(9)絆
ドボン! と、大雨の夕暮れ、9月半ばのプールの水に引きずり込まれた瞬間、俺は上下がわからなくなってパニックになりそうだったが、引きずり込まれたその直後から全身を這いまわっていたミズチの感覚も、俺の左手を引っ張っていた小さな手の感触も、どちらもなくなっていた。
直後、俺の後に次ぐように、誰かがドボン! と、プールに飛び込んできたようだった。
ともかく俺は突然の落水に慌てながらも、飲んでしまった塩素臭いプール水を嘔吐きながら、どうにか浮き上がり、水面に顔を出していた。
次いで、そのすぐ横から、プールの水に濡れた滝川が顔を出した。
「何をしてるんだい!! キミは!! あんな、無茶なことをして……死んでいてもおかしくなかったんだぞ!!」
と、顔を出した直後、俺に向かって滝川は怒鳴っていた。
俺は、それにまだプール水を時々嘔吐きながら、起こった事態に何も答えられずに呆然と見つめていた。
「……お前が俺を、プールに引っ張り込んだんじゃなかったのか?」
「……何を言ってるんだい? キミが勝手にふらふらと歩きだして落ちていったんじゃないか。まぁ、おかげで、ミズチはほとんどキミに纏わりついたまま、プールの水の中に溶けたみたいだがね……でも、そんなのは結果がたまたま良かっただけだ! もしそのまま、ミズチに纏わりつかれたまま溺れ死にでもしていたら……どうするつもりだったんだいっ! このっ! 大馬鹿者っ!!」
プールの水面から水しぶきを上げさせながら突き出した右手で、滝川は俺を非難するようにバシバシと叩いた。
「い、痛い!! ほんとに痛いから、やめろ!! 腕、怪我してんだよ!!」
「な、なにっ?! そ、それはすまない! いや、それなら、どうなっているか見せてみたまえ! 医学の心得は大してないけれど、私だって応急手当くらい……ほら、早くプールから上がるんだ! 早く!」
明らかに動転したように捲し立てる滝川に、俺は、
「怪我人に無茶言うな! というか、ミズチはどうした!? どうなったっ?!」
と、怒鳴り返すように訊ねていた。
すると、彼女は神妙そうな表情になって、
「……大丈夫。消えたよ。キミが持ってきたあの、穴の開いた瓢箪のようなあの容器……消毒剤の容器だったんだねぇ? キミが落としていったからか、それに触れたミズチは雨水もろとも連鎖的に溶けていって、全部ただの泥水に戻ったよ。最後の抵抗か、キミに纏わりついていった個体も、プールの水にキミが落ちた途端、同じく溶けていったように見えた……そうでなければ、プールに飛び込んでまでキミを助けようとするなんて、臆病なこの私ができるわけもないだろう?」
と、最後は軽く自嘲するように笑って、滝川リュウコはそう言ったのだった。
───
──
─
プールから這い上がった俺たちは、やはり二人とも体力の限界で、満身創痍だった。
俺は滝川に支えられながら、プールサイドに転がった3つの消毒剤容器と泥水に戻ったミズチの痕跡と思われる泥シミを確認すると、俺たち二人はそのまま、まだまだ止む気配のない風雨を避けるため、備品倉庫へと避難した。
しかし、そこで話し合った結果、念には念をいれて、隣の管理室のガラスをどうにか破壊すると、中にあった排水バルブを開放し、学校には無断で悪いが、ミズチが溶け込んだであろうプールの水を流してしまうことにしたのだった。
その作業を終えた俺たちは改めて倉庫内に戻り、クタクタになった身体を硬く冷たい床へ投げ出して、しばらく過ごしていた。
割れた窓から垣間見える外では、相変わらずの風雨が吹きすさんでいたが、完全に日が落ちた頃からは、徐々に雨の勢いが落ち着いてきているような……そんな様子に俺には思えた。
「これを引いたところで寝心地は大して変わらないだろうが……コンクリ床に直接寝るよりは、体温が奪われずに済むから、きっと少しはマシなはずさ」
と、後から滝川はレーンロープを引っ張りだしてきて、床の上に均すように敷くと、その上に怪我を負った俺を改めて寝かせてくれた。
本当ならば悠長にこんなところで休むより、緊急通報をして病院に向かうべきだったのだろうが、この雨の中、下手に外に出てまた新たなミズチに襲われるかもしれない可能性を捨てきれなかった俺たちは、どうにもお互いどちらかをこの場に置いて夜の暗闇の中に助けを呼びに繰り出すというのは、憚られたのだ。
だから俺たちは、雨が止み、日が昇り、安全が確認できるだろう時間になったら、その時にこそ助けを呼びに行こうと、そういうことにして、備品倉庫の中で雨宿りをしながら、体力を温存することにしたのだった。
だが、プラスチックの浮きがビーズのように通してあるレーンロープをマットレス代わりに使った床の寝心地は、正直言って最悪だった。
しかも俺の左腕はやはり滝川の見立てでも前腕部から骨が折れているらしく、滝川は自分の身に残っていたほとんど唯一のまともな衣服である制服のスカートを引き裂くと、俺の制服のベルトなども組み合わせて、包帯替わりを作り、どうにか応急処置を施してくれた……。
だがしかし、だ。ということは、ベルトを失ったスラックスに上半身裸の男子中学生が、傍らで上下ともに下着姿になってしまった同級生女子と身体を寄せ合いながら、横たわっているという……なんとも誤解を招きそうな状態になってしまっているということに、思春期真っ只中な当時の俺は、
──だ、大丈夫か? この状況……もし誰かに見つかったら、誤解されないか……?
と、内心でさすがにドキマギとしてしまっていた。
だが、とは言っても、怪我をした上、お互いに気力体力ともにほぼ限界を迎えていた俺たち二人は、そのまま言葉少なに、夜になってくると意外に肌寒かった当時の9月半ばの雨の夜を、肩を寄せ合いながら過ごすより他なかったのだった。
「……た、滝川……寝たか?」
俺は寄り添うようにそばに横たわっているはずの……しかも、ほとんど裸の下着姿でいるであろうはずの彼女に、さすがに声を上ずらせてしまいながら、夜の暗闇の中、ブレーカーが落とされているのか電灯のつかない倉庫内であっても、顔をそちらに向けないように気を使いつつ、声をかけていた。
そうすると、一拍ほど遅れて、右隣から、こちらに身体を向けるように寝返りを打つような気配と音がして、
「……起きているが、どうかしたかい? やっぱり、怪我が痛むかい? 右腕もガラスで切ってるみたいだったが、幸い深い傷ではなかった……だから、なんとか朝まで我慢してくれると助かるんだが……」
いつものどこか尊大な態度の皮肉屋らしくない、不安げな声で滝川はそう訊ね返してきた。
俺はそれに、夜闇の中ではあったが首を横に振って、
「そっちはまぁ、少し痛むけど、大丈夫だと思う。というか、大丈夫だと信じて過ごすより他ないだろ。……まぁ、それはいいんだ。それより……お前の方こそ、その……大丈夫か?」
と、なんとも纏まりきらない、ふんわりとした質問を返してしまったものだった。
「私は幸い、大した怪我はしていないよ。昇降口で鉄砲水を喰らった時、少し背中を打ったが、その程度さ。むしろ短い間とはいえ、気絶していた君の方が心配だ。脳に異常が出たりしていないといいんだが……」
と、またさらに不安そうな、また今にも泣きだしてしまいそうな、聞きなれない滝川の声に、俺は、
「いや、俺なら大丈夫だ。きっと、大丈夫……夜が明けたら、どちらにしろすぐに医者に行くだろうから、ついでに検査してもらうさ。……それより、さ。……今回はお前だって相当、怖い思いをしたんだから……大丈夫かなって思ってさ。……怖く、ないか? ほら、電気もつかないし……やっぱり今からでもなんとか近所の民家まで走って、助けを求めにいくとかした方が……」
と……雨の降りしきる夜の真っ暗なプール備品倉庫という雰囲気に気圧されてか、またも纏まりきらない言葉を思いつくままに口にしてしまっていた。
すると、それを受けた滝川は、
「……もしかして、キミ、怖かったりするのかい? ……暗闇が」
と、それはそれで、あらぬ誤解を口にしていたのだった。
「ばっ、そんなわけあるか! 今更、中学も卒業する歳で、ただの暗闇なんか……」
思わず声を軽く荒げて、俺は否定していた。
「ふふっ……まぁ、つい先ほどまで、人智を超えた化け物相手に、意外なほどの蛮勇を発揮し続けたキミが、今更暗闇が怖いなんてあるわけないのはもちろんだろうね。……でも、残念だね。もし怖いなら……安心できるように抱き締めてあげようかと思ったのに……」
「なっ!? うっ! あぁっ! い、いたた……」
あの滝川にしては、まったく珍しいというか、それまで一度も聞いたことのないような種類の、女であることを全面出すような、彼女らしからぬ甘えたような声で発したそうした冗談に、俺は思わず動揺して身じろぎしてしまい、それが怪我に響いてしまったのだった。
「馬鹿め。冗談さ。……何を本気にしてるんだい。ふふっ、ふふふふふっ」
そう言って、滝川は声を押し殺すように笑い出した。
「あ、ああ、わ、わかってるよ。でも、そうやって、今日の図書室でのことを当て擦るのは、勘弁してくれ。……あれは、俺もちょっと、さすがに良くなかったかなって思ったんだ……その、一応は女子のお前に対して深く考えず、軽率だったかと……あんなの、急に男である俺の方からやったら、いくら友達でも、セクハラになっちまうもんな? その……悪かったよ。許してくれ」
俺は気恥ずかしさを誤魔化すように、言い訳のような、そうでもないような、そんな内容を口走ってしまって、なぜか図書室での一件を謝っていた。
どうにも、この時の俺は、疲れていたためか、頭で纏まりきらないうちに余計なことを口走ってしまいがちになっていたように、今から振り返ると思う。
だが、そんな俺に対して、当の彼女は、
「…………それは違う」
と、ボソリと小さく呟いたようだったのだが、その直後──
またさらに、レーンロープの上で寝返りを打っているような、滝川が身体を動かしているような気配がしたかと思うと、ふうわりと優しく、華奢な女の子の細腕が、俺の肩を抱き寄せるように触れていた──
「た、滝川……?」
戸惑いながら、暗闇の中で彼女の方に振り返ると、乱視で目の悪い俺でも捉えられるくらいの近距離に寄せられた滝川の顔が、間近に俺を見つめ返していて……
「嬉しかった……もちろん、驚きはしたけれど……こんな私を抱きしめてくれて、嬉しかったんだ。……友達だと言ってくれて、嬉しかった。……父さんが昔してくれたみたいなハグを……兄さんとよく似ているキミが……私にしてくれて……うれしかったんだ……」
そう言って、最後、鼻を啜るような音をさせながら、しばらく、嚙み締めるように涙を流し始めた彼女の顔を前に、俺は何も言えなかった。
容易い慰めの言葉など、やはり人生経験も何もない当時の俺からは、情けないが、本当に何も出てこなかったのだ。
しかし……それでも俺は……結局案外、こういう時は言葉よりもシンプルな行動を取る、単純な男だったらしい。
だから俺は、まだ自由の利く右腕を伸ばすと、滝川リュウコの肩越しに腕を回して、ただ、抱擁に応えていた……。
「お兄……ちゃん……!」
すると、滝川は、さらに涙に濡れた絞り出すような声でそう言うと──
「もっと、ずっと、そばにいてほしかった……いてほしかったよ……そばにいてほしかったのに! ……ごめんなさい……ごめんなさい……何もできなくてごめんなさい……ごめんなさい、お父さん……ごめんなさい、お兄ちゃん……!」
と、今は亡き、お父さんとお兄さんに対して謝罪を繰り返しながら、俺に強くしがみつく彼女を、俺はただ、自由の利く右手で彼女の頭を撫で続けるくらいしかできなかった。
だから……降りしきる台風による風雨の音が少しずつ弱まって、優しい雨音に変わってきているらしい気配を、割れた窓の外にある夜闇を見つめながら、俺は彼女を抱きしめ、お互い、いつの間にか眠ってしまうまで、ただ彼女の頭を撫で続けたのだった……。