番外編『温泉旅館とカニのお話』3
仲居に案内されて歩く館内は掃除が行き届いていて落ち着く雰囲気だ。
応接セットが並ぶ広間の脇を通ると、壁一面が庭を眺められる窓になっていて、女性宿泊客が三人、楽しそうに雑談している。
「陰陽師なんてインチキばかりじゃない? あやかしみたいな術が使える人間なんて、そうそういないわよ」
「そうよねえ。昔はいたらしいけど今は詐欺師ばかり」
「あ、それより! 私この前読んだ小説の最新刊、面白かったの。温泉旅館で連続殺人事件が起きるやつ……あらっ、やだ、すごい美男美女がいるわ」
三人組の注目の視線を当然のように受け止めて、京也が堂々と口を開く。
「ふっ。俺たちは単なる美男美女ではない。新・婚・夫・婦なのである。桜子さんは綺麗だろう? だが、油断してはなりませんご婦人方。俺の妻は心も美しい!」
自信満々に言い切った京也に三人組はぽかんとした顔になった。
桜子は一瞬で顔が熱くなり、京也の浴衣の袖をぎゅっと握った。
「京也様……! 皆さんがびっくりなさってます……!」
「ははは、すまない。俺は惚気たくて仕方ないのだ。新・婚・夫・婦だからな」
案内された部屋は、広々とした和室だった。
二間続きで、広縁も付いている。
荷物を置くと、京也は桜子の頭を優しく撫でた。
「少し仕事があって外出するが、夕餉には必ず戻るよ。桜子さんはもみじと一緒にのんびりと好きなように過ごしておくれ」
「はい。いってらっしゃいませ」
忙しそうな背中が障子の向こうに消えるまで見送った桜子は、荷物を軽く整理してから浴衣に着替えてみた。
「あるじさま、にあう!」
「もみじちゃんありがとう。夕食までまだ時間があるし、館内を見て回ろうか?」
「あいっ」
もみじは元気いっぱい、くるくると周囲を飛び回ってから桜子の肩に乗った。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
売店には、鮮やかな根付やお菓子がずらりと並んでいる。
中田夫妻に。キヨに。犬彦に、ウサ子に、うしまるに。
このお店にしかない品々を見て、考えながらお土産を選ぶのは楽しい。
お土産選びに熱中していると、もみじがあどけない声で問いかける。
「おんせんは、はいらないの?」
「あっ、そうね。温泉も見てみましょうか」
温泉旅館と言えば、やはり温泉だ。
桜子は館内案内を頼りに浴場へ向かった。
湯上り所にはくつろいでいる宿泊客が数人いた。
入浴者用の浴用タオルとバスタオル置き場があるので、それを持って赤い暖簾の下をくぐる。
脱衣所に入ると、入れ違いで浴場から戻ってきて浴衣に着替える婦人たちの楽しそうな声が耳に届いた。
「誰もいない籠に話しかけてる男の人がいたのよ。最近多いみたい」
「変な人多いわよねえ。さっきのご夫婦の若旦那さんも、見た目はすごく格好いいのに」
「あの人、綺麗な奥さんを溺愛する振りして、部屋に入れて、すぐに別の女と外へ出てったの。奥さん、可哀想にねえ……あら!」
(あ……あれ? なんだか……)
気付けば婦人たちの視線が、自分に。
「あら、若奥さん……やぁだ、もしかして聞こえちゃった……?」
「新婚なのに浮気だなんてお可哀想に」
「こんなに綺麗なお嫁さんなのに、ひどいわねえ。男ってや~ね~」
(なんだか浮気されたことになっていて、すごく……同情されてる……!)
「私たちは味方よ。そうだ、これをあげるわ」
ひとりが荷物を漁って飴をくれる。
すると、他の婦人も「これもどうぞ」「私もあげるわ」と荷物から贈り物を選んでくれた。
懐紙、香り袋、みかん……次々押し込まれるものを受け取り、お礼を言いながら、桜子は思った。
(私、浮気されてるの?)
京也のことだ。たぶん違うだろう。
桜子は苦笑しつつ頭を下げた。すると、長い髪をまとめて結ぼうとしていたもみじが「やーん」と声を上げる。
「まあ! 紅葉がしゃべったわ!」
「あら可愛い」
「ちいさい子みたいねえ。……あやかしなの……?」
婦人方は興奮気味にもみじを見て、恐る恐る指でつついたりしている。
「きょうやさまは、うわきできないのよー!」
もみじは人懐こく愛嬌を振りまきつつ、京也を弁護した。
「あら~~! きょうやさまというのは、若旦那さんのことかしら~!」
婦人たちはその愛らしさに相好を崩し、「そうなの?」「そっかー」と笑って頷き、やがて満足顔で脱衣所から引き上げていった。
「きょうやさま、おしごとしてるのよ」
「ええ、そうね、もみじちゃん。私は疑っていないわ」
くすくすと笑いながら入浴の準備を終えて、横にスライドさせる戸を開けて浴場に進む。
戸を一枚分隔てたそこは、空気がむわりと蒸していて、さああ、と湯の流れる音が籠っている。
洗い場と広い浴槽を見た感じ、他に人がいない。
……貸し切り状態だ。




