番外編『温泉旅館とカニのお話』2
「木枯らし亭にお泊りにお客様、いらっしゃいませ」
駅を出ると、送迎馬車が待っていた。
京也と一緒に幌付きの馬車に乗り込んだ桜子は、先に乗車していた宿泊客らしき青年を見て目を瞬かせた。
(お父様に似てる……?)
列車の中で見た夢に引きずられているのだろうか。
落ち着いた灰色の着物にえんじ色の袴を合わせた青年は、どことなく父親に面差しが似ているように思われた。
「桜子さん? どうかしたかい」
「あ、いえ。なんでもありません」
京也に視線を遮られて、ハッとして視線を逸らす。
見ず知らずの同乗者をじろじろと見つめてしまうのはよくない。
「出発しまあす!」
馬車の御者の知らせに続いて、馬車が動き出す。
綺麗に整えられた尻尾をゆったりと揺らしながら、馬がぱかぱかと馬車を引く。
左右に見える景色は、何もかもが新鮮だ。
旅館の看板が並んでいて、手拭いや湯桶を持った人間やあやかしがのんびりと歩いている。
「温泉たまご〜、できたてだよ! ほかほかのうちにどうぞ〜!」
番傘を立てた屋台の主人が通行人に明るく呼びかけていて、いい雰囲気だ。
「ああ、あの籠か。管狐が入っているね。桜子さんは気配に敏いのだな」
京也が小声で感心しているので見てみると、同乗者の青年は確かに籠を持っていて、中に白くて小さな管狐がいる。
狐と目が合うと、尻尾を揺らして高い声で鳴いた。
「きゅあう」
……可愛い。
「こら、小鈴。静かにしないか」
「きゅぅ」
籠の持ち主である青年が視線を落とし、窘めている。
当たり前だが、声を聞くとはっきりと「父親とは別人だ」とわかる。
小鈴と呼ばれた管狐は素直に言うことを聞く様子で丸くなり、目を瞑った。
「管狐が愛玩動物とは珍しいな。俺も犬彦に首輪をつけて連れ歩いてみようか」
「それはちょっと……。でも、お土産を買って帰りましょうね」
「お土産はたくさん買おう」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
京也と桜子を乗せた馬車が温泉街を進む中、その後方をこっそりと付いて行く人力車では、二人を隠密で警護する従者たちが不満を垂らしていた。
「僕に首輪をつけて連れ歩くとかおっしゃっていますよ。京也様は僕をなんだと思っていらっしゃるのでしょうか」
狐耳をぴこぴこと揺らし、人力車の座席に収まってぷくりと頬を膨らませる天水犬彦。
その人力車を軽々と引くうしまるは、さらりとした白い前髪に隠された目元をニコニコさせている。
「あの陰陽師が連れている管狐が見えるとは、さすが奥様! 目がよろしいのですな」
「うしまる、僕の話を全く聞いていませんね? むう……」
馬車を追いかけ、人力車が緩やかに角を曲がる。そこで、犬彦は鼻をひくひくとさせて空気の匂いを嗅いだ。
「おや、海底の封印穴から這いずり出てきたいけない火蟹さんがいらっしゃる……」
妖狐の嗅覚には、磯の香りを膨大な年月をかけて何十倍にも濃縮したような異臭が感じられる。
生臭いそれは、普通の人間の目には見えない赤黒い影の姿をしていて、馬車の車輪に絡みつこうとしていた。
「焼いて食べてしまいましょう」
犬彦は瞬きほどの自然さで指先をすっと滑らせる。すると。
──ぼっ。
指先に小さな狐火が生まれ、カニを包み込む。
うしまるが耳元で感心したように囁く。
「おお、お疲れ様ですな!」
「京也様は色ボケなさっていますし、あの陰陽師が近くにいる手前、こちらも軽々しく動けません。お忍びを貫くには……僕がしっかり守らないと」
犬彦はきゅっと膝の上で拳を握る。
耳はぴんっと立ち上がり、瞳にはやる気が漲っていた。
「京也様はともかく、桜子様に怖い思いはさせません」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
やがて、馬車はゆっくりと停まった。
従者が後ろで守護しているとは知らない桜子は、旅館を眺めて感嘆の吐息をついた。
細い石畳の坂を上がった先に建つ堂々たる旅館は、名を『木枯らし亭』という。
木製の大門は重厚で、切妻造りの屋根には鈍く光る銅板の軒が連なっている。
軒下には大きな家紋がさりげなく誂えられており、落ち着いた雰囲気のある旅館だ。
(わあ……なんて素敵な……)
初めて目にする温泉宿の景観に見惚れていると、仲居が深くお辞儀をして歓迎の言葉をかけてくれる。
「長旅、お疲れでございます。ようこそお越しくださいました」
ほんわかとした温かみのある笑顔に、桜子はキヨや中田夫妻を思い出した。
お世話になった方々へのお土産を忘れないようにしよう、と思っていると、京也が小声で囁く。
「気に入ったかい? ここは料理も温泉も天下一品だと聞いている。ゆったり楽しもう」
「……はい。とても、楽しみです」
仲居の案内に従い、桜子は京也と肩を並べて宿の中へと足を進めた。




