翌日の朝(2)
我がブライトル領を含めた辺境地区は、魔獣の数がとても多い。
物語などに出てきそうな、いかにも魔獣らしい外見のものもいるけど、そんな恐ろしげな外見のものばかりではない。植物にしか見えない魔獣も存在している。
例えば、渡り廊下の床でゆらゆらと揺れている黄色いもの。植物か、鳥の羽が落ちているだけに見えるけれど、あれは魔獣だ。
正式な学名があるかもしれないけれど、私は知らない。
この辺りでは、あれを「アバゾル」と呼んでいる。古い言葉で「揺れる植物」という意味で、名前通り植物そっくりの形態の魔獣だ。揺れているのは風を受けているのではなく、呼吸をしているかららしい。もちろん魔獣なので、夜になるとゆっくりと移動する。
苔が主食と言われているけれど、ブライトル伯爵家の屋敷に住み着いているアバゾルは、なぜか埃を食べる。周囲に他のものがあっても、埃だけを食べている。
おかげで、メイドたちに受けがいい魔獣だ。
この魔獣、ずっと太陽の光が当たらない場所にいるのは苦手らしい。だからメイドたちは、たまに大掃除と称してアバゾルを倉庫に入れて埃を食べさせて、数日経ったらまた日の当たる外に戻している。おとなしくて有用な魔獣だ。
でもアバゾルは例外的な魔獣だ。有害ではないけれど、むやみやたらに関わると痛い目に遭ってしまう魔獣もそれなりにいる。
花のように見えるけれど、触ると針で刺す魔獣。花に集まる蝶のようだけど鋭い牙を持つ魔獣。可愛い子猫のように見えても、実は巨大な魔獣の擬態なことだってある。
この辺境地区では、見た目に騙されてはいけないのだ。
……という基本的な話を、お父様はトゥル様にしてくれただろうか。見慣れない生物に触れるべきではないと知っているだろうか。
茂みの奥や木の根元を見て行っていた私の脳裏に、トゥル様の喉にあった古傷がよぎる。
あの傷は明確な悪意によってつけられた物らしい。でもこの地では、悪意を持っていない存在でも対応を間違えれば危険だ。あの方の肌に新たな傷跡が増えてしまったらどうしよう。そう考えると、とてもぞっとする。
思わず足を速めたとき、視界の端に金色の輝きが見えた。
太陽の光を受けて、きらりと輝いている。蜂蜜のような金色だと気がついて、私は急いでそちらへと向かう。
茂みの向こうに、明るい金髪が見えた。
上質の服を着た人物だ。あんなに上質な服を着ている人はこの屋敷にはいない。普段のお父様は防具を兼ねた服を着ているし、お母様も翼竜騎士だから絹は着ない。
はやる気持ちを抑えて、私は足元に気を付けながら近付いていく。金色の輝きは、やっぱりトゥル様だった。ほっとした私は、同時に思わず首を傾げて足を止めてしまった。
トゥル様は草の上に座っている。そして何かをじっと見ている。一歩の距離を置いた地面を見ているようだ。
チラリと見えた横顔はとても真剣で、私は声をかけていいものか迷ってしまった。
「……私は少しお待ちしましょう。さっきのメイドに、殿下が見つかったと知らせてあげて」
「かしこまりました」
一緒に探していたメイドにそっとささやくと、メイドは素早く屋敷の中へと戻っていく。できるだけ足音を立てないようにしているのに、とても足が速い。
その軽やかな足取りを羨ましく見送っていると、なんの前兆もなく、静かにトゥル様が振り返った。
何かに驚いたのではなく、気配を確かめるためでもなく、私がいると確信しているようにごく自然に振り返って、背の低い茂み越しに私に笑いかけた。
「おはよう、オルテンシアちゃん。いい天気だね」
「……おはようございます」
私が迷い続けた挨拶の言葉を、トゥル様は気負いなく口にした。ほっとしたけれど、私は自分の役目も忘れていなかった。
「おくつろぎ中とは思いますが、朝の食事の支度ができていますよ」
「ああ、朝食か。忘れていた」
眉を動かしたトゥル様は、困ったようにお腹に手を置いた。空腹であることを忘れていたのだろうか。
でもトゥル様は、すぐには立ち上がらなかった。
逆に私を手招きする。近寄ると、近くの地表を指差した。
「夜中に、あれが動いているのを見つけたんだよ。朝になってもまだ窓に這いあがろうとしていたから、外に出たいのかと思って外に出してみたのだけど……」
私はトゥル様が示している場所を見た。
日当たりのいい場所だ。緑色の葉の芝生が広がっている。でも目についたのは芝生ではない。もっと鮮やかな黄色いものが、ゆらゆらと揺れていた。
羽毛のような触角を伸ばしたアバゾルだ。
ここにもいたのか。そう考えてから、私ははっとしてトゥル様に目を戻した。
「もしかして、それに触りましたか?」
「触っていないよ。何が毒か、私にはまだわからないからね」
気負いなくそういって、でもトゥル様はすぐに首を傾げた。
「洗面用の大皿があったから、それに入れて外に出してみたんだけどね。植物のようにも見えるけれど、夜中の動き方は植物ではない気がする。これはいったい何だろう?」
植物がお好きと言っていたが、この辺境での対応方法についての知識も持っていたようだ。私はほっとしつつ、トゥル様の疑問にお答えすることにした。
「殿下。それは植物ではありません」
「……そうなのか」
トゥル様の声は少し沈んでいる。辺境地区では植物が動くと期待したのだろうか。期待したのなら申し訳ない。
でも、子供のようにがっかりした様子がなんだかおかしくて、私は笑いを必死で押さえ込みながら言葉を続けた。
「私たちは『アバゾル』と呼んでいます」
「アバゾル……動く植物という意味かな? でも植物ではないと言ったよね?」
「はい。植物ではありません。魔獣です」
「……これが魔獣?」
今では使われていない古い言葉なのに、トゥル様は当たり前のように翻訳した。お荷物扱いされた第二王子だけれど、身につけた教養は並外れているようだ。
密かに感心していると、トゥル様はふわふわと揺れているアバゾルの黄色い姿をまじまじと見つめていた。魔獣と聞いて、また興味が増したようだ。
でも私は、トゥル様の言葉にふと引っ掛かりを覚えた。
(何か、とても気になることを言った気がするわ。見慣れないものに興味を持っても、直接触らずに大皿に入れて運んだ、というのは正しい対応だけど。でも、その前に、何か……何だったかしら…………あ)