番外編『温泉旅館とカニのお話』7
その頃、桜子は夏清と一緒に大楠の周りを回っていた。
樹齢二千年以上の大楠は、高さ約26m、幹の周囲長は約23.9m。一周するのに35、6歩は歩くことになる、立派な木だ。
夏清は絵馬を二人分買ってきて、「これに家名を書き、胸に抱えて歩くんだ」と教えてくれた。
「家名を書くことで、自分が捧げた霊力がその家のものとして扱われるのですか?」
「そういうことだ。なお、ひとつの家につき、一度しか霊力を受付されない。過去には妹が勝手に霊力を先に注いだせいで兄当主が霊力を注げなかった事例もあるらしい」
「その場合って、兄妹が同時に儀式をしていたら二人分の霊力がその家のものとして受け入れられたのでしょうか?」
夏清が頷くので、桜子は首をかしげた。
この仕組みだと、ひとりで大楠の周囲を回る人と集団で大楠の周囲を回る人たちが同じ土俵で競うことになる。
当然、人数が多い方が有利だろう。
単に危険なあやかしの封印を強化する目的として考えるなら気にならないが、力比べをして当主や家門の将来の隆盛に影響が出るなら。
「もしかして、高名な家門って一族総出でぞろぞろと大楠の周りを回ったりします……?」
「昔はそういう家もあったと聞く。が、現代は霊力を注げるだけの人材も少ないからな……」
絵馬置き場を覗くと、儀式を済ませたらしき「家名のみ」の絵馬が何個も下がっていた。
桜子は絵馬にこっそりと「東海林」と書き、文字が見えないよう隠して胸に抱いた。
木漏れ日に照らされた足元は、光と影のモザイク模様に彩られている。
二人分の影をその上で踊らせながらグルリと一周すると、歩いた距離はさほどではないのに不思議な疲労感が残っている。霊力を消耗したのだろう。
前を歩いていた夏清は大きく消耗した様子で袖で汗を拭った。
「ふう。おつかれ桜子ちゃん。あっちの長椅子で休んでから帰ろうか」
「大丈夫ですか、夏清さん? なんだかふらふらなさってますが……」
「桜子ちゃんは霊力が多いんだな。オレはしんどかったぞ」
夏清は悔しそうに言いながら境内の端にある小さな茶店と白木の長椅子を示した。
ラムネのビー玉瓶を買い、しゅわりとした炭酸と瓶とビー玉の煌めきを楽しんでいると、夏清は封印の由来や仕組みについて教えてくれた。
「ここで集めた霊力は、海に行く」
夏清は東にある相模灘の方角を見た。
「昔、この地域は『あつうみが崎』と呼ばれ、海中に沸く熱湯によって魚が焼け死に、漁師が甚大な被害を被っていた。そこで万巻上人という聖僧が祈願によって泉脈を海中から山里へ移した……と伝承されている」
「それは温泉の由来としても言い伝えされていることですね、夏清さん」
「移した後、万巻上人は社を建てて拝むようにと勧めた。ここで拝み、大楠に霊力を注ぐと、海の封印にその霊力が転送される仕組みになっているんだ」
くいっとビー玉瓶をあおり、口元を拭ってから、夏清は海の方角を指さした。
「明日の夜には結果も出るだろう。海辺に置かれた岩に家名が出るんだ。他の家の者も集まるだろうから、肩身が狭い家同士でつるんで見に行くか」
桜子はその言葉に少し返事を躊躇した。
夜に宿を抜け出して知り合ったばかりの男性と海に行くのは抵抗感が強い。
(儀式自体はもう終わって、あとは結果を見るだけ? それなら、お断りしようかな)
そう思って口を開いた瞬間に、京也の声がした。
「すまないが、そろそろ俺の妻を返してもらおうか?」
間近に聞こえた声にびっくりして顔を上げると、 間近に聞こえた声にびっくりして顔を上げると、桜子の目の前に京也が立っていた。
風に揺れる着物の裾、きっちり整えられた襟元。長旅の疲れなど微塵も感じさせないその姿に、桜子は思わず言葉を失った。
「すまないが、そろそろ俺の妻を返してもらおうか?」
次の瞬間、彼はするりと桜子の腰に手を回し、ひょいと抱き上げた。
――お姫様抱っこだ。
「きょ、京也様!? ちょ、ちょっと……!」
間近で見る京也は、黒髪が風に揺れ、涼やかな目元の奥に鋭い光を宿している。
わずかに乱れた着物の合わせから覗く鎖骨と低く通る声には色香があり、桜子は自分の心臓の音が聞こえてしまわないかと心配してしまった。
「陰陽師君。儀式ご苦労。用事が終わったのだから、もう妻と話す必要はないであろう」
涼しい声でそう言い放つと、京也はくるりと踵を返し、驚く夏清を背にそのまま歩き出す。
「これ以上は桜子さんが減るので遠慮してくれたまえ」――などと、よくわからない理屈を添えて。
「まあ。修羅場よ、修羅場」
「美男美女ねえ」
境内にいた婦人方が黄色い声を上げている。
チラリと視線を向けると、宿で同情してくれた三人組だった。
偶然、神社に来て、この「修羅場」を目撃してしまったようだ。
「それでは失礼! 夫婦の時間は貴重なのだ。俺は一秒も他の男にまざってほしくない」
「きょうやさま、おこころがせま~い」
もみじが愛らしい声で笑っている。
「ばいばい、こすずさん、なつきさん」
「クウ!」
管狐が尻尾を振って鳴く隣で、飼い主の夏清は数秒固まっていた。
「あの、夏清さん。そういうことなので、すみませんが失礼します。本日はありがとうございました」
桜子が挨拶すると、ハッとした顔で頷いてボソリと言う。
「人妻だったのか」
耳敏い京也が「人妻とは良い響きだ。君にとっては他人の妻という意味なのでくれぐれも心得てくれたまえ」と言葉を返し、歩きだす。
京也は人をひとり抱き上げていることを感じさせない軽やかな足取りで神社を後にして、鳥居の前で器用にお辞儀した。
つられて頭をヒョコンと下げてから、桜子は思い出したように囁いた。
「あの……降ろしてください。自分で歩けますので……」
「おや。妻を抱っこして運ぶ至福の時間は終わりかな?」
京也はすぐに立ち止まり、穏やかに微笑んで桜子を下ろした。
桜子は顔を真っ赤にしたまま裾を整え、そっと息をつく。
自然な仕草で手を差し出されて繋ぐと、嬉しそうに揺らされる。
「さあさあ桜子さん。宿に戻ろう。俺と一緒に」
「はい、京也様」
そのまま二人は温泉街をのんびりと歩き、宿へと向かった。
夕暮れの温泉街は湯けむりとガス灯の光に包まれている。
石畳を歩く下駄の音が、どこか懐かしく響いていた。
「……俺が浮気しているか心配したかい?」
不意に京也が口を開いた。桜子は目を瞬く。
「実は仕事仲間が女性でね。誤解されたかもしれないな」
「心配はしていませんでした」
「そうか、嫉妬してくれたか」
「いえ……?」
京也は幸せな夢を見ているような顔になっている。
「俺のせいで君の心を傷付けてしまって、俺はなんという駄目な亭主なのだろうね。なにせ俺という男は、妻に嫉妬されて嬉しく思ってしまっているんだから……そう、妻に!」
「は……はい?」
「妻なのだ。そうだね」
「は、はい、妻ですね」
後ろでこそこそ尾行するうしまると犬彦は呆れ顔だ。
「嫉妬してないと申しましたのに!」
「京也様はご自分の思い込みが全てなので……」
後方に従者たちがいると露ほども思わず、桜子は「この会話は他の男性と一緒にいたことを咎められているのかしら」と首をかしげるのだった。




