(2)図書室の常連となった“元部活仲間”
あれは……今37歳の俺が中学3年の頃で……確か、夏の終わり、9月頃の出来事だったな。
夏休みも終わり、通常通りの学校生活に戻った9月の中旬、図書委員に所属していた当時の俺は、その日の放課後も、いつものように図書室で貸出業務をしていた。
だが折り悪くもその日は、大型台風が日本列島に上陸しており、当時住んでいた俺の地元の町はその台風の影響をもろに受け、午前中から断続的な大雨に見舞われていた。
俺が学生だった2000年代当時の、平成中期の始まり頃というのは、学校の危機管理体制が令和の現代よりはまだ少しばかりゆるく、大雨のために学校が休校になるなど、そう滅多なことで起こることではなかった。
下校についても、台風による大雨のため、家族の迎えがある者以外で部活などの用のない生徒は暗くならないうちに真っ直ぐ帰るようにとホームルームで指示があった程度だった。
海辺の市であったこともあってか、町を流れるほとんどの河川は下流であり、比較的川幅は広く、護岸も高い。
そのため、大雨こそ続いているものの、直ちに氾濫するというような情報や認識があまりなかったのだろう。
だからこそ、警戒はしていたようだが、当時俺の通っていた公立中学は、できる限り通常通りの運営を行うという判断を下したらしかった。
そんな大雨の、校舎や道路をバシャバシャバシャバシャと断続的に叩き続ける雨音に満たされた放課後……。五階建て校舎の四階の隅にあった図書室で、先ほど書いた通り、俺は高校受験のための勉強を片手間にしながら、図書委員としての時間を過ごしていた。
とはいえ、そんな天候の放課後のことである。普段なら貸出対応17:45終了、18:00には委員もカギを返却して帰宅するはずなのだが、授業の終わった放課後16:45以降、親が車で迎えに来るのを待っているらしい数名の生徒がしばらく滞在していたのみで、その生徒たちも17時を少し過ぎた頃には、ほとんど全員がすでに退出していってしまった。
そのためいつしか、蛍光灯の明かりに白々と照らされた図書室には、図書委員である俺ともう一人、その年の春からよく入り浸るようになった、とある中3女子生徒のみの、二人きりとなっていたのだった……。
本来、図書委員は二人体制だったのだが、この日の俺の相方は雨天のため迎えに来た家族と先に帰っていた。
図書委員会の担当教員にも、「今日は無理して開け続けなくていい。利用者がいなくなったら早じまいにして帰って構わない」と事前に言われていたのだが、こんな日に共働きで忙しい両親を呼びつけるのも気が引けた俺は、傘はもちろん持っていたものの、時間経過で雨脚が少しでも落ち着くことを期待しながら、暇つぶしがてら図書室を解放していたのだが……きっと、それとは別に、若かりし日の俺は無意識に期待していたのだと思う。
……他の生徒と同じように雨宿りをしながら家族の迎えを待つため、いつもの指定席と化した図書室の片隅のテーブルに、彼女がいつも通りにいることを。
「滝川は、まだ帰らないのか?」
カウンターから図書室を見回し、他の利用生徒が完全にいなくなったことを確認した当時の俺は、制服の上から白衣を羽織ったその彼女が座るテーブルの前に立ち、そう、呼びかけていた。
図書室の背もたれ付きの木製椅子に背中を預けながら、応用心理学関係、災害心理学の物らしい本に目を落としていたその女子生徒は、理科科目の教師か科学者が着るような研究者用白衣の袖の先から掲げていた本を少し下げ、アーモンド形の三白眼から覗き上げるような目線を俺に向けると、
「キミこそ、わざわざこんな天気の日に居残ってまで、図書委員会の仕事をするほど真面目だったかい? 元副部長くん?」
ナチュラルブラウンの髪色の、軽い天然パーマらしいウェーブのかかったミディアムボブな女子生徒、『滝川リュウコ』は、俺がかつて所属していた科学部での役職名をわざわざ持ち出して、少々嫌味っぽく口角を吊り上げ、質問に質問を返してきていた。
「いやいや、この見た目通り、俺は元々真面目な方だったろ。……気象やら、地質やら、自分の興味のある自然科学方面の研究テーマばかり追求して、その割に雨が少しでも降ると屋外活動をドタキャンするような、他の部員との活動なんておざなりだった元部長さんには言われたくないね。……そんなだから新入部員が入らず、この春で廃部になったんじゃないのか? 元部長殿?」
と、俺は眼鏡の位置を直しながら、俺も俺でニヒルに笑って嫌味を言い返してやったのだった。
すると、滝川リュウコは人を食ったような悪い微笑みのまま、涼しげに、
「さてね。……それは、人の見てくればかりに注目して、大した科学的探究心のない生徒ばかり見学に集まってくるような、この学校の生徒のレベルの低さにこそ、問題があるのじゃないのかねぇ?」
と、この場にはすでに誰もいないから良いものの、実に尊大な内容を広言したものだった。
「また、そういう物言いを……いつか痛い目を見るぞ」
クラスメイトであり、元部活仲間でもある彼女のそんな発言に、俺は溜め息を吐きながらもそう言って、一応、窘めたのだった。
滝川リュウコ、彼女は確かに美人の部類だった。
先述した通り、元々の地毛の色らしい艶やかなナチュラルブラウンにウェーブのかかったミディアムボブの下にある顔は、やや丸みのあるシャープな面立ちの輪郭、柳眉に通った鼻梁、切れ長な唇といった直線的な顔のパーツが収まっていて、中学3年生という年齢の割に大人びた印象を与える顔立ちをしていた。
そしてまた、彼女の顔の中で一番、文字通り、目を引く、アーモンド形の瞳……。
単純に三白眼であったせいか、それとも、彼女自身が自分の追求する研究に没頭することで夜更かしが常態化していて寝不足気味だったせいなのかは、今となってはもう確かめようがないが……彼女の瞳はいつでも眠たそうな目つきをしているように見えて……胡乱げではあるが、どこか危なっかしくて目が離せなくなるような、不思議な魅力を持った眼をしていた。
今で言うところの、『ダウナー系理系女子』とでもいおうか……先ほどのように言わなくてもいい事実をあえて皮肉交じりに言ってしまうような、明らかにクセの強い内面をしているのだが、でも同時にその危なっかしさから、つい世話を焼いてやりたくなってしまうような……彼女はそんな不思議な魅力をもった理系美少女であった。
だから、彼女の「人の見てくればかりを~」の発言も、まったくの大言壮語として切り捨てきれないのがなんとも……当時の俺としても思わず苦笑いを浮かべてしまうような事実だった。
「まぁ、廃部の件はもう過ぎてしまったことだしな。それはもういいけどさ──」
俺は背後の、誰もいなくなって空席のみとなった図書室内を少々大げさに腕を回して滝川に示しながら、
「この通り、お前以外の生徒は家族の迎えが来たらしく帰ったわけだが……滝川はまだ家族の迎えは呼んでないのか? 利用者がいなくなれば、今日は早じまいしていいと言われてるんだがな」
と、彼女に最初に訊ねた内容を改めて、問い直していた。
「母さんに迎えを頼む電話はすでにしてある。けれど……残念ながら到着したという連絡は、電話もメールもまだ届いていないねぇ」
滝川リュウコは、徐に傍らの学生鞄から彼女の私物らしい携帯電話を取り出すと、画面を確認しながら、そう言った。
「おいおい、携帯の持ち込みは校則違反だぞ。教員に見つかったらどうする」
滝川は俺の目の前で平然と携帯電話を鞄から取り出して見せたが、俺たちが学生だった当時はまだ携帯電話を親から与えられて持っている学生は少数で、授業の妨害やいじめに繋がることがあるとして持ち込みを禁止している学校も多かった。
そのため、俺は一応、窘めたのだが、
「普段は電源を切って、放課後もマナーモードにしているし、そもそも今、ここにはキミと私しか居ないのだから、そう固いことを言わなくてもいいじゃないか、名和副部長くん。なんだかんだで、今でもこうして教室外でも顔を突き合わせる間柄なのだから……キミと私の間なら、無礼講だよ無礼講」
などと、ニヒルな微笑で言いながら、彼女は取り出した携帯電話、今でいう『ガラケー』の携帯メールをパカっと開き、ポチポチポチポチと新規メールの送受信をチェックする操作をしたようだったが、やはり、彼女の母親からの到着を知らせる新着メールの受信はなかったらしい。
「……ふぅん」
溜め息らしい息を一つ吐くと、彼女は携帯を白衣のポケットの中へとしまった。
「滝川の家、確か、家族はお母さんだけだったよな?」
今思えばかなり不躾な言い方をしてしまっていたが、彼女が母子家庭であることはそれ以前に聞いていたので、俺としては普通の確認事項として訊ねていた。
「ん、まぁ、そうだねぇ。もしかしたら、仕事を抜けたくても抜けられないのかもしれないね。……この大雨だから」
と、滝川は、時折強風と共に窓ガラスを叩く雨粒とその雨を降らせているぶ厚い雲のために、夕暮れ時とはいえさらに灰色に薄暗くなってきた窓の外へと気だるげな視線を向けて、そう言っていた。
「それなら、俺が家まで送ろうか? いよいよ歩きで帰るってなったら、この暗さで女子一人きりだと心配だろう?」
と、俺は申し出ていた。
それは、俺としてはけっして他意はない申し出のつもりだった。
いや、当時の俺にとっては親交のある数少ない女子であった滝川リュウコに対して、多少なりとも思うところがなかったかというと、それはやはり嘘になってしまうのだろうが……。
しかし、それは他ならぬ滝川リュウコ自身に、
「……もしかして、これを好機に、クラスメイトの女子である私の家を探ろとしてるんじゃあないだろうねぇ、キミ?」
と、指摘されてしまったわけだが。
「なっ、違うわ! 俺みたいな真面目くんが、そんなストーカーみたいなことするわけないだろ! ……近くまで見送ったら、もとよりそこまでで帰るつもりだ」
当時、2000年代は『ストーカー』という、いわゆる付きまといの迷惑行為がテレビなどでも取り沙汰され、認知が広がりだした時代でもあった。
それだけに、今でいうところの『オタク君』的な容姿に近かった俺としては、ストーカーなどという不名誉なレッテル張りには特に敏感に反発せざるを得なかったのだった。
「ふふん……まぁまぁ、そんなに声を荒げないでくれたまえ。キミのような眼鏡の真面目くんであっても、私のように距離感の近い女子が傍にいれば、つい意識してしまうのも、思春期真っ只中の男子としては仕方のないことだろうさ。しかも、私は頭脳明晰かつ美少女だからねぇ。周辺情報を知りたいと思うのも無理はない……犯罪や迷惑行為をしないよう十分線引きしてくれれば、友人として、多少のことには目を瞑るのも吝かではないが──」
その時、俺は滝川リュウコの言葉を遮るようにして、
「おい、マジでやめろ。そんなんじゃねぇ。……ストーカー扱いすんな」
と、短く、ガチトーンで言ったのだった。
そのおかげか、
「あ、あぁ、わかった、わかったから、そんなに怖い顔で睨まないでくれたまえよ……」
と、滝川も俺に対するそれ以上のストーカーイジリを中断したのだった。
「まぁ、しかしだね。せっかくの見送りの申し出だが、やはり結構だよ。……私は、雨に濡れたくないんだ。一滴たりとも、ね」
俺に対するイジリを中断した滝川リュウコは、最初、取り繕うようにニヤケていたが、途中から一転して案外に真面目なトーンで俺からの見送りの申し出を断ってきた。
「雨に濡れたくない……ね。そういえば、前にもそんなことを言ってたか。……自然科学に興味があるらしい割には、なんか妙に水に濡れるのを嫌がるよな、お前。……あれか? せっかくセットした髪が濡れるのが嫌とかそういう、女の子由来のやつか?」
と、先ほどのイジリの意趣返し……というほどでもないが、俺は肩を竦め、冗談めかしながら訊ねていた。
当時の彼女は傍から見ているだけだった俺から見ても、普段から理系女子を通り行き過ぎて、むしろ、偏屈な干物女に片足を突っ込みかけている様子だった。
そのせいもあってか、今でいう『女子力』的に他の普通の同級生女子たちから浮いていたきらいがあり、その上、先ほどまでの俺と彼女の応酬からも察せられるように、この滝川リュウコという女子は、歯に衣着せぬ言動をしがちでもあった。
思春期真っ只中の中学女子たちの中で、そんな協調性に難ありな性格でありながら、彼女自身が言ってのけた通り、実際に理系知識に造詣のある頭脳明晰な美少女であったのもまた、同級生の女子たちから余計に浮いてしまう原因になっていたのかもしれないと、今振り返っても思うところだった。
さて、そんな彼女である。
やはり、俺の意趣返しに対しては、
「この私に他の普通の女子生徒たちのように、やれどこの化粧品がいい、あそこのスキンケア商品がいいだとか、やれ服はあのブランドがいいだの、髪はストレートパーマーをかけた方がいいだのなんだのと……確か、女子力とか言ったかね? そんなもの、期待されても困るよ。……やはり男としてはキミもそういった、男の前になると女子同士で会話する時よりも声のトーンが上がるような、女子らしい女の方が好ましいのかもしれないが……ご期待に沿えず申し訳ないねぇ。私はこの通り、ああいうのは性に合わないのでね。大体、テレビCMで流行ったからといって、なんでスキンケアのための洗顔フォームのpHが中性であることにこだわるんだろうねぇ? 顔の汚れや皮脂を落とすための洗顔料なのだから、性質からいって弱アルカリ性である方が自然であり、効果的であるはずじゃないか。そもそも敏感肌だというのなら、毎日の洗顔に毎回洗顔料を使う方が肌に対してダメージになるのではないかと思うんだがねぇ……。もっと言えば、現在の一般家庭の水道水は規定量の塩素剤で消毒されているのだから、寝起きの顔の汚れを洗い流す程度なら水道水のみで必要十分なはずだろう? …………まったく、だから、私にはまったく合理的に思えないというんだよ。彼女たちのような、理屈よりもお気持ち優先の女子という生き物は……」
などと、その場に俺以外誰もいないのをいいことに、理屈は正しいにしてもさすがに言い過ぎな気のする発言を、憮然とした表情で自らの襟足を撫で付けながら、滝川は言い放ったのだった。
「さ、さようで……」
俺はその、特定のクラスメイトの誰かに対する若干の私怨がこもっているらしい様子の滝川の発言に具体的なことは何とも言い難く、この時はそのような中身のない返事を返すのみに留めたように記憶している。
そもそもこの後、俺と彼女二人の身に起こる、二十年以上経った今振り返ってもまったく信じがたい、あの一連の事件のことを思えば、この時点での出来事など全くの些事に過ぎないことだった。
それでもこうして、当時の彼女とのやり取りを思い出しながら出来るだけ子細に書き出している理由といえば、やはり俺の記憶の中に残っている彼女の人となりを出来る限り忘れてしまわないようにするために、思い出を残したかったというのもあるのかもしれない。
まぁ、ともかく……あの日の俺たちは、やかましいほどの大雨と夕暮れのために陰鬱なくらいに灰色になり続けている窓の外の景色を忘れようとするかのように、ここまで書き綴ったような他愛のない会話を続けていたのだった。
だが、そんな会話の応酬の末、俺は、彼女の水嫌いの理由に思いがけず触れることになってしまった。
もしかしたらその、滝川リュウコが抱えていた過去のトラウマの話を、この時それを聞いてしまったからこそ、それがこの後に起こる事件の呼び水となってしまったのかもしれないと……論理的とは言い難いのだろうが、この日のことを振り返る度に、今でも俺にはそう思えてしまっているのだった……。
「滝川、お前のその、科学的根拠や行動の合理性の追求に対する真摯な姿勢のことはよくわかった……それは十分によくわかったし、お前が他の女子生徒たちよりも頭脳明晰で優秀なことも十分よくわかってるよ。……だけどな、それならまたどうして、お前自身はそんなに水嫌いなんだ? ……確か、今日みたいな大雨でもない普通程度の雨の日でも、お前は家族の迎えを呼んでいたよな? しかもその上、三年になる今まで結局、プールの授業は全部休んでたみたいじゃないか。……なんというか……そうまでして濡れたくない事情というか……その行動の理由には、何か科学的根拠や合理性があるっていうのか?」
今思えば、これもまた実に不躾な質問だった。
しかし、当時の俺は、あの飄々とした皮肉屋の滝川リュウコと、こうして笑いあいながらお互いをイジリあうことができるからこそ、お互いを気の置けない友人だと思っていた節があったのだと思っている。
だから、この質問の直後、
「…………ふぅん」
言葉を噤むように、いつもの吐息を吐くと、彼女は徐に掛けていた椅子から立ち上がり、図書室のベランダに面した窓際へ体を向けて、雨の降り続ける外の景色を睨むように険しい表情で黙ってしまった時には、さすがに何か触れてはいけないことに触れてしまったのかと、俺は少しばかり内心で後悔していた。
だがそうして、俺と滝川の二人きりになった図書室に、校舎を打ち続ける雨音だけの時間がしばらく流れた後、
「……まぁ、キミなら、面白半分に他人に言いふらすようなことはしないでくれるだろうかねぇ」
と、おそらくそういうようなことを、俺に背を向け、窓の前で如何にも黄昏る研究者のように白衣の両腕を後ろ手に組んだまま、独り言のように呟いたらしかった。
そうして、
「私はね……昔、見てしまったんだよ……」
やはり呟くような、激しい雨の音に今にもかき消されてしまいそうな声で、彼女は言った。
「……なにを?」
俺は、彼女の言葉の続きを促すように訊ねていた。
すると彼女、滝川リュウコはどことなく険しい表情で見つめていたらしい窓の外の光景──吹き付けた雨水がドレンや管を伝ってさらに階下へと流れ落ちていく……大雨が降っている今の間だけ、ベランダの中に生まれた、小さな川のような光景──から、視線を外すようにゆっくりと振り返ると、
「水に、人が殺されるところを……さ」
と、端的に言い放ったのだった。
すでに結末まで書き上げてありますので、順次投稿していきます。
最後までお付き合いよろしくお願いいたします。