(7)人類の叡智
科学というものは実験の実行によって仮説の検証と観察を積み重ね、それらの結果を考証することで発展してきたものだ。
基本的には十分に収集されたデータを専門家が冷静に分析することによって、導き出された考証や新たな仮説を正しいものとして確定させていくのが、科学を発展させる王道の手法である。
だが一方で、時には一か八かの検証の強硬こそが、ファーストペンギンとなって活路を開くこともあるものだ。
そう。狭い昇降口の軒の下、泥水の煮凝りのような蛇の形の化け物『ミズチ』の大群に囲まれ、絶体絶命の状況に追い詰められた当時の俺たちは、まさにそのファーストペンギンにならざる終えない状況にあった。
だから、俺は……当時の俺は、自分が状況から導き出した思い付き同然の仮説の正しさを、誰かに祈るような気持ちで願いながら、ホースヘッドのトリガーを引いたように記憶している。
俺は、俺自身の命と滝川の命のために、群がるミズチどもに向けて、ジェット水流のトリガーを引いたのだ。
そして、幸運か、奇跡か、俺の仮説は……その誰かに、確かに通じたらしかった。
ホームセンターで2000円もあれば買えるであろうリードホースから迸った、次亜塩素酸ナトリウムによって消毒された水道水が、滝川の足に今にも飛びかかろうと「シャーッ!」と牙を剥いていたミズチの一匹をその水圧によって吹き飛ばした。
そうして、水資源の豊な本邦の、世界でもトップクラスの高水準な水質管理をなされた水道水が、正体不明の水の怪異『ミズチ』を溶かすように、ただの泥水に還したのだ……!
水圧で吹き飛び、その場でのたうちながら溶けていくみたいに、ただの泥水に戻っていった小型の蛇ミズチ……。
その姿に仮説通りの効果を確信した俺は、襲い掛かろうと迫っていたミズチの大群を薙ぎ払うため、ホースヘッドを左右に振り、ジェット水流であたり一面に水道水を放水し、ミズチを蹴散らしていった。
懐疑的だった滝川も、目に見えて明らかな有効性を確認したことで腹が決まったのだろう。
ホースで水道水を周囲にぶちまけ続ける俺の傍で、もう一つの流れっぱなしの蛇口の前にしゃがみ込むと、突如、その水道水に頭を突っ込んで、自ら全身を洗い流し始めた。
すでにブラのみになってしまった半裸の上半身はもちろん、制服のスカートや靴を身に着けたまま下半身全体でも水道水を自ら浴びて、雨や泥水に汚れた全身を洗い流すと、
「な、名和くん! あのロッカーまで援護してくれっ!! 中にバケツがあったはずだ!!」
9月とはいえ、大雨の日の夕暮れに、水道水を浴びて寒かったのだろう。滝川は声と身体を震わせながらもそう叫び、生徒玄関横の職員玄関前の壁際に設定された清掃道具入れのロッカーを指差していた。
俺はその意図を察して、
「ああ! わかった!!」
と、そのロッカーまでの道筋を作るようにホースの水を向けたのだった。
水道水の放水によって水浸しになったレンガ敷きの昇降口の床には、ただの泥水に戻った蛇型ミズチの残骸と水道水が交じり合った水たまりが広がりつつあった。
そんな水たまりの上を、転ばないように慎重な小走りでロッカーまで駆けていく滝川。
退路を確保するべく、リードホースを引き延ばし、それでも昇降口からしつこく這い上がって来ようとするミズチの群れに引き続き放水を続けながら、俺は彼女の後ろについていった。
だが、無事に掃除用具入れのロッカーの前にたどり着いた滝川が、勢いよくロッカーの扉をバッと開いた、その時だった……。
きっと、横なぎに吹き付けていた風雨のせいだろう。雨水が、ロッカーの隙間から入り込んでいたらしい。
滝川がロッカーを開き、下のバケツを取ろうと掴み上げた瞬間、その屋外清掃用のバケツの中に残留していたらしい砂汚れと雨水が交じり合って生じたのだろう……子供の蛇くらいの小型ミズチが、バケツの中から滝川に向かって飛び掛かってきたのだ。
「ひっ!? あぁっ!! ……い、いやああぁぁっ!!」
短い悲鳴を上げて仰け反ったようだが、滝川は回避が間に合わず、その時には彼女の首元に15㎝程の小さなミズチだったが、それがすでに噛みついてしまっていた。
「た、滝川っ!!」
「いやだぁっ!! いやだぁぁあぁーーっ!!!」
あのダウナーな滝川が半狂乱になりながら絶叫し、バケツを放り投げ、首に嚙みついたミズチを必死に掴み落とそうと藻掻いていたのだが、どういう理屈でそうなのかは今振り返って考えてみても判然としないが、どうも泥水の塊のような身体を持つミズチを素手で掴むことはできないものらしい。
滝川の指はミズチの身体の表面を滑り、通り抜け、バチャバチャと水を切るばかりで、ミズチをまったく引き剥がせていなかった。
俺は、その光景を前に、
「滝川っ!! すまんっ!!」
と、ミズチが絡みつく滝川の首元に向けて、咄嗟にジェット水流を放水していた。
慌てていたとはいえ、シャワー水流に切り替えるような余裕はなかった。
途中で気が付いて切り替えたが、水圧に驚いたのか、それとも噛みついていたミズチが消えたので気が抜けたのか、滝川はその場に尻もちをついてしまっていた。
「滝川!!」
すでにミズチは溶けて消えていたが、念を入れて彼女の胸元にシャワー水流をかけ流し続けながら、滝川に駆け寄った。
首元に、ちょうど蛇による噛み傷とまるっきり同様の4つの赤い噛み傷ができていたが、かなり小さなミズチだったためか血もほとんど出ておらず、幸い軽傷のようだった。
だが、怪我の程度の問題ではなく、実際に襲われ、怪我を負わされたというショックのためだろう。
尻もちをついた体勢のまま、滝川は声も上げずに涙を流し、呆然としている様子だった。
普段の冷静で、理知的で、皮肉屋なくらいに頭と舌のまわる、いつもの彼女の見る影もないその姿に、その時の俺は、彼女の絶望が伝播してしまったかのように言葉を失っていた。
滝川が戦意喪失状態になってしまった上に、つい先ほどまで、俺たちは逃走のためにすでにだいぶ走り詰めて、体力を使ってしまっている。
しかもこの時、間が悪いことに事態がさらに悪化しつつあることに俺は気づいていなかった。
流し続けていたホースヘットの水流の勢いがだんだん弱くなっているのにようやく気がついた俺は、伸ばしたホースが繋がっている元を振り返った。
するとそこには、水道水に濡れたら自分たちも溶けて消えてしまうというのに、目的を遂げるための決死の覚悟だろうか、水道水で水浸しになった水たまりの中を溶けていく仲間の上を群れになって乗り越えながら、床に垂れているホースに噛みつき、いくつか穴を開けている数匹のミズチの姿があったのだ。
俺は咄嗟にジェット水流に切り替え、ホースに嚙みついている手近なミズチを溶かし流したが、ホースヘッドの水の勢いは確実に落ちてしまっていた。
しかも、さらには、例の本体らしい、龍か大蛇のような姿の大型ミズチが、ついに昇降口の目前まで迫ってきていたのだ。
一難去ってまた一難どころか、一難去って絶体絶命といった予断のない状況……。
俺はせめてもの抵抗に、水流の弱ったホースヘッドを本体のミズチに向けて、放水した。
だがしかし、やはり水の勢いも量も足りないせいか、当たったところが少し溶け落ちる程度で、ほとんど大蛇ミズチには影響がないらしい。
それどころか、本体は雨水を吸い続けているためか、川から現れた時よりもさらに、どんどんと大きく成長していっているようにすら見えた……。
「もう、ここまで……かね」
降りしきる喧しい雨音の中、ぼそりと言ったはずの滝川の声だったのに、それが妙に、通って聞こえた。
「すまないね……私が余計なことをしなければ……。そういえば、あの時も、私が土手に這い上がるのに手間取らなければ……きっと父さんは、兄さんを抱えて助けるのも間に合っていたはずなんだ……私が父さんの手を煩わせたから……だから、二人が死んでしまったのは……本当は私のせいでもあるんだ……」
膝を抱えて体育座りになった滝川は、膝に顔を伏せながら、確か、そんなようなことをブツブツと言っていたように思う。
そうして、
「どうやら、今度こそ、私はもう逃げきれそうにないようだ。……名和くん、巻き込んでしまって本当に申し訳ないが……私としては、最期までキミがそばにいてくれて、よかったと思う。少しの間だけだが、乗り越えて生き残れるかもと、希望を見ることができたし……あと、友人と言ってくれて、抱きしめてくれて……嬉しかったから……だから、どうか最期まで私と──ちょっ!? う、うわっ!? ぶふぅッ!!?」
俺は、らしくもなく最期の別れの挨拶のようなことを口走り始めた滝川に、少し弱まったとはいえ、それでも蛇口全開状態のジェット水流をぶっかけていた。
「げほっ! げほっ! な、なにをするんだいっ!!」
放水を滝川から外してミズチに向け直すと、滝川は嘔吐きながらも俺にそう怒鳴った。
だが俺は、
「いいからバケツを拾えっ!! 感傷に浸った過去の話はあとでいくらでも聞いてやるから! バケツを拾って、水を汲んで来い!! このデカブツの化け物にぶちまけ続けろよ!! 一回失敗して少し怪我をしたくらいでなんだッ!! お前が志してる科学なんてのは、実験と検証のトライ&エラーの繰り返しの積み重ねだろうが!! 科学に女も男も関係ない!! まだ、俺たちは死んでない!! そう簡単に死んでたまるかよ!! 」
と、若干支離滅裂気味に怒鳴り返していた。
こうして振り返るに当時の俺は、我ながら女相手でも容赦がない物言いだ。
こんな過去の行動をこうして書き記した上にネット公開するなど、令和の今の世となっては、流行りのフェ〇ニストに炎上させられそうだが、それだけ、俺も生き残るために必死だったことをどうか理解してほしい。
そうだ。二人で生き残るために、できることは最後まで、最大限やらなければならないと……そうした確信があったからこそ、俺は滝川を激励したのだ。
幸い、その俺の意図は彼女に伝わったらしい。
「し……仕方がないねぇ! キミ、真面目くんな見た目の割に女使いが荒くないかい!? 一度、親御さんの顔が見てみたいものだよっ!!」
などと、あからさまに皮肉を言いながら、足元に転がっていたバケツを引っ掴んだ滝川。
いつもの調子を少しは取り戻してくれたらしい彼女をホースの水で庇いながら俺と滝川は、一度、蛇口の下へと駆け戻った。
そして、出しっぱなしになっている水道から、バケツに水を汲み、その水をぶちまけることで、ホースの水と合わせて、にじり寄るように迫り来る大蛇ミズチを牽制した。
しかし、バケツの水も合わせながら、ホースの穴の開いた部分を手で押さえながら放水を続けはしているものの、やはり絶体絶命な状況であることは変わらない。
多少、大蛇ミズチは、自分の体を溶かしてしまう水道水に怯んでいる様子ではあるものの、この調子で撃退できるとはとても思えなかった。
それどころか、やはり雨水を吸い取り大きくなり続けている様子である上に、なんなら、斥候として小型ミズチを放ち続けることが水道水の放水によって無意味になっていることを理解したようで、派生させていたミズチを引き戻して、統合しているらしく、本体である大蛇ミズチはより巨大に肥大化しつつあった。
これでは、いよいよ昇降口の階段を乗り越えて、大蛇ミズチが本体ごと俺たちのもとに押し寄せるのも、もう時間の問題だった。
「だけれどねぇ! しかし、やはりこのまま続けていても、焼け石に水だよ! 名和くん!」
バケツに水を汲みながら、滝川は叫ぶように言った。
もっともな指摘に、
「焼石じゃなくて、泥水に水道水だがな……」
などと、我ながらまったく上手くもないことを返すくらいしかできなかった。
それにはさすがに、悠長に突っ込む状況でもなければ、気力もなかったのだろう。
滝川は、「はぁ……」とため息を吐くと、
「水がまったく足りていない……いや、キミの仮説がやはり正しかったとして、その上でより正確に言うなら、消毒剤の成分があのミズチの質量に対して全く足りていないんだろうね……しかし、これ以上の放水は、この程度の水道設備ではどう考えても不可能だよ。やはり私たちは……ここまでだ……」
と、最初は呆れたように言いつつも、最後はやはり先ほどのような諦めと絶望の滲んだ表情で言っていた。
だが、またしても偶然か、それともやはり何かの導きなのか、滝川へと目を向けた俺は、その瞬間、水滴まみれになった眼鏡で、滝川の肩越しにその学校設備の輪郭を遠くに捉えていた。
「なぁ、滝川……プールになら、もっと大量の水道水も、より強い消毒剤も、あるんじゃないか?」
「……!」
しかし、ハッと気づいたらしい滝川からの返答を待つ間もなく、ついに膨張しきったミズチの本体が頭から突っ込むようにして、その瞬間、俺たちのいる昇降口の軒の下へと突撃していた。
まるで、本当に川で起きるような鉄砲水現象……本物のフラッシュフラッドと遜色ないであろう激流が、その瞬間、俺と滝川を別つように襲ったのだった……。