北風と太陽
日暮れと共に気温は一気に降下する。
凍えるような冬の夜、私は家路を急いでいた。
アスファルトの路は足音さえ冷たい響きで、行きかう人の姿も少ない。
寒風に背を押されるように、白い息を弾ませながら歩を速める。
到着した賃貸の部屋は家賃が手頃で、セキュリティと周囲の治安が良いという理由で選んだ物件。
気温の低さに身震いをした。今夜は氷点下かも知れない。
金属製のドアノブは氷のようで、暖房をつけても室内が暖まるまでコートを脱げまい。
――― いっそ、このままベッドにもぐってしまおうか。
などと嘆息しながら、鍵を開ける。
「……!?」
無人の部屋は暗く冷え込んでいるはずなのに、予想と異なり、淡い間接照明と暖かな空気に出迎えられた。
「お帰り、遅かったな」
「…!」
警戒するより先に、かけられた声に目を丸くする。
部屋の奥から現れたのは、遠距離恋愛中の恋人。
「会いたかったぜ♡」
抱きつこうとする腕をあえて避け、私は平静を装う。
「どうしたの?いつ来たの?」
「夕方だよ。急な出張でこっち来たから驚かそうと思ってな。連絡したけど繋がらなかったんで、勝手に待ってたぞ」
「…今日は午前中、ずっと会議で午後は取り引き先回りで忙しかったから」
ここで素直に喜んだら調子に乗ると、長いつきあいで知っている。
「部屋には鍵をかけていたはずだけど」
「前に合鍵くれたじゃん」
(……そうだった)
悪びれもせずに笑う彼に、つい溜息をつく。
「ま、細かい事は後にして中に入れよ。何か食うか?特製オムレツ作っといたぞ。それとも先に風呂?あ、それともやっぱりオレにする?」
「食事にしましょう。夕食まだなの」
お約束なのか素なのか不明なセリフと共ににじり寄る彼を一刀両断し、私はダイニングへ向かった。
「お前また痩せてないか?ちゃんとメシ食ってる?」
私が遅い夕食を摂る間、彼は夜食のクラッカーをつまみながら問いかける。
「一日三食は必ず食べてるわよ」
「回数じゃなくて何を食ってるかが問題だよ。栄養バランスとか日々の体調とか、全然考慮に入れてねえだろ。サプリでごまかしてたら、いつかツケが来るぞ。冷蔵庫の中もレンチンとかレトルトばっかだったし、ろくに食材もねーじゃん。オレ、わざわざオムレツの材料買いに出たんだぞ」
「…………」
彼の指摘は図星だ。最低限の健康だけは保っているとはいえ、かなり劣悪な食生活なのは否めない。
「乳製品やら野菜やら、多めに買っといたからな。全部腐らせずに食えよ」
「…………」
料理が苦手な私にはキツイ言葉である。
それでも彼の配慮を思えば、はねつける事などできず、無言のままオムレツを咀嚼した。
「味どうだ?」
「……美味しい」
「だろ?なんたってオレは『嫁にしたい男ナンバー1』の栄冠に輝いた男だからな♪」
瞬間、私は咽喉を詰まらせかける。
「な、何…」
「独身の同僚がこぞって惜しがるんだぜ?オレが料理上手で掃除や洗濯も得意だから、女だったら絶対嫁にしたいのにー!ってさ」
自慢げに語る彼とは対照的に、私は唖然とした。
心の中で安堵の息をついたのは内緒である。
しかしそんな私の心境を見抜いたように彼は続けた。
「男だけじゃなく、女からも『嫁にしたい』って言われんだよなぁ」
「!」
反射的に顔を上げると、彼の悪戯っぽい瞳と目が合う。
「心配すんな。オレは売約済だって、みんな知ってるからさ」
しかし確たる約束もないまま現状維持である事を思うと、嬉しいけれど耳の痛む言葉だった。
「……別に私に義理立てしなくても」
「こんなに尽くしてるオレを捨てないでくれよ?」
意地のように発言しかけた私を、彼は先制攻撃で黙らせる。
この類のやり取りでは、私に勝ち目はないのだ。
食後まもない私に先んじて、彼はシャワーを使う。
長湯しない性質らしく、すぐに出て来たが、パジャマ一枚という薄着ぶりに私は瞠目した。
「そんな格好では風邪を引くわよ」
「だって、上に着る物とか持って来てねーし」
「……こんな季節なのに?」
「だって向こうは南国だもん」
普段通りのスーツ姿で出発したら、北上するにつれ 寒さが増してきて、さすがに耐えられず空港でコートを購入したと言う彼に、私は溜息をつく。
無頓着というか、考えなしと言うか、彼はいつもスーツケース一つだけを携えて訪れる。
最低限必要なトラベルセットは入っているとはいえ、何かが要り用になっても何処ででも買えるという便利さが祟っているようだ。
「これでも被ってるといいわ」
せめて寒さしのぎにと、私は毛布を渡した。
それから支度を整え、今度は自分が浴室に入る。
浴室はユニットバスで、脱衣所には湯気が漂っていた。
バスタブには新しい湯が張られており、おかげで服を脱いでも寒くない。
彼は本当に、細かいところにまで気のつく男である。
心まで温まるような気分で、私は風呂に浸かった。
あまり長く入浴していると、からかわれるネタが増えるので、適当なところで浴室を出る。
新しい下着を選んだのは無意識だったが、そしらぬふりでパジャマと上着を着込み、リビングへ戻った。
「ナイスタイミング。紅茶が入ったぜ」
見はからったかのように彼は振り返る。
テーブルの上には、茶葉の香りが漂うティーカップが二客。
「…ありがとう」
「コーヒー買って来るの忘れたから、オレも紅茶な」
紅茶党の私の部屋には、インスタントのコーヒー缶すら置いていない。
そういえば、前に来た時も彼はコーヒーを飲みたがっていた。次に来る時までに用意しておくと言ったのに、日々の多忙にかまけて約束を果たしていなかった事に気づき、私は申し訳なく思う。
せめて、少しだけ正直になろうと考えた。
「……なんだか、嬉しいな」
「ん、何が?」
「こんなふうに、暖かく過ごせる事が…」
暖房で暖まった部屋も、美味しい手料理も、黙っていても用意される風呂や紅茶も、それは確かに嬉しいけれど。
何よりも彼の存在が大きい。
――― 部屋に入った途端、太陽を感じた気がした。
真冬でも、夜中でも、彼そのものが、私にとっては沈まない太陽の如く。
「……これが『幸せ』なのだなと実感するの」
「そいつは光栄だ」
彼は嬉しそうに笑い、私に身を寄せる。
ふとボディソープの匂いがした。
「あったけぇな」
「湯上りだもの」
暖房の効いた室内は充分に暖かいが、人肌のぬくもりは特別だ。
「ん、確かにちょっと幸せかも」
「『ちょっと』?」
「訂正。ものすごい至福」
くすくすと笑いながら、戯れるように頬にキスをする。
改めて、彼は私を抱きしめた。
「なァ」
「…何?」
「毎日、幸せな気分になりたくねえ?」
「――― え?」
私はふと顔を上げた。
照れくさそうな、だけど真摯なまなざしと視線が合う。
「毎日、暖かい部屋で迎えてやるよ」
「――― ……」
「美味いメシも作るし、紅茶も上手に淹れる。掃除も洗濯も得意だぞ」
「…………」
「子供も好きだし。何があっても、しっかり家庭を守るからさ」
――― どうも何か、どこかズレているような気がしていたが。
ようやく気づいて、私は苦笑する。
そういうセリフは、普通、女の方が言うものだ。
「…さすがは『嫁にしたい男』ね…」
「お前がもらってくんなきゃ、もったいねえ事に一生独身だぜ?」
間近に迫った瞳が楽しそうに覗き込む。
私は彼の顔を両手で包み込み、微笑みながら言った。
「明日、買い物に出かけましょ」
とりあえず、歯ブラシと、ヒゲそりクリームと、ガウンと、スリッパ。
使い捨てのトラベルセットではなく、専用の物を常備しよう。
コーヒー豆と、ドリップと、サイフォンも。
この部屋で、彼が快適に過ごせるように。
END




