植物図鑑(2)
「この図鑑は、とてもわかりやすいです。王都にはこんなに素晴らしい本があるんですね」
「……んー、どうかな。そんなにはないかもしれない」
トゥル様が微妙に言葉を濁した。
どうしたのだろうと顔を上げたけれど、きれいな顔はいつも通りに微笑んでいた。
「実は、この図鑑は植物編が他に何巻かあるんだ。動物編もあるよ」
「そんなに!」
見てみたい。
そう思ったのが顔に出てしまったようだ。トゥル様はまた困ったような顔をした。
「ごめんね。他の本は王都にあるんだよ。一応、彩色していない写本はあるけどね。これはとてもいい本だから、写本をたくさん作っている最中なんだ。この樹木編は一番古い本だから、一通り写本が済んだということで原本を持ってきている」
申し訳なさそうにそう言ったけれど、私はそんなに落胆はしなかった。
彩色していない状態でも、きっと美しくて素晴らしい本だろうから。
そのうち、トゥル様に見せてもらおう。きっと私が知らないものがたくさん載っているはずだ。
もう一度、美しい絵を眺めてから、私は用心深く図鑑をお返しした。
つい話が長くなってしまったけれど、そろそろ本来の目的を思い出すべき時間だ。私はそっと立ち上がった。
「トゥル様。お楽しみのところ申し訳ありませんが、そろそろ食事に行きませんか?」
食堂ではメイドたちが気を揉みながら待っているはず。
私を見上げたトゥル様は、とても柔らかく微笑んだ。
「そうだね。待たせてしまって申し訳なかった。君も、呼びにきてくれてありがとう」
「夫に気を遣うのは、妻の役割です」
「君は優しいね。では、私も殊勝な夫であることを心がけよう」
トゥル様は緩やかに立ち上がった。ただ立ち上がっただけなのに、なんとも優雅な動きだ。頭が近くにあった時に感じた甘い香りも、ふわりと広がる。
でも硬い音を立てているのは、腰に帯びた剣だ。
不思議な人だ。
そんなことを考えていると、トゥル様が肘を軽く差し出した。
「お手をどうぞ。私の奥様」
トゥル様はそう言って笑う。
少しためらったけれど、私は思い切って手をかけてみた。意外にしっかりした腕で、歩く歩幅も私に合わせてくれたようで歩きやすい。
こんなに自然にエスコートをしてくれる男性は、この領内にはいない気がする。さすが王子様。
そう感心していると、トゥル様がふと首を傾げた。
「そういえば、王都の学者たちはあの図鑑を完璧だと絶賛していたが、そうでもなかったな。魔獣はもちろん、植物についてもまだまだ全然足りない」
「仕方がありません。学者たちは辺境まで滅多に来ませんから」
「それはそうかもしれないけどね。青い葉の植物が普通だなんて知らなかったよ」
トゥル様は微笑んでいるけれど、口調は不満そうだ。
この方は本当に植物が好きなようだ。
でも、思ったよりこの地での生活に退屈してはいないようでホッとする。従兄弟たちはトゥル様が三日で飽きる方に賭けていたから、全員大負けだろう。
「……トゥル様の図鑑ほどではありませんが、辺境地区の植物についての本はいくつかあります。図書室は行ったことはありますか?」
「まだ行ったことはないね。私が見てもいいのかな?」
「問題はありません。ご心配ならお父様の許可を得ておきます」
「うん、楽しみだ」
トゥル様の横顔はまた楽しそうになっている。
この方は、意外におもてなししやすい方なのかもしれない。
食事を終えたトゥル様は、いつもまっすぐに自室に戻る。
でも、お誘いすれば散歩に応じてくれる気がする。今日か、明日か、図書室へご案内してみようと考えたので、私はお父様に図書室の件を相談してみることにした。
でも私がお父様を探しに行く必要はなかった。領主付きの秘書官から、お父様が私を呼んでいると知らされたのだ。
また、何かあったのかもしれない。
急いで執務室へ向かったけれど、そこにいたのはお父様だけではなかった。軍装のままのお母様もいる。
私は密かに深呼吸をした。
「悪いな、お前に話があって呼び出してしまった」
「構いません。私も、お父様に伺いたいことがありましたので」
「そうか。ではおまえの用件から聞こう」
「え? でも順序的にはお父様から先に……」
「……あー、うん、まあ別に急ぎではないのだ。それより、おまえの用件の方が急ぎだろう。言ってみなさい」
なんだかお父様の歯切れが悪い。
どう解釈すればいいのか迷ったので、お母様に視線を向けてみた。
お母様はじっと私を見ていた。でも私と目が合うと、するっと目を逸らしてしまう。お母様も様子がおかしい。
でも、今回は特に深刻そうな様子はない気がする。だから、私の用件を先に言うことにした。
「実はお父様に、お願いしたいことがあります」
「うん、なにかな!」
お父様が身を乗り出してきた。
その勢いに、一瞬ひるんでしまう。私はお父様からそっと視線を逸らして、お母様に質問することにした。
「……図書室に、トゥル様をご案内してもいいでしょうか」
「図書室? トゥル様?」
お母様が首を傾げた。
それでようやく、私は「トゥル様」と言ってしまったことに気が付いた。誰のことを言っているのか、すぐに察してくれたようだけれど、お父様もお母様も驚いた顔をしている。
やはり、ペットのような呼称は一般的ではないようだ。