立方体へと変わり果てていた。
数秒の沈黙。
そして、鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴がホールを埋め尽くした。
「い、いやぁぁぁぁぁぁ!!」
「斎藤くん! 斎藤くんが!!」
パニックは、先ほどとは比較にならない規模で爆発する。
腰を抜かす者、出口へ向かって闇雲に走り出す者。
そして、その無秩序な動きがさらなる防衛システムを起動させようとしていた。
俺は、返り血で汚れた床を見つめ、静かに眼鏡を外した。
視界が、より鮮明に、より残酷に研ぎ澄まされる。
(……これ以上は、だめだ。)
表情はまだ氷のように固まったままだ。
けれど俺の身体を縛っていた鎖が音を立てて弾け飛んだ。




