(4)慰めの言葉は見つからなくとも
彼女に掛けるべき言葉も思いつかなかった当時の馬鹿な俺だが……。
今から自分で振り返ってみても、眼鏡の真面目くん男子中学生だった自分の見た目や性格にはとても似合わない、完全に雰囲気に呑まれた勢い任せの行動だったように思うが……辛い過去に、堪えるように苦しそうに泣いていた滝川リュウコを、俺は思わず抱きしめてしまっていた。
「…………」
「…………」
お互いに無言の時間。降りしきる雨音だけの、二人きりの図書室……。
シチュエーションこそはまさにそれでも、現実には青春モノや恋愛モノのドラマのように、気の利いたカッコいい慰めのセリフなんて出てこないものだ。……第一、俺はそんな二枚目キャラじゃない。
だが、それでも俺は……。
「名和副部長……キミ、真面目そうな顔をして、とんだスケコマシだな……女が泣いているのに付け込んで、勝手にこんな……」
抱きしめた腕の中、当時の俺より頭一つ分、背の低かった滝川は、俺の顔を見上げもせず、鼻声のまま、俺の喉元に向かって非難がましくそう言っていた。
「つ、都合のいい時ばかり、女であることを主張するんじゃねーよ! ついさっきだって、自分の中に女子力はないって否定してただろうが。……そ、それに、俺だって自分にびっくりしてるんだ。こんなことするなんて……確かに、キャラじゃないし、似合わないのは、わかってる……だけど、それでも、目の前で泣いている、友達を慰めたかったんだ……それじゃ、ダメか?」
などと、俺は、我ながら格好のつかない気恥ずかしいセリフを若干どもって言葉を詰まらせながら、そう言い返していたのだった。
すると、滝川は、
「……トモダチ……?」
と、なぜか片言のようなイントネーションで呟くと、
「ふっ……ふふふっ……そうか、友達かぁ……それは、光栄だねぇ。……名和くんは、私のことを友達だと思ってくれていたとはねぇ……ふふふっ」
と、何が面白かったのか、唐突に笑い出したのだった。
「……い、いや、なんで笑うんだよ? だって友達は友達だろ? クラスメイトだし、同じ部活で部長と副部長だったんだから、知らない仲じゃないだろ」
俺はそう返したのだが、彼女は、
「いやいや、おっしゃる通り。きっと、キミのおっしゃる通りだよ。名和マコト……副部長くん……」
と、涙の跡が残る顔で俺の顔を見上げると、少しは気が和んだのか、穏やかに微笑んで、そう言ったのだった。
───
──
─
俺と滝川の、友情を確かめ合う抱擁……。
ああ、いや、中学生当時の俺としては、自分からしたこととはいえ、同級生女子との思いがけない物理的な急接近に、友情由来の親愛の感情以外はまったく抱かず、一瞬もドギマギしなかったかといえば、それは嘘になるのだが……。
……正直言って、本当に変態みたいに思われそうで恥ずかしいことだが……真正面からお互いに抱擁しあった彼女の、しっかりとした女性らしい柔らかさと、若い女の子特有の髪から香るシャンプーの匂いらしい良い香りが、今でも鮮明に青春時代の記憶として焼き付いてしまっているようにすら思っている……。
相手はクラスでも少し浮いている変わり者で、自分自身で「私に女子力なんて期待するな」などと言ってしまうような、偏屈で干物女気味な理系女子で……だけれど、それはそれとして、客観的にはしっかり美少女でもあったのだ。
少なくとも、俺は今でも彼女について、そう記憶している……。20年以上経った今でも、ずっと……。
……少し話が脱線したようだ。
今回、こうした回顧録のような投稿文を、文才のない凡人の身で書くことにしたのは、この後、俺と彼女の身に起こった一連の事件についてを振り返り、その体験談を記録し、伝えるためというのが目的にある。
だから……ここからは、話を本筋に戻させてもらおう。
さて、そうして俺たちはしばらく、雨の降りしきる放課後の図書室で二人きり、友情を確かめ合う抱擁を交わしていた。
……そうだ。そもそも、この時の出来事は、ほとんどの生徒がすでに下校した後の放課後の出来事であり、しかも台風接近による大雨のために保護者の迎えを待つのに時間を潰す利用者がいなくなれば、図書室は早じまいをしていいと命じられていた日の出来事であったのだ。
であれば、そんな日の図書委員が、唯一残った一人きりの利用者と込み入った話を続けていて、職員室になかなか鍵を返しに来ないとなれば、当時の図書委員会の担当教員も、どうしたのかと様子を見に来るのが当然の流れだろう。
解放された図書室の引き戸をノックしながら、「おーい、今日はさすがに図書委員の業務もう終わりでいいから、図書室閉めていいぞー」などと、空気を読んでいないみたいに入ってきた担当教員の声によって、俺と滝川の抱擁は、しゅばっ! と、光速はありえずとも、瞬間風速5メートルはかくやといった速度でキャンセルされたのだった。
そうして、「……なんだ、まだ利用生徒も残ってたのか。君もいい加減、帰りなさい。そろそろ生徒玄関も施錠されてしまうし、図書室も鍵は預かってこっちで締めるから、二人とも気をつけて帰るんだぞ」などと当時の担当教員は言って、俺から図書室の鍵を回収すると、俺たちを半ば強引に図書室から追い出してしまったのだった。
───
──
─
図書室を追い出され、台風接近中の大雨の中、学校を出ることを余儀なくされた俺たちは、生徒玄関前の昇降口の屋根の下、お互い若干気まずい雰囲気で、風雨が学校前のアスファルトを打ち続ける景色を二人で眺めていた。
「……まぁ、そんな気はしてたが、全然落ち着く気配もないな。雨脚」
「……うん」
会話の歯切れは悪く、俺もさっきのこともあって彼女の顔をまともに見れないでいたが、滝川はどうだっただろうか……。
もしかしたら、抱き合っているところをギリギリ教員に見られていたかもしれないと思うと、さすがに恥ずかしい。……しかも、今から思えばそれが、俺と滝川の別れの一つの要因になってしまうとは、この時の俺には、想像もしていないことだった……。
……ともかく、この時は、迎えに来るはずの彼女の母親が到着するのを見届けたら俺も帰ろうと、そういうつもりで、滝川と二人、昇降口の軒下で、しばらく雨宿りをし続けていた。
しかし、それから体感で五分、十分と経っても、一向に滝川の母は到着もしなければ、彼女の携帯に連絡もよこさなかった。
何度目かの携帯メールの送受信チェックの後、ため息を吐いた滝川に、
「やっぱり、この雨だからな。仕事抜けられないんじゃないか? 俺のうちも共働きだし、公務員だからさ。こういう時にどうしても抜けられない仕事ってあるよ。……濡れるのが嫌なのはよくわかるが、もう徒歩で帰った方が早いと思う。こんなところにいつまでもいるよりは家に帰りついてしまえば安心だろ? 一人が不安なら俺もギリギリまでついて行って見送るからさ……」
と、図書室で彼女の過去を聞いた後だった俺は、それでも遠慮がちに提案した。
だが、滝川は困ったような顔で頭を掻くと、
「実はだね……今、傘がないんだよ。この天気だ。故意かどうかはわからないが、他の誰かが私の傘を持って行ってしまったらしい……どのみち、母さんに迎えを頼んだから、今日のところは何とかなると思っていたのだがねぇ……」
こんな日に人の傘を盗るなんて、酷いクラスメイトがいるものだよ……。
と、滝川は付け足すように、そう呟いたのだった。
……滝川はいつも通りの飄々とした調子で言おうとしているようだったが、ほんのり声が不安げに震えているように、その時の俺には感じられた。
だから……
「なら、俺の傘を使えばいい。……どのみち、この雨風じゃ傘さしてたって、まったく濡れないのは無理かもしれないけど、ないよりはマシだろ」
と、俺は自分の手に提げていた、紺の男物の傘を彼女に差し出していた。
しかし、ちょうどその瞬間、ビュウッ! と風が吹き、横殴りの雨が、昇降口の先を濡らしていった。
その風雨が足元のレンガを濡らした瞬間、滝川は無意識なのか、ビクッ! と、おののくように小さく後ろに飛び退いていた。
……トラウマにしても、そこまでダメだとは、俺もさすがに想定していなかった。
そのため、
「なぁ、そこまで水に濡れるのが怖いってなると、普段、風呂とかどうしてるんだ?」
などと、振り返って思うとやっぱり当時の俺は、そんなデリカシーがないことを訊ねてしまっていた。
「……い、一般に水道水は、水道用次亜塩素酸ナトリウムなどの塩素剤で消毒されている。その他、オゾンや活性炭なども使って、水の中の微生物や細菌の細胞を破壊し、浄化槽で何度も漉してから、一般家庭の水道に供給されている……だから、雨や川の自然の生水とは違って安全なんだ……だから……あの日の川の水みたいに、まるでアメーバの集合体のように化け物の姿を作りながら流れてくる……なんてことはありえない……さ」
滝川は、いかにも理系らしく理屈で答えていたが……それでも、いつものニヒルな笑みを浮かべる余裕はなかったらしい。
それもそうだ。本当にその理屈を心から信じ切って、消毒された水道水なら安全と思っているのなら、水道水よりももう幾分か強力な塩素剤で消毒され、管理されているはずの『プール』に頑なに入らないのは、文字通り理屈が通らない話だ。
風呂に入ること自体は日常生活を送る必要上、理屈で自分を納得させて、我慢できたにしても、やはり理系女子の滝川であっても、理屈だけで納得して克服しきれないのが、その父親とお兄さんの死に関係する、彼女の水に対してのトラウマであったのだろう……。
一応、俺としてはいつものように気の置けない会話の応酬で和ませたいと思ってのことだったのだが、いらぬことを聞いてしまった。
そう思った俺は、
「なら、風雨に晒されてる学校の屋外プールはともかく、管理された室内プールなら、滝川でも大丈夫だな? ……まだ9月でギリギリやってるだろうし、今度行こぜ。水嫌いのお前でも泳げるようになるまで、俺が泳ぎを教えてやるから、せいぜい可愛い水着でも選んできてくれよ」
と、あえてチャラチャラしたナンパ野郎のような軽薄な笑顔を作って、彼女にそう言ったのだった。
すると、まったく当然といえば当然、
「……キミってそんなに馬鹿だったかい? 本気で言っているのだとしたら、キミは私が思っていた以上に愚かだったようだねぇ。……一度、私を抱いた程度で、この私をプールデートに誘おうなどと、彼氏面をしないでくれたまえよ」
と、呆れたような表情でそう言われてしまったのだった。
「いや、抱きしめた、な! 抱いたって言われるとなんかその……語弊があるだろ!」
と、本気で引き気味っぽい滝川に、俺はそれでも臆さず、おどけて言い返してみせた。
すると、
「…………ぷっ……ふふふっ、はははっ……あ、あははははっ──」
と、滝川は、ついに堪えきれずにか、不安げに強張っていた表情をようやく崩して、笑ってくれたのだった。
そうして、
「──いやいや、名和元副部長も、しっかり思春期男子だったというわけか。……しかしだねぇ、女子とするには少々下品な話題だ。そんな調子では、ただでさえ地味眼鏡くんのキミではますますモテなくなってしまうかもしれないぞ。名和くん。……今回、私にウケたからといって調子に乗ってまた話題にするようなことはしないようにしてくれたまえよ。今後、私以外の女子とは、絶対しないようにすることを、一応、友達として忠告しておくよ。忘れないようにしたまえ」
と、ひとしきり笑った後、滝川は、俺をイジるようにそう言い返してきた。
「うるせぇ。そっちこそ、ただの雨水風情に怯えてるお前の気を少しでもほぐしてやろうという、俺の友達としての気遣いを忘れるんじゃないぞ。……一生な」
「いや、一生はさすがに恩着せがましくないかい? ……まぁ、今夜一晩くらいは覚えておければ覚えておくよ」
「理系のくせに鳥頭かよ」
などと、俺たちは科学部がまだあった頃のような、くだらない戯言の応酬をして、その時の空のように薄暗くなり続けそうだった雰囲気を、無理やり明るく笑い飛ばそうとしたのだった。
だがそれも、結局はこのすぐ後に俺たちを襲った事態の前では、なんの甲斐もなくなってしまうのだが……もちろん、そんなことはこの時の俺たちが知る由もないことだった。