翌日の朝(3)
「……先ほど『夜中に見つけた』とおっしゃっていた気がするのですが」
「うん、なんだか気配がしたから目が覚めたんだ」
ごく当たり前のようにトゥル様は言う。でも、本当にそうならとんでもないことだ。
アバゾルは姿だけでなく、存在自体が植物に似ている。気配まで植物のようだとお母様がこぼしていた。
そんなアバゾルの気配に気付くなんて、そんなことが可能なんだろうか。
動くと言っても、ナメクジほどの動きなのに。
でも実際にトゥル様はアバゾルの気配に気付き、中庭へと連れ出した。だからきっと本当に気配に敏感なのだろう。
……となると、なぜトゥル様のお部屋にアバゾルがいたか、という問題になる。
私は血の気が引くのを感じながら謝罪した。
「大変な失礼をしてしまいました。殿下のお部屋を用意するときに、アバゾルを使ったのかもしれません」
「ん? アバゾルを何に使ったの?」
「掃除です。この屋敷にいるアバゾルは、埃を好んで食べますから」
トゥル様がゆっくりと瞬きをした。
青と緑を混ぜたような目に、子供のような光が増した気がする。
「埃を食べるなんて、何だか便利な魔獣だね。太陽の光を好んでいるように見えるが、気のせいかな?」
「アバゾルは夜に動きますが、光が当たらない場所ではしおれてしまいます。その姿も植物に似ています」
「なるほど。光が当たらない場所にいたから、これは弱っていたのか」
「掃除に使った後は必ず回収するのですが、トゥル様のお部屋では回収漏れがあったようです。無害とはいえ、大変に失礼しました」
私は深く頭を下げた。夫となった人へではなく、王族への最大の敬意を示すために。
でも、トゥル様は無言だった。私を見てもいなかった。
やはり気分を害しているのかもしれない。魔獣を寝室に置くなんて、命を狙ったと誤解されてもおかしくない。どうすればいいのだろう。
こっそり焦っていると、トゥル様がつぶやいた。
「……これ、触ってもいいかな?」
「え?」
「昔、私が幼い頃に、乳母から魔獣は危険だと散々言われていたんだ。だから、直接は触らないようにしている。ただね、見た目通りに柔らかいのか、とても気になっているんだよ」
「……えっと、それは……」
おそるおそる顔を上げ、私は口篭ってしまった。
どうやらトゥル様は怒っている様子も、誤解している様子もない。それは良かったと思う。でも、触ってみたいというのは……そのお気持ち、とてもよくわかるけれど。
私は悩んだ。
その間も、トゥル様はゆらゆらと揺れているアバゾルをじっと見ている。とても熱心で、とても興味深そうで、とても楽しそうだ。
でも、はっきりと言わなければいけない。それが私の役割だろう。
「一般的には、アバゾルに触れることはお勧めしません。毒を持つ種類がいるのに、見分けがほとんどできないからです」
悩んだ末にそう言うと、トゥル様は私に目を向けた。青と緑の間の色合いの目は悲しげに見える。だから、つい言葉を足してしまった。
「……ただし、我が屋敷に住み着いている埃を食べるアバゾルについては、触っても大丈夫でした」
「『でした』ということは、もしかして君も触ったことがあるの?」
「はい、子供の頃に触りました。メイドたちも、大掃除の時は腕いっぱいに抱えて運んでいますよ」
「それは、できれば見てみたいな」
腕いっぱいという言葉で、その情景を想像したのだろう。
トゥル様は笑った。
明るくて、楽しそうで、まるで子供が悪戯を思いついた時のように。
その笑顔のまま、トゥル様はゆらゆらと揺れているアバゾルに手を伸ばした。ゆっくりゆっくりと手を近付けて、細く伸びている黄色の先端を軽く触れる。
美しい形の眉が、優雅に動く。
手はもう少し大胆に枝分かれした黄色を撫で、木の幹のような本体にも触れる。長く黄色い触角がトゥル様の指に絡み付いたが、またゆらゆらと離れていった。
「面白いね。柔らかくてふわふわしているのに、どこかしっとりしている。植物と違って体温を感じるのに、温かくはない」
「魔獣ですから」
「そうか。魔獣だからか」
トゥル様は目を少し見開いたけれど、やはり楽しそうに笑っている。
さらに何度もアバゾルに触った。
黄色い触角はもう一度指に絡み付いたものの、アバゾルは逃げるようにトゥル様から離れようとしている。
「おや、私は嫌われてしまったかな?」
そう言って笑い、軽く本体を指先で突いた。
アバゾルは迷惑そうに揺れている。
やっぱり攻撃する様子はない。埃を食べるアバゾルは、触りたがる人間にも慣れているのだ。
とても平和な光景だ。
でも、トゥル様が触っているものは魔獣で、トゥル様は国王陛下の第二王子で、私の夫でもある。
何とも不思議な気がしてきたが、食堂で待っている従者やメイドたちは気を揉んでいるはずだ。私は本題に戻ることにした。
「殿下。そろそろ食事に行きませんか?」
「ああ、そうだった。私は朝は食べなくても平気だけど、皆に合わせるべきだろうね」
「え? 王都も三食だと聞いていましたが、違いましたか?」
「普通は三食だったようだけど、私の場合は、食べても命に関わらないものが用意されるとは限らなかったからね。食べなくても平気なんだ」
思わず聞き返したくなるような、でもお聞きしてはいけないような、意味が深すぎることをさらりと言って、トゥル様は立ち上がった。
それと同時に硬い音がした。今まで私は気付いていなかったけれど、トゥル様は腰に剣を帯びていた。一見すると優雅な装飾品の一部のように見えるけれど、トゥル様の剣はしっかりした作りだ。柄の飾り模様がわずかに丸く磨かれているから、かなり使い込んでいるのだろう。
トゥル様はまだ座っている私に手を差し出した。重い剣を意識させない動きは、王都風でとても優雅だ。
「君の食事はもう済んだ?」
「いいえ。これからです」
「もしかして、私を探しに来たせいで遅れたのかな? 申し訳なかったね。では、一緒に食事をしていただけるかな?」
「……は、はい。もちろんです」
「それから、私のことはトゥルと呼んでほしい」
「…………善処します」
トゥル様の笑顔から目を逸らし、私は差し出された手に自分の手を重ねた。
結婚式の時にも思ったけど、トゥル様の手は大きくて、意外にしっかりと硬い。剣を握り慣れた手だ。
お父様の手に似ているようで、でももっと美しくて、礼儀正しい。
そんなことを考えていたら、私の心臓が急に忙しく動き始めた。
全く私の心臓は落ち着きがない。
トゥル様は優雅だけど剣を扱える礼儀正しい人で、アバゾルを見ていて、私は子供と見做されているだけなのに。
いったい、何を勘違いしているのやら。