(5)ミズチがくる
ひとしきり、冗談を言い合ってふざけあった後、滝川はいつもは眠たげなジト目の三白眼をキリっとさせて珍しい表情を作ると、
「どうにもこれ以上は待っていても、埒が明かないようだ……。名和くん、悪いが、やっぱり私を自宅まで送ってくれるかい?」
と、どうやら徒歩で帰る覚悟を決めたのか、俺の再三の打診を受け入れることにしたらしい。
もちろん、そうなれば俺としては、「やっと覚悟が決まったのか? まぁ、いいけどさ」と肩をすくめて頷いてやるのみだった。
そうして、滝川は携帯電話をもう一度、白衣のポケットから取り出すと、母親に電話をかけ始めたようだった。
だが、しばらくコール音が続いた後、どうやら留守番電話に繋がったようで、
「……母さん、頼んでおいて悪いけど、友人が見送ってくれることになったから……なんとか……歩いて帰ってみるよ。……直接じゃなく、留守番電話でごめん。仕事もあるのに、いつも迎え頼んじゃって、ごめんね。それじゃ、また家で……」
と、母親の携帯の留守番電話に録音を吹き込んで、通話を終えたらしかった。
それを見守っていた俺は、
「親と話すときは、いつもの女博士みたいな感じじゃなくて普通なんだな?」
などと、チャチャを入れてやった。
すると、
「う、うるさいねぇ!」
と、気恥ずかしかったのか、また珍しく軽く逆上した滝川に、俺は手に持っていた傘を奪われてしまったのだった。
そうして、俺が当時使っていた紺色で少し大きめな男性向けの傘をワンタッチでバッと開くと、
「ほら、早く行こう。これ以上、暗くならないうちに」
などと、急かすように言い放ち、俺の傘をさして、昇降口の階段の先へ、さっさと足を踏み出していってしまった。
俺は、「お、おい! 傘は貸してやると言ったが、俺を置いていくなよ!」とそんな彼女に追いつくと図らずも相合傘になりながら、台風の迫る大雨の中へ、ついに二人で歩き出したのだった。
───
──
─
バタバタバタバタと落ち着く暇もなく降り注ぐ大粒の雨が、二人で支え持つ傘にぶち当たり続けていた。
しかも時々、ビューと突風が吹くと、横なぎの雨が俺たちに吹き付けてくる。
そうなるとその瞬間、滝川の歩みが怖じ気たように止まってしまうので、俺は横風が吹いた時には滝川の方に傘を何度も傾けてやった。
そうしているうちに、当時の俺の学ランの左半分が、すっかりずぶ濡れになってしまっていた。
しかし、傘を二人で支え持っている右側では、やはり自然水に対する恐怖のためだろう、俺の腕に半ばしがみつくみたいに密着して、少しでも雨から逃れようとしている滝川の姿があった。
空元気を振り絞り、いざ雨の中に足を踏み入れたものの、まるで怖いお化けが襲ってくるのではないかと親にしがみついている幼い子供のような滝川の、普段の彼女らしからぬその不安げな表情を間近で見てしまうと、俺もさすがにからかいの言葉すら何も言えなくなった。
そんな怯えた様子の滝川を連れて、彼女の自宅へ向かうべく、会話も少なに少しずつ歩みを進め続けていた。
そして、10分少々は経った頃だろうか、俺たちの行く道の前に、『橋』が現れたのだ。
普段は、何の感慨もなく行き来していた、なんということもないアスファルト舗装の普通の、2、30メートル程度の短い橋……。
だがしかし、幼少期からの川の水に対する恐れとトラウマを抱えている滝川は、雨による増水のために、橋桁目前にまで迫った茶色の濁流の光景を目にしてためか、完全に足が止まってしまっていた。
まだ、橋の欄干や路面にぶち当たってくるような水位ではギリギリないため、今のうちに渡り切ってしまえば、なんとかなりそうにも、その時の俺には思えた。
だが、俺の腕にしがみついて、膝から両足を震わせているらしい彼女を無理やり引っ張っていくというわけにもいかず、
「な、なぁ、迂回路とかないのか? 橋を通らないで済むような……」
と、俺は滝川に訊ねたのだが、
「あ、あるにはあるが……一度戻って、かなり大回りしなければならないから、い、今の私たちの歩みでは、一時間は余計にかかってしまうかもしれない……」
と、彼女自身の両膝と同じく震えた声で、そう答えたのだった。
こんな状態の滝川を連れてさらに一時間も雨の中を歩く……となると、それはかなり困難なように思えた。
橋の目前で、滝川を無理やり担いででも橋を渡らせるか、一時間かけて迂回するか……と、逡巡していたその時だった。
大雨の天気な上に夕暮れ時という薄暗い雰囲気にそぐわない、明るいメロディーの電子音が辺りに鳴り響いた。……それは、滝川の携帯電話の着信だった。
「あっ! か、母さんからかも!」
滝川は唐突な自身の携帯電話の着信に驚きながらもそう声を上げ、白衣のポケットから携帯を取り出すと即座に通話ボタンを押して、携帯を耳に押し当てていた。
「も、もしもし? 母さん!?」
勢い込むように電話に出た滝川。
だが、その横顔は、傍から見ているだけの俺からでもわかるくらい、すぐに怪訝な表情に変わっていった。
「母さん?! ノイズが多くてよく聞こえないよ! ぼそぼそしゃべらないで、はっきり言って! 今どこにいるの!?」
普段のニヒルでダウナーな滝川らしくない、必死さを帯びた声に、俺はさすがに心配になりながら、彼女の電話を見守っていた。
が、
「……えっ? ……も、もしもし?! もしもし?! ……あ、切れてる……」
どうやら電話は途中で切れてしまったらしい。
滝川は呆然と、通話の終了した手の中の携帯電話の画面に視線を落としている……。
俺はそんな彼女に、
「……お母さん、なんだって?」
と、尋常ならざる様子におずおずと訊ねたのだが……彼女から返ってきた言葉は、
「……最後、母さんの声じゃなかった……電話番号の表示は確かに、母さんのだったのに……」
「えっ」
滝川は戸惑う俺に携帯の画面を見せたが、確かに通話履歴の最後は、電話帳登録で『お母さん』と表示されていた……。
「な、なんて言ってたんだ……?」
これだけの、洪水レベルの大雨であるというのに、俺はなぜか、喉が張り付くような緊張を覚えながら、滝川にさらに訊ねていた。
それは、今から思えば……所謂、勘が働いていたのかもしれない……。
これから起こるとんでもない事態への、悪い予感が……。
「……『逃げて。ミズチがくる』……って……子供の、男の子の声で……」
ミズチ──その言葉を聞いた瞬間、どういうわけか、俺は全身に鳥肌を立たせていた。
その時まで、聞いたこともなかったはずのその言葉……のちに調べてようやく、日本書紀に登場する大昔の水の悪神であることを知ったはずだというのに、その『ミズチ』という名前は、その時点での俺に対してすら本能的な恐怖と危険を直感させていたようだった。
そして……その一瞬後のことだった。
目の前の橋を、どういうわけか、一気に増水した濁流が橋桁を超えて、ドドドドドドドドドッ! と轟音を轟かせながら橋の欄干にぶち当たり始めたのだ。
そして、その橋の上に……20年以上経った今でも、信じられないことに──
──そのアスファルト舗装の橋の上に、濁流と同じ茶色く濁った色味のかかった半透明な蛇の大群が、バシャバシャと大量に、打ち上げられたのだった……──
それは、明らかに、生きている蛇ではなかった……。
いや、打ち上げられた橋の上で、それらの蛇たちはしっかりとのたうち、蠢いていた。
しかし、だ。……まるで泥水で作った水ようかんか水わらびのように半透明で茶色い液体のような形質の蛇など存在するだろうか?
日本本州において野生に生息してる蛇は大きく分けて、シマヘビ、アオダイショウ、マムシ、ヤマカガシの4種類のみだ。
どこか国外から輸入された珍種のペットが野生化して繁殖する……そういう可能性もまったくないではないが、あんな半透明な体を持つなどという珍しすぎる見た目の外来種の蛇が大量繁殖していたら、間違いなく話題になっているはずだろうに、そんな話はまったく聞いたことがなかった。
しかも……その蛇の大群は……のたうち、蠢き、絡み合っていくうちに、脊椎生物のはずの蛇としてはありえないことに、まるでアメーバの集合体のように寄り集まって、一つの大きな蛇の形を急速に形成し始めたのだ……。
あれが……蛟……!
23年は経った今でも、時折、夢に見る……水の悪神……!
大量の蛇が交わりあって巨大な一つの蛇になっていく……あの禍々しく恐ろしい姿は、今も俺の記憶の中にこびりついて離れないほどだ……。
当時の俺も、その現実のものとはとても思えない信じられない光景に、「な、なんだよあれ……なんなんだよ! あれッ!」と半ばパニックになりかけ、その場で腰を抜かしそうになるのをなんとか踏みとどまって叫んでいた。
だがその時、そんな俺のすぐ隣で……
「……お父……さん? ……お兄、ちゃん……?」
と、なぜか呟くように言って、その場で崩れ落ちるように膝をついた、尋常ではない様子の滝川に、かえって俺は冷静さを取り戻せたらしい。
「お、おい! 何してるっ! 逃げるぞっ!! 立てっ! 立てよっ! 滝川ッ!」
滝川の両肩をひっつかみながら、俺は彼女に向けて叫んだ。
しかし、彼女の真正面にまわったはずの俺の姿がまるで見えていないかのように滝川は、
「あはは……そっか……そっかぁ……さっきの電話の声……お兄ちゃんだ……なんで忘れてたんだろう……お母さんがこれないから、代わりに迎えに来てくれたんだね……お兄ちゃん……お父さん……」
などと、虚ろな目で妖しい笑みを浮かべながら、白衣の袖口から携帯を握ったままの右手を、ミズチの居る橋の方へ伸ばして、ぶつぶつと呟いていた。
まるで何か……その時の彼女には、何か、俺に聞こえない声が聞こえているのか、俺に見えない何かが見えているのか……信じがたいことだったが、そんな様子にも見えた。
だから、俺はまさに……ホラー映画やドラマなどで、化け物が迫っている中、パニックになった仲間に対応する時のように、滝川の頬にビンタを一発お見舞いしていた。
「しっかりしろ!! 滝川ッ!! お兄さんは逃げろって言ったんだろ!! その電話で!! お前に、逃げろって警告してくれたんだろ!! ……逃げるんだよ!! 立てッ!! 生きるんだ!! お兄さんはきっと、お前に生きて欲しいんだよっ!! 迎えになんか来てない!! 自分と同じ、死の世界に連れて行こうとなんてしてないッ!! 立てッ!! ……逃げるぞッ!!」
俺は滝川を正気に戻そうと、彼女の肩を掴み揺らしながら、彼女に大声で呼びかけ続けた。
すると、滝川リュウコはその瞬間ようやくハッとしたように、虚ろだった目に光を宿しなおし、
「そ……そう、か…………そうだよな……すまなかった、名和くん……行こう。……逃げよう!」
と、ようやく立ち上がってくれたのだった。
しかし、次の瞬間、今度は俺の方がその場に崩れ落ちてしまっていた。
なぜならその時、ここまで歩いて来る間にズボンごとずぶ濡れだった左足に、例の蛇、ミズチのうちの一匹が纏わりつくように這い上がって来ていたのだ。
橋の上の本体とは別に、先行して這い寄ってきていたらしい数匹が連なりながら、俺の左足を締め付け、俺を地面に引き倒してしまったのだ。
「う、うわぁっ! ああっ!! クソ! なんだこの水蛇ッ!! ああぁぁッ!!」
自分の中の痛みと恐怖を誤魔化し、どうにかして逃れようと、眼鏡の真面目くんな俺には似合わなかったかもしれない口汚い言葉で叫びながら、絡みつかれた左足を振り回した。
だが、制服ごとずぶ濡れなせいだろうか、まったく振りほどけた感覚もなく、蛇の形をした冷たい泥水が巻き付いてくる気持ち悪い感覚が、着実に膝から太ももへと這い上がって来ようとしていた。
が、その時だった。
俺の学ランのスラックスの上に、白い、大きな布がバッとかけられ、それがずぶ濡れだった俺の足からその瞬間ミズチを吸い上げていた。
足を締め付けられ、地面に引っ張られていた感覚がなくなった俺は、即座に慌てて立ち上がりながら、
「た、滝川! すまん!」
と、自分の白衣を犠牲にミズチから助け出してくれた滝川に叫んでいた。
だが、事態は礼をゆっくり伝える暇すら与えないほど、切迫していた。
ミズチを吸い取った滝川の白衣は、その瞬間はミズチの無力化に成功したものの、今度はずぶ濡れになった白衣を滝川に向かって滲み上り始めていた。
しかし、直前まで錯乱していた様子だったはずの滝川は思いのほか冷静に、その白衣を投げ捨てると、
「貯めていたお年玉をつぎ込んだ一張羅だったんだがねぇ……しかし、この場合はやむを得ないか……さぁ、今度こそ逃げよう! 名和くん!!」
と、俺の手を取り、橋の上からついにこちらに向かって来るように這いずり始めた泥水の大蛇に背を向けて、今まで来た道を駆け戻るように、俺と二人、迫る化け物から逃げ出したのだった。