(8)鉄砲水〈フラッシュフラッド〉
実はその直後の俺の記憶は、正直言って曖昧だ。
というのも、まさに鉄砲水のように突っ込んできた大蛇ミズチの水圧に負けた俺は、どうやら昇降口のドアに身体を強かに打ち付けてしまっており、短い間だが気絶してしまっていたからだ。
しかし、実際の川で起こるフラッシュフラッドとは違い、位置エネルギーが反対に働いてくれたおかげだろうか? それとも生徒玄関の昇降口が階段三段分、小高くなっていたおかげで水がすぐに捌けてくれたからだろうか?
とにかく、俺は運よく短時間の気絶だけで済み、そのまま溺死するということは幸いにも免れていたようだった。
というのも、どうやら──
「み、ミズチっ!! お前の狙いは、私なんだろう!? あの日、お前が殺し損ねた私はこっちだ!! 沈め損ねた瓢はこっちだ!! この通り、私はまだ生きている!! 私を父や兄と同じ場所に連れていきたいのなら……私を捕まえてみるがいいっ!!」
と、少し離れたところから聞こえた、滝川の叫ぶ声で俺は意識を取り戻していたのだ。
どうやら、あの鉄砲水現象のようなミズチの突撃から、滝川は運よく無傷で逃れることができていたらしい。
それはまるで、何かの加護を受けているために、ギリギリで致命傷を避け続けているかのような……そんな悪運の強さを滝川が持っているみたいに思えて……俺は失礼ながら──昔、再放送で見たSFアニメの主人公がそんな体質だったな──と、どうしてかその時、少し笑ってしまっていたようだった。
しかし、だ。もちろん、俺も状況的にそのままドアにもたれかかったまま笑っている場合ではない。
俺は、気力を振り絞ってどうにか目を開くと、どうやらさっきの衝撃でどこかに流されたのか眼鏡を失ったぼやけた視界で、声のした方向を見た。
すると、ぼやけてはいるものの、やはり滝川と思しき半裸の少女が、追いかける大蛇ミズチに背を向けて、ちょうどプールの方向へ校庭を駆け出していく光景が俺にも見えたのだ。
運よく助かったというのに、滝川はそれでもミズチを挑発し、俺の思い付きに従って、プールに誘導しようとしている……。
背後を見れば、きっと先ほどミズチが起こした鉄砲水現象のせいだろう……生徒玄関のドアガラスが割れていた。
滝川の体格なら、そこを通り抜けて校舎の中に逃げることもできただろう。……俺を見捨ててしまえば、それは容易だったはずだ。
しかし、滝川はそれをしなかった。自分が囮になることを選んだのだ。何度もへたり込んでしまうくらい、本当は、お父さんとお兄さんを目の前で奪い去っていったミズチが怖いはずなのに……だ。
ミズチが滝川を狙っているという、その話の真偽は、俺の立場からでは、当時も今も想像するしかない。
だが、おそらくだが、ミズチと遭遇した時の滝川の様子を振り返るに、きっと彼女には、あの時の俺には知覚できなかった何かの声が聞こえていたのだろう。
もしかすれば、彼女とミズチとの過去の遭遇体験こそが、俺には理解しきれないオカルト的な因縁というやつを滝川とミズチの間に結ばせてしまっていたのかもしれない。
……まぁ、ともかく……そんなことはともかく、だ。
その時の俺は、全身が鈍く痛む身体にとにかく気力を振り絞って手を突きながら立ち上がると、彼女とミズチが向かったであろう学校のプールの方角へ、痛む身体を引きずりながらも、滝川の後を追って向かったのだった。
───
──
─
俺たちの通っていたその中学校のプールは、玄関の昇降口を左に出て、グラウンドを挟んだ敷地の端にあった。
グラウンドから道路に面したフェンス横に、砂利交じりのコンクリートで舗装された小道があり、その道を突き当りまで行くことでプールに到着できるというような敷地構成だった。
確か……さすがにうろ覚えだが、当時のそのグラウンドは一周400m程度の広さだったと記憶している。それを横断するので、おそらく100mか、200mはないくらいの距離だったはずだと思う。
数値にすればたったそれだけの距離でしかないはずなのだが、身体を痛めてしまっていた俺にとっては、実にもどかしい距離だった。
これは後にわかったことなのだが、この時の俺は、どうやらミズチの起こした鉄砲水でガラス扉にぶつけたのだろう……左腕を骨折していた。
しかし、それでも痛みを推して俺が進む先には、たった一人で過去のトラウマの元凶と対峙しようとしている友達がいるのだ。
しかも、気を失った俺を庇うために、泳いだことのないプールのどこに消毒剤の備品倉庫があるかもわからないだろうくせに、たった一人で……だ。
だから俺は痛む身体に喝を入れて、彼女とミズチが対峙しているであろうプールに向かって走った。
大切な友達を、助けるために……。
プールの入り口は、先に滝川がよじ登り、次いでミズチが突進して来たためだろう、ここも生徒玄関と同じく破壊されていた。
雨ざらしとはいえ、金属で出来ているはずの門扉の堅いフレームが衝撃のためか歪んで、中途半端に開いていた。
ともかく、俺はそれを跨ぎ、プール施設内に侵入した。
クランク状になったプール入り口の七面倒くさいスロープを、負傷した身体で何とか駆け上がり、滝川がミズチの足止めのために解放したのだろう、水が出しっぱなしになっているプールシャワーや目洗い場を通り抜けて、プールの前に出た。
そこでは、薄暗く青白い逢魔が時の夕闇の中、降りしきる雨風に晒されながらも、プールを挟んでミズチと睨み合うように対峙する滝川の姿が朧気に捉えられた。
眼鏡も失ってしまった上に、ほとんど夜の帳が降りかけている暗さの中では、滝川の姿の詳細はわからなかった。だが、相当に走ったのだろう。肩で荒く息を吐いているらしい様子であるのは、なんとなく見えた。
だから俺は、
「滝川っ! もう少し頑張れ!! もう少しだ!!」
と、声を張り上げると、滝川の返事も待たず、25mプール脇の備品倉庫へと向かった。
プール敷地内のその脇に、ビート板やプールのレーンを仕切るあの独特の浮きのついたレーンロープなどが保管されている倉庫があった。
当時の俺たちの中学のプールでは、備品倉庫になっている部屋とその隣に注水・排水のバルブがある管理室が、コンクリ造りの一つの棟に隣り合って設けられていた。
俺はその備品倉庫の扉に勢い込んで取りつき、ドアノブをガチャガチャと押し引きしてみたのだが、当然といえば当然、そこには鍵がかかっていた。
何度か体当たりをしてみたが、シリンダー錠のかけられたアルミフレーム製の開き戸は、残念ながら、漫画やドラマのように簡単に破壊できるわけもなかった。
そもそも、そんなに簡単に破壊できるようなら、防犯もクソもなくなってしまうのだから当たり前ではあるのだが、だからといって今、諦めてしまっては、今度こそ滝川はミズチによって命を落としてしまうかもしれない……。そんな切迫した状況だった。
そのため、進退窮まった俺は、
「……まぁ、今更、怪我が一つ二つ増えたところで……変わんねぇか」
と、呟いて覚悟を決めると、靴を片方脱ぎ、右手にそれを被せると、開き戸の小窓ガラスを殴った。
しかし、悲しいかな、男とはいえ、非力なインドア派の当時の俺の腕っぷしでは、一度殴った程度では拳が跳ね返されるばかりで、ガラスが割れることはなかった。
しかし、諦めるわけにはいかなかった。ここで諦めるということは、それはそのまま、滝川の死に直結してしまうことになるからだ……。
俺は、何度もガラスを殴り続けた。
運動は不器用で苦手だが、もしこの状況から生き残れたら、腕っぷしを鍛えるために武道でも習ってみようかなどと、インドアな俺が本気で考えたくらいだ。
そうして、何度か殴り続けたおかげで『備品倉庫』と書かれた曇りガラスにヒビが入り、ついにガシャン! と割り破ることができたのだった。
窓枠に残った破片が腕に掠めるのも気にする余裕などなく、割れた窓に腕を突っ込み、鍵を開けた。
そうして、プール独特の塩素臭に満ちた倉庫内に突入した俺は、薄ぼんやりと暗い室内で、かつての記憶を頼りに、目当てのものを探し始めた。
かつて、確か2年の期末清掃の際だっただろうか、俺は偶然プール掃除を割り当てられた。
その時、プール消毒用の塩素剤の錠剤を詰め込んだ、ボーリングのピンに穴を開けたような形状の、消毒剤容器を回収し、備品倉庫に保管することを教員に指示されたことがあったのだ。
その記憶を頼りに、雑にひとまとめにされたレーンロープの脇を横切り、ビート版棚の奥、塩素剤容器の置かれているはずの棚に俺は駆け寄った。
穴の開いたボーリングピンか瓢箪のような形状のそれは、やはりそこに変わらず整然と置かれていた。
しかし、だ。いざその容器を手に取ってみると、拍子抜けするほど手ごたえがない軽さだったのだ。
これも当たり前といえば当たり前なのだが、やはり保管するにあたって、中身の塩素錠剤は抜き取られ、空にされた状態で仕舞われていたらしい。
それに一瞬、俺は停止しかけたが、そのスチールラックに並べられた空容器を乱雑に薙ぎ払うとその奥に、筒状のプラスチック容器を発見した。
その瓶には『次亜塩素酸カルシュウム錠剤』の文字が書かれていた。
俺はその錠剤瓶とそのボーリングピン形の容器を2、3本取ると、瓶の中に入っていた次亜塩素酸錠剤の中身をその3つの容器の中へ、急いで注ぎ込んだ。
そうして、その三本の容器を携え、滝川が待っているプールへ戻ったのだった。
俺がいない間、プールサイドでは、滝川とミズチの間ではギリギリの追走劇が繰り広げられていたらしい。
しかし、滝川もさすがにいよいよ体力の限界だったのだろう。
俺がプールサイドに戻ったその時、そのプールサイドの際、金網フェンスを背にして、ついに滝川はミズチに追い詰められていた。
昔話の龍か大蛇のような、全長数メートルはありそうなサイズに肥大化した巨大なミズチは、鎌首を擡げるように、滝川の目前でゆっくりと頭を上げた。
──マズい!
おそらくは、昇降口で奴が起こした鉄砲水のような突撃……あれと同じものを今度こそ滝川に向けて起こすための予備動作に違いないと俺は直感した。
だが、すでに俺は体力の限界に近い満身創痍の状態だった。
きっと、それは滝川も同じだったと思うが、俺は窓ガラスを割るのに使った右腕にも怪我を負っており、左腕はこの時点で半ば痛みの感覚すら鈍くなっていた。
しかし……しかしだ、ここまでやって……ここまで来て……諦めるなど、若い俺にできるはずもなかった。
「う、うぉぉぉーーッ!! あぁ゛ぁ゛ぁぁーーッ!!! 滝川ぁぁーーッ!!!」
「ッ!? なっ!? こ、来ないでくれっ!! もういいっ!! もういいからぁっ!!」
絶叫を上げ、自分を奮い立たせ、駆け出した俺に、滝川は腕を振り、来るなと叫んだ。
しかし、俺は止まらなかった。止まらずに、フェンスに追い詰められた滝川と鎌首を擡げたミズチに向かって、満身創痍の身体で疾走した。
ボロボロになった両腕で消毒剤を投げたところで、ただでさえ普段から体力測定のボール投げでノーコンの俺が遠距離から奴に当てられるなどとは、とても思えなかった。
だから──右手に抱えた3本の消毒剤入りの、瓢箪形の容器を着実に奴にぶち当てるために、滝川へ向かって突撃するミズチの間に滑り込んだのだ。
滝川を飲み込むべく突撃したはずだったミズチは、消毒剤の容器を右手の先に突き出した俺を先に飲み込んでいた。
するとその瞬間、ゲル状の泥水に形作られた大蛇のようなミズチは、その消毒剤の触れた場所から溶け出して、目論見通りただの水に戻り始めたのだった。
しかし、如何せん、ミズチの質量が多かったせいだろう。溶けるようにただの泥水に戻り始め、統合されていたミズチの群れが千切れていくように崩れ始めたのだが、その全てが一気に溶けてくれたわけでなかった。
無数の、泥水でできた蛇の大群に溶け戻っていくミズチは、俺に絡み、纏わりつき、腕や足を締め上げながら、俺の身体に噛みつこうと手法を変更して襲い掛かり始めたのだ。
全身にヌメヌメとした冷たいゲル状の泥水でできた無数の蛇が這いまわって纏わりつく、あの気持ち悪い感覚は、今でも悪夢に見るほどだ……。
そんな気持ち悪い感覚を全身に浴びて、絶叫しながら半狂乱になりかけた俺だったが、その時、俺の左腕を掴んだ人の手があった。
骨折していた左腕だったが、そんなことを非難する間もなく、痛みに呻きながら、俺はその、殺到するミズチの群れの水流に負けないくらいの強い力で腕を引く小さな手に引っ張られるまま移動して……気が付けば、プールの中へと落水していたのだった……。