(3)水難事故の記憶
古い記憶を一つ一つ思い出しているのか、どことなく遠い目をしながら、滝川リュウコは、「水に人が殺されるところを見た」という、彼女自身が過去に体験したという幼少期のトラウマの話を語り始めた。
「あれは、私が子供の頃……5歳の時のお盆のことだった」
「…………」
──中学生なら今でも子供は子供だろう……──
とは、さすがに真面目な話をしようとしている時だったので空気を読んで、ツッコミはしなかった。
いつもの俺と彼女の関係性なら、普通の会話の時には間違いなくチャチャを入れてやったところだったろうが……。
「ああ、お盆であることを覚えているのは、母の実家に帰省していた時のことだったからだがね。……まぁ、子供のいる家庭の夏休みのお決まりさ。お盆休みを利用して、親の田舎の実家への挨拶、孫たちの顔見せ、そして夏休み真っ只中の子供たちに対するレジャー体験の提供……あの時の我が家の帰省も、それらを兼ねての田舎への帰省だったよ──」
───
──
─
現在37歳である俺がこの時、滝川リュウコの話を聞いたのは、23年前の14歳の頃のことである。
その頃からさらに9年は前の出来事となるので、幼少期のリュウコの話は32年前の出来事ということになるだろうか……。
当時まだ幼稚園児だった滝川リュウコは、彼女のご両親である滝川夫妻と、それにもう一人、小学生だった彼女の兄を加えた家族計4人で、山陰地方にあったという母親の実家に帰省したのだそうだ。
その彼女の母親の実家というのが、四方を囲む山の中、切り開かれた山の斜面や少々の盆地に田畑が点在している景色がずっと続いていくような、まるっきりの山田舎であったらしい。
そんな田舎での滞在、如何にも理系女子らしいインドア派な滝川にとってはさぞかし退屈であっただろうと想像したのだが、彼女自身が言うには、意外にも朝から晩まで、父や兄と共に山の中で虫取りをしたり、河原の小魚を取ったりと、田舎らしいアウトドアな遊びに没頭していたのだという。
「流されると危ないから、実家近所の川に近づくのは父か母が一緒にいる時だけと約束していたんだがね……それなのに兄はたびたび、「山に入って泥で汚れたから」などと理由をつけて、母の実家近所の河原に訪れては、「流れの速いところに行かないように気を付ければ大丈夫だから」などと言って、流れる川の水に足をつけてはよく涼んでいたものだから……私も真似をしてサンダルのまま川岸に足先をつけて……サンサンと輝く夏の日の光の下、ミンミンゼミの鳴き声と川のせせらぎの中、兄と一緒に川遊びをしたものだったよ……。川としては上流と中流がちょうど切り替わるくらいの地域だったらしくてね。川岸も比較的広くて穏やかだったんだ。だから毎年訪れると必ず一度は、その川岸で父がBBQをしてくれるのも私たちの帰省の恒例で、日が落ちてからは兄と一緒に、買ってもらった花火なんかもしたものさ。……本当に、楽しかったよ。あの頃は……」
いつもは胡乱げで眠たげなあの三白眼を細め、遠い目をしながら、在りし日の思い出を慈しむように、滝川はそう口にしていた……。
だが、そんな彼女の目つきが、次の瞬間、キッと鋭くなって、
「しかし……当時の私たち兄妹は、名前もよく覚えていないようなその川に対して、勝手に親しみばかりを覚えてしまっていたんだろうねぇ。本来、河川のような、自然由来の水流の力が働いている場というのは、とても危険な場所だと……そういう認識が薄れてしまっていたのさ……だから──」
雨脚の一向に弱まらない窓の外の景色を睨みつけて、
「──だから、あの日……油断してしまっていた私の家族は……私の父と兄は……川の水に飲みこまれ、連れていかれてしまったんだ……」
と、滝川は俺に背を向けたまま、静かに、噛み締めるように、そう言ったのだ。
その時の俺は、いつもの皮肉屋理系女子な彼女とは違う様子のシリアスな雰囲気に気おされてか、滝川の華奢な身体には少しオーバーサイズ気味な白衣を羽織ったその後ろ姿に向けて気の利いたことも言えず、沈黙の時間を過ごしていた。
無言になった俺たちの代わりにか、相変わらず止めどころなく、弱まる様子もない雨の音が、人気の無くなった図書室を支配していた。
まるで、その威容を誇示するかのように、雨粒で窓ガラスを打ち鳴らし、吹き付ける強風で窓枠を揺らすなどして、大雨はさらに激しさを増してきているようだった……。
そんな窓の外の風雨の景色を前にして、滝川は白衣の袖口を後ろ手に組み、窓の外に顔を向けたそのままの姿勢で、徐に再び口を開いた。
「……フラッシュフラッド現象……日本語でいうと、所謂……いいや、キミにはもう言うまでもないか……元副部長?」
フッと自嘲するように笑った滝川が途中まで言いかけた言葉を引き継いで、
「……鉄砲水……現象……だったか」
と、俺は項垂れ、絞り出すように、そう言った。
中学生、それも女だてらに元科学部の部長を曲がりなりにも務めていた滝川リュウコ……。
思えば、彼女が個人的な研究対象として興味を示すことが多かったのは、ほとんどが『自然科学』の分野だった。
特に気象現象や地質学や流体力学などについての図書を多く読み込んでいたらしい彼女のそんな姿を、よくよく思い返せば、俺は元部員としても、図書委員としても、見かけることが多かったと思う……。
「私自身何度か話題にしていたからね。キミもすでに知っての通りだろうが、一応改めて説明しようか。フラッシュフラッド、鉄砲水現象とは、河川の急激な増水によって短時間で引き起こされる、洪水と土石流の中間のような自然災害のことだ。多くは、河川上流での短時間で急激な降雨による増水や、地震・地滑りなどによって発生した土砂の滞留……河道狭窄・閉塞の決壊が原因ともされているが……そもそも短時間で起こり、すぐに収束する傾向のある現象のため、原因をはっきりと特定できないケースも多くある……といった、まだ十分な研究や検証が進んでいない、そんな自然災害さ。……時には、急激な降雨後にダムや貯水池の増水分を調整するため、下流地域への予告なしに放水をしてしまったことで起こってしまった、限りなく人災であったケースもあるそうだけれど……まぁ、そのケースに触れるのは、今回は必要がないだろう。……後に調べたところ、私たち家族が到着する前日まで、さらに上流の地域では雨が降っていたそうだから……ね──」
当時の回想を語る滝川リュウコによると、どうやら彼女たち滝川一家がご実家に到着する前日、その毎年遊び場にしていた川のさらに上流の地域で雨が降っていたのだという。
しかも到着当日の彼女の母親の実家付近は一転して晴れ渡っており、その降雨の情報を認識していなかった滝川の父親と滝川兄妹は、毎年の恒例通り、川へと遊びに行ってしまったのだ……。
「今から思えばだがね……到着した時、水量は普段通りに見えたんだが、川の水は以前の記憶よりも濁って見えていたような気がするんだ……。まぁ、もっとも、その後に事実として起こった鉄砲水の記憶のショックのせいで、私自身、バイアスで記憶を作り変えてしまって、そう思い込んでいるのかもしれないがね。……人間というのは、事故や災害の記憶など、ショックの多い記憶を自分自身で改竄してしまうことがままあるそうだ。……だから、きっと、アレも……幼い私が、近親者の死を目の前で見てしまったトラウマのせいで、記憶の中に作り出してしまった……存在しない化け物だったに違いないんだ……ああ、絶対にそうだ! あんなもの……生き物でもない水があんな形になるなんて、どう考えても物理的にあり得ない……あり得ないのに……ッ!」
回想を俺に語っていたはずの滝川は、どうしたことか、途中から頭を振って、自分自身の記憶を否定するようなことを呟きだしていた。
俺はそんな彼女に、
「お、おい、大丈夫か? ……なあ、滝川、辛いなら無理に話さなくてもいいと思うぞ。お前が自分で何を見たと思ってるのか、俺にはよくわからないが……お前自身が言った通り、きっと身近な人の死を見たショックで見間違えたか、記憶違いを起こしてるんだろう……その時のお前はまだ5歳だったんだろ? 仕方ないって……そんな年齢の時にお父さんとお兄さんを一気に失ったのなら、いくら頭の良いお前でも記憶違いを起こしたって仕方が──」
──仕方がない。
今から思えば、彼女にとってその言葉は、なんの慰みにもならない、残酷で無力な言葉だったのだろうが……仲良くしていた同級生女子から初めて打ち明けられた辛い過去の話を前に、人生経験のあまりにも少ない中学生だった当時の俺としては、それでも捻りだそうとした精一杯の慰めの言葉のつもりだった……。
だが、その言葉はどちらにしろ最後まで口にすることはできなかった。
その瞬間、それまでずっと雨の降りしきる窓の向こうへ顔を背けていた滝川リュウコは、バッと俺の方に振り返って、
「水が、蛇の形をしていたんだっ!──」
声を荒げ、そう叫んでいた。
そして、続けざまに、
「茶色に濁った濁流が、巨大な蛇か、龍の頭のような形になってっ! 大きく開けた口が、お兄ちゃんを助け出そうと抱えたお父さんを! 二人とも飲み込んでっ! ……連れて行ったッ! 死の世界に連れて行ってしまったんだッ!! …………そんなのあり得ない……あり得ない見間違いだって、私だってわかってるさ……でも……でも……私は、本当に見た……見てしまったんだ! だけど、誰も信じてくれなかった! ……母さんも、祖父母も、警察も……誰も……そして……私自身も……ッ!」
と、彼女は苦しそうに表情を歪ませてそれだけ言うと押し黙り、顔を伏せてしまった。
そうして、滝川リュウコは、声を押し殺すように顎を食いしばりながら、静かに涙を頬に伝わせ始めたのだった。
俺たち二人以外、誰もいなくなった図書室で、いつもの皮肉屋で飄々としている彼女からはまるで想像もしていなかった姿を前にした俺は……声を上げるのを堪えるようにさめざめと泣き続ける滝川リュウコに、俺は何も言えなかった……。
何も、かけられる言葉が見つからなかった。
当時の俺は、大した人生経験もなく、身近な人の死にまだ実際に直面したこともないただの中坊のガキだった。
だが、見つからなかったからこそ……俺は……
「…………………」
「……えっ?」
困惑したような短い声を漏らした彼女を、ただ言葉もなく、ただ抱きしめていた。