番外編『温泉旅館とカニのお話』4
ほかほかとした白い湯気が満ちている。
洗い場で体を洗い、入浴用タオルを畳んで頭に載せる。もみじはタオルの上を自分の居場所と決めた様子で、ひらりと飛んでタオルに乗った。
足先から順に湯に浸たしていくと、最初は熱さに抵抗感を覚えるくらいなのに、数秒経つと慣れてくる。
自分が沈んだ分だけ溢れるお湯が贅沢だ。
軽い浮遊感があり、全身にお湯の揺らめきを感じる。
「ふう……」
列車と馬車の旅で知らず強張っていた全身がほぐれていく。
目を閉じて両手両足を伸ばして軽く動かすと、その動きでお湯の動きが生み出され、浮遊感や波に揺られている感覚が強くなる。
――楽しい。
桜子がゆったりと入浴を楽しんでいると、もみじがキャッキャッと笑って飛び立った。
「もみじ、ふやけちゃう! おそといきたい!」
もみじは紅葉の姿をした式神だ。
桜子はふとその姿を見て、「湿気があまり得意じゃなかったりするのかしら」と首をかしげた。
「気が付かなくてごめんなさい、もみじちゃん。大丈夫?」
「うふふ。もみじ、げんき!」
笑いながら飛び回る姿は元気そうだ。
大丈夫らしい。
桜子はほっとして立ち上がり、露天風呂に続く戸を開けた。
――開けた瞬間、涼しい秋風が駆け抜ける。
熱が篭っていた内湯との温度差に、新鮮な気分でいっぱいになった。
露天風呂は紅葉を鑑賞しながら浸かれる、いわゆる石庭露天風呂だ。
水風呂の近くに置かれていた桶で冷たい水をすくい、体に軽くかけてから、冷えきる前にお湯に浸かる。
肩まで沈んだ体が熱いお湯に包まれて、一度冷えかけたのもあって、じんわりとした熱が気持ちいい。
「解放感がすごい……!」
「あるじさま、たのしそう!」
「うん、うん。すごく」
視線の高さで、湯が風に遊ばれて白い湯気がふわふわと風に流され、たなびいている。
湯の表面も風に遊ばれ、小さなさざなみを立てつつ、陽射しを反射してきららかだ。
上を見れば青空が広がっていて、太陽が眩しい。
ざあっと風が吹いて視線を落とすと、木々が枝を散らし、紅や黄色の葉が一斉にぱらぱらと舞う光景がなんとも美しい。
もみじが楽しそうに落ち葉にまざって風の中を踊っている。
微笑ましく見守っていると、もみじは地面すれすれまで降りてから桜子を呼んだ。
「あるじさま、みてみて」
「うん……?」
視線を向けると、地面に落ち葉でハート形を作り、真ん中でふんぞり返っている。
「もみじちゃん、すごい。可愛い……!」
「うふふ! りきさく!」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
温泉から上がった桜子は、脱衣所で再び浴衣を纏い、湯上りどころで寛ごうとした。
その瞬間。
「きゅうう!」
「えっ?」
聞き覚えのある可愛い鳴き声がして、何かが足にぶつかってきた。
「きつねさん! だめよー、あるじさま、ごはんじゃないのよー!」
もみじがぷりぷりと怒りながらつっついているのは、宿に向かう馬車で見かけた管狐だった。
浴衣の裾をはむっと噛んだり、小さな前足で引っ張ったりしている仕草は、どこか必死な印象だ。
「きゅ! きゅう!」
「ど……どうしたの……?」
首をかしげると、管狐はトテトテと走り出し、一度止まって振り返る。
まるで、付いてきてほしいみたい。
「もみじちゃん、あの狐さん、ついてきてほしいみたい?」
「そうかも!」
不思議に思いながら導かれるまま渡り廊下へ出ると、管狐はひょこりと庭に降りていく。
そして、急かすように鳴く……。
「わかったわ。そんなに急かさないで」
庭に降りると、管狐は紅葉が散り敷かれている庭園を駆けていく。
その先に、目的の場所があった。
「……え?」
ぎくりと心臓が跳ねる。
なんと、立派な木の根元、紅葉の絨毯の上に、管狐の飼い主の青年が倒れていた。
「だ、大丈夫ですかっ?」
桜子は慌てて近寄った。
『温泉旅館で連続殺人事件が起きるやつ』――宿泊客の言葉が一瞬、脳裏をよぎる。
けれど、助け起こしてみると青年には息があった。
呼吸は弱く、体温が低い。顔色は蝋のように白い。管狐が心配そうにしている。
(飼い主さんを助けたかったんだ……!)
桜子は慌てて青年に治癒術を施した。
面差しが父に似ているので、どこか「父を助けている」みたいな気分になる。
――幼かった自分は、何もできなかった。
けれど、今の自分は違う。
治癒の光は温かく青年を包み込み、少しずつその顔色が血色をよくしていく。
「う……、この、術は……?」
唇から吐息を零し、青年は目を開けた。
管狐が嬉しそうに「クウ!」と鳴いて頬ずりをするのが可愛らしい。
おそらく、もう大丈夫だ。
桜子は治癒を終え、そっと問いかけた。
「……ご気分は、いかがですか?」
「……あなたは? 陰陽寮の同僚か……? 初めて見る顔だが……助けてくれたようだな。感謝する……」
陰陽寮の同僚とはなんだろう。
桜子は疑問を覚えつつ、管狐を示した。飼い主思いの狐さんの功績を知ってもらわねば、と思ったので。
「ええと……私は宿泊客です。そちらの狐さんが助けを呼んでいまして……とても良い子ですね」
事情を説明すると、青年は管狐を見て、柔らかに微笑む。
「小鈴。お前が助けを呼んでくれたのか。ありがとう」
優しい声に、管狐は嬉しそうに尻尾を揺らして喉を鳴らした。
「あるじさま、ひとだすけ!」
「ふふっ、よかったわ」
もみじがキャッキャと笑うと、青年は一瞬目を瞠る。
「そちらの式神か」
「式神……そうですね。もみじちゃんは、私の大切なお友だちです」
「そうか。オレも、小鈴のことは大切な友だちだと思っている。あなたとは気が合いそうだ――ああ、そろそろ時間だな。あなたのおかげで遅刻せずに済みそうだ」
青年は予定がある様子で立ち上がり、桜子に笑いかけた。
「オレは東海林夏清だ。せっかくだし、共に儀式に向かおうか」
「え? 東海林さん? 儀式?」
桜子は目を丸くした。家名が自分の旧姓と同じなのは偶然だろうか。
父に似ているだけに、実は親類なのでは?
それに、儀式とはなんだろう?
夏清はそんな困惑を別の意味に解釈したようだった。
「ああ……オレは評判が悪いから、嫌かな」
悲しそうな、どこか仄暗い目をする青年は、父に似ているだけに桜子を焦らせた。
「そ、そんなことはないです! 私は東海林さんの評判などは、存じません。ただ、個人的に縁のある苗字で……」
「そうなのか?」
救いを得たように表情を明るくする夏清に、桜子はコクコクと頷いた。
「私は、春告桜子、と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
少し迷ってから結婚してから名乗っている名前を口にすると、夏清は「春告家というのは、聞いたことがないな。新興の家か」と少し嬉しそうに呟いた。
「伝統のある家柄の方々はどうしても付き合いにくいところがあるから、安心した。どうしても家の歴史や血筋を重視する界隈だからお互い肩身が狭い立場だよな……オレも名門の血筋ではあるのだが分家筋だし、両親が宗家のお嬢さんを助けなかったから印象が最悪なんだ」
「分家筋。宗家のお嬢さん……」
桜子はどきどきしてきた。
「ああ。桜子様だよ。そういえば、あんたは名前が同じだな」
それは私のことなのでは?
このお兄様は私の親戚なのでは?
桜子は奇妙な縁に驚きつつ、ふと列車で見た夢を思い出した。
――あの夢に出てきた青年は、この人ではないだろうか……?




