(6)逃走
突然、濁流の川の中から姿を現した、蛇の形を模した化け物、『ミズチ』……。
そのミズチの群れが寄り集まって形成された巨大な泥水の大蛇から逃げ出した俺たちは、今まで牛歩の歩みで苦労して歩いてきたはずの帰り路を全速力で駆け戻っていた。
二人で手を取り合い、必死に走るうち、むしろ邪魔になった傘は、「傘なんてもういい! 捨てろ!」と、どこかの時点で滝川に投げ捨てさせた。
そうして大雨を直に浴びて二人とも濡れ鼠になりながら、示し合わせた明確な逃避先などなく、ついさっき出発した学校へ出戻るように逃げ続けていた。
しかし、後ろから迫りくる、本体であるらしい龍のようなサイズの大蛇ミズチとは別働隊なのか、小型の蛇ミズチが、民家の雨樋から流れ落ちてきたり、側溝の隙間から這い出てきて、逃げる俺たちの行く手を幾度となく阻もうとしてきた。
そんな小型蛇ミズチに襲われそうになる度、俺はポケットに入っていたハンカチや、それだけでなく学ランの上着やカッターシャツに、下着まで脱ぎ捨てて、先ほどの滝川の白衣のようにそいつらの上に覆いかぶせるように投げていったのだった。
どちらにしろ投げ捨てる前からそれらは雨水を吸い込んでいたので、もしかしたらほとんど意味のない行為だったかもしれないが、それでも背に腹は代えられなかった。俺の衣服を犠牲に、俺たちは襲い来るミズチの群れから逃走を続けた。
女である滝川にはさすがにさせられない作戦だが、男の俺が半裸になったところで大した支障はないだろうと思ってのことだった。
だが、そうしているうちに滝川も俺を倣ってか、ハンカチやセーラー服のスカーフを俺と同じように蛇ミズチに向かって投げ捨て始めたのだ。
「おい! さすがに女のお前がそれはまずい! 無理すんな!」
「し、しかし! こうでもしなければ、またあいつらに……ミズチに捕まってしまうかもしれないじゃないか!! 私は嫌だ! 裸を見られること以上に……あんなわけのわからない化け物に殺されて死ぬのは、まっぴらだ!! ……もしこれで、死んでしまったら……せっかく警告してくれた兄さんに顔向けできない!!」
滝川はそう叫んで、水へのトラウマと過去の悲しみを必死に振り切ろうとしているらしかった。
そして、ついに滝川が制服のセーラー服の上を、足元に迫っていたミズチに向かって脱ぎ捨てたところで、ようやく俺たちは学校まで戻って来られたのだった。
俺たちは昇降口を駆け上がり、まだ雨に濡れていない部分の残っている軒下を駆け抜け、ガラス張りの生徒玄関の扉へ、ほとんどぶつかりに行くような勢いで縋り付いていた。
しかし、半ば予想はしていたが、やはり生徒玄関にはすでに鍵がかかっていた。
ここまで、普段は運動など体育の授業以外ではほとんどしないインドア派の俺たち二人は、すでに息も絶え絶えだったが、それでもドアを叩き、「助けて! だっ、誰か助けて、ください……っ!!」「開けてくれっ!!先生ッ!! 誰かッ!!」などと、滝川も俺も必死に声を上げて、きっとまだ学校の中にいるはずと思い、教員たちに助けを求めた。
だが、残念ながら、俺たちがどれだけドアを叩きながら声を上げても、ガラス張りの玄関の奥に誰かが現れることはなかった……。
ここまでほとんど全力疾走で逃げ延び、荒い息を吐きながら声を上げてドアを叩き、助けを求め続けていた俺たちも、さすがに半ば諦めかけて、二人ともドアに背をもたれさせるようにその場に座り込みそうになっていた。
俺たちを追いかけていた大蛇ミズチはついに学校の校門前にまで迫って来ており、その本体から先行してしてきたのだろう、20、30㎝程の小型の蛇ミズチもついに昇降口の階段の段差を這い上って、俺たちに向かって来ている……。
──いよいよこれまでか……。
──もし、このまま、あいつらに襲われたとして、俺たちはどうなるのだろう……。
──あの泥水の大蛇のように肥大化したミズチに飲み込まれて、水に殺されてしまうのだろうか……。
──滝川のお兄さんとお父さんのように……滝川と一緒に……死の世界に連れていかれてしまうのだろうか……
聞いていたような走馬灯……とは少し違うようだが、俺は迫りくるミズチたちを前に、そんなような考えが一瞬の間に頭の中を駆け巡っていた。
だが、不思議と恐怖心はなかった。いや、もしかしたら、現実のものとはとても思えない事態を前にして、全力で走ったせいでアドレナリンが分泌されて、恐怖心が麻痺していただけなのかもしれないが……。
しかし、だとしたらそのおかげで、この次の瞬間、俺たちが生き残るための活路に気づけるだけの冷静さを保てていたのかもしれなかった。
その点についてだけは、たまには必死に全力で走るのも悪くないものかと、今でも思わないでもないところだ。
「……名和くん……すまない……私が巻き込んだから……私が、あの化け物を……ミズチを見た過去なんて話さなければ…………それか、さっき素直に、迎えに来たミズチに私が応じていれば……私だけが応じていれば……きっと、キミまで、こんなことに……巻き込まずにすんだのに……ッ!」
肩で大きな息を吐き、色気のない白いスポブラに包まれた胸元を荒い呼吸で上下させながらも、滝川は泣いていた。
苦し気な声で、俺を巻き込んでしまったことを詫びていた。
今回のことは、滝川が俺を巻き込みたくて巻き込んだわけでは決してない。
思えば、なぜミズチが突然、滝川の幼少期以来の9年越しに、彼女の実家がある山陰の田舎ではなく、関東に位置する俺たちの町に現れ、なぜたまたま居合わせた俺もろとも、再び滝川を襲っているのか……その原因も因果関係も、23年経った今から振り返ってみても、相変わらず謎のままなのだ。
原因など俺の立場からはさっぱりわからない。きっと、自分が巻き込んでしまったせいだと自責していた当時の滝川自身にだって、理論的な説明などできないだろう。
そのような、まるっきり理不尽な超常現象による危機的状況に、俺たちは見舞われてしまっていたのだ。
言ってみれば、突然身に降りかかる自然災害であっても、唐突で理不尽なのは、同じようなものだ……。
だから、誰が悪いわけでもない……たまたま運悪く、そこに居合わせてしまっただけだ。
だけれど、そのせいで、何も抗うこともできずにただ命を失うというのは、本当に悔しいことだ。
人間の文明というのは、人間の社会というのは、こうした理不尽に対応し、そのリスクを回避・軽減するために発展してきた。そのための、叡智であり科学だったはずだ。
だから……俺がこの直後、泣いている滝川の肩越しにそれを見つけ、やかましい程の風雨の中、偶然にもそれに気が付いたのは、きっと奇跡であると同時に、何か必然めいた加護があってのことだったのだと思う……。
俺たちの通っていた中学校の昇降口前には、二口の水道の着いた水洗い場があった。
屋外活動をする部活動者が泥を洗い落としたり、用務員が校庭整備などに使用した用具を洗ったり、その他、水を汲んだり撒いたりするのに使用している水場だ……。
その水場の蛇口は、一つはホースヘッド付きのリールに繋がっていたのだが、もう一つは素の蛇口のままで、そしてどういうわけか、なぜかその時、蛇口が全開になっていて、水道水が出しっぱなしになっていたのだった。
バシャバシャバシャバシャッ! と、排水口に流れ落ちっぱなしになっている水道水……。
しかし、よく見れば、その洗い場の蛇口からも排水口からも、同じ水だというのに、ミズチは一匹も這い出していなかったのだ……。
俺たちがつい先ほど学校を後にした時には、おそらく、蛇口は締められていたはずだったように思う。
正直言ってその時は外の豪雨と風音にかき消されて、ずっと流れ出ていたのに気づかなかっただけかもしれないが……普通なら、玄関を施錠した教員か用務員がチェックをしそうなものだというのに、それでもその時、蛇口は全開で水が流れ落ち続けていたのだ。
もしかしたら、この豪雨で直接確認が億劫になったか何かで、偶然、見落としがあったのかもしれない。
だが、その偶然か、何者かによる必然が、その時の俺に、生き残るための天啓を与えていた。
「……滝川! 立て!」
「えっ、な、なに!?」
俺は理由の説明も後回しで即座に立ち上がると、滝川を引っ張り上げ、迫り来る蛇型ミズチたちを避け、その水洗い場に駆け寄っていた。
そうしてグレーチング蓋越しの排水口を、俺は恐る恐る覗き込んだが、やはりそこには、ミズチは一匹もいなかった。
塩素剤によって消毒された透明な水道水がただひたすら流れ落ちて、予想通り、排水されているのみだったのだ……!
「な、なんだというんだい? 今更、こんな短い距離を逃げたところで……私たちの命運は変わらないと思うが……」
突然説明もなく腕を引かれた滝川は投げやり気味にそう訊ねてきたが、俺が排水口を指さしながら、
「塩素剤だ! お前、風呂には入れるんだろ!? 水道水なら、塩素で消毒されているからっ!」
と、俺が声を張り上げて言うと、瞬間、気づいたようで、滝川はハッとした表情に変わった。
そして、俺は続けざまに、
「きっと、ミズチは、川や雨水の、消毒前の自然の水の中にしか存在できないんだ!! ……きっと、水生微生物の集合体のような……よくわからないが! たぶん、そういうタイプの未確認生物なんだよ!!」
と、ほとんど思い付きでしかない、普段だったら俺自身でも「オカルト雑誌の読みすぎだ」と笑い飛ばしていたであろう仮説を、恥ずかしげもなく叫んでいた。
だからだろう、
「な、なぜだいっ!? なぜそう言い切れるっ?! そもそもあいつらが水道水に含有される程度の消毒剤で殺せるような生物かどうかなんて、今の私たちに判断できるだけの根拠が──」
と、さすが理系女子らしく、こんな命の危険に見舞われている時にまで、理屈や根拠を重要視する姿勢が彼女には刷り込まれているらしい。
だから、俺は、
「それは……今から証明すればいい!」
と言って、水場に放置されていたホースリールを引っ張り出しながら、その蛇口を全開にし、足元まで迫り来ていたミズチの大群に向けてトリガーを引き、ホースヘッドの先から迸るジェット水流の放水を開始したのだった。