ブライトル伯爵夫妻の事情
コミカライズ連載開始記念の番外編です。
本編31話と32話の間の、別荘でのんびり過ごしている頃の話。書籍版のこぼれ話としてもお楽しみいただけます。
それは雨の季節に別荘にやって来て、一週間がすぎた日のことだった。
「オルテンシアちゃん、ちょっと聞いていいかな」
昼食を終えて、のんびりと廊下を歩いていたトゥル様が、ふと首を傾げた。
隣を歩いていた私が見上げると、トゥル様は窓の前で足を止めて咳払いをした。
「その、君のご両親のことなんだけれど……」
そう言ったものの、何かを迷っているようで言葉が続かない。
何か、私に聞きにくいような疑問があるようだ。
お父様は領主として腹芸もそれなりにするけれど、家族の前ではほとんど裏表のない性格だ。トゥル様の前でもそれは変わらない。お母様についても、軍事的なことに触れない限り、全く秘密はないはずだ。
トゥル様に安心してもらうために、私はトゥル様の青と緑を混ぜたような色の目を見つめながら笑った。
「資産や軍備について以外なら、何でもお答えできますよ」
「ありがとう」
トゥル様は少し表情を緩めた。
でも、まだ迷うように窓から別荘を取り囲む林に目を向ける。
しっとりと雨に濡れた水色の木々を眺め、地面に咲く花をめざして低いうなりをあげて飛ぶ蜜蜂たちを目で追う。
でも、迷っている時間は長くはなかった。やがて小さく息を吐いて、私に目を戻した。
「君のご両親はとても仲が良いように見えるのに、呼び方が硬いような気がする。もしかしたら辺境地区では当たり前のことかと思ったのだが、それもどうやら違う。それで……なぜなのだろうと気になっていたんだ」
「ああ、お母様のことでしたか」
「……うん」
トゥル様は控えめに頷いた。
お父様は、お母様のことはいつでも「エリカ」と名前で呼ぶ。
でもお母様は、お父様のことは「ブライトル伯爵」としか呼ばない。王都の人でなくてもきっと不思議な関係に見えるだろう。
「トゥル様は、お母様が分家出身であることはご存じでしょうか?」
「ブライトル家の中でも、魔獣飼育に特化した家柄だと聞いている」
分家はブライトル家が領主となったばかりの時代から続いていて、他家との婚姻を行ってきた本家より初期ブライトル家の血が濃い。
だから、魔獣に好かれる資質は本家より色濃く出てくることが多いようだ。
お母様は翼竜に騎乗するし、お母様の兄弟も翼竜に好かれる。当然のように従兄弟たちは翼竜に好かれるし、翼竜騎士となる割合も代々高い。
翼竜に対する資質だけを見ると、お父様は劣っている。それでもお父様は本家の長子として、ブライトル家の中心にいるし、誰もが納得している。
お父様がもつ「領主の資質」ゆえだろう。
「本家に生まれたお父様は、幼い頃から領主として育てられてきました。年齢の近いお母様は、お父様の遊び友達の一人だったと聞いていますが、翼竜騎士となってからは次期領主の護衛の任にもついていたそうです」
今の私より若い年齢から翼竜を乗りこなしたお母様は、誰もが一目置く立派な武人となった。
でもお父様は、遠い親戚という関係にも、幼馴染という関係にも、次期領主と護衛の翼竜騎士という関係にも満足しなかった。
「お父様は子供の頃からお母様のことが好きで、護衛となったお母様を必死に口説こうとしていたそうです。でもお母様はとても真面目な性格ですから、任務と私情を完全に分けます。だから、お父様と結婚した今でも『ブライトル伯爵』と呼ぶのだそうですよ」
「へぇ、そうだったのか。……でも結婚したということは、やはり恋愛結婚だったのだよね?」
「お父様はそう言っています。お母様は根負けしただけだと言っていましたが」
「あの伯爵夫人を根負けさせたなんて、それだけでも偉業だったのではないかな?」
「当時のことを知っている大人たちは、皆そう言いますね」
分家に生まれ、護衛として領主一族を間近で見てきたお母様が、領主の妻となることを了承したのだ。
生半可な覚悟ではないはずだ。
でも、お母様は「領主の妻」であることより「武人」であることを選んだ。
「お母様は、あくまでブライトル伯爵軍の翼竜騎士隊長として生きているのだと言っています。だから、お父様へは敬意を忘れないために名前で呼ばないのだそうです」
「でも、二人だけの時は違うのだろう?」
「おそらく。私がいる時も、時々お父様を『イグレス』と名前で呼びますから」
お母様が夫であるお父様のことを「ブライトル伯爵」と呼ぶのは、周囲へのアピールでもあると思う。
自分は領主の妻であるより、武人であることを選ぶ。
そうはっきりと主張しているのだ。事実、お母様はブライトル軍の中で最強の剣であると同時に、お父様を守る盾となる。
お父様もそれを許している。
辺境地区では、領主はそのくらいに重要な存在なのだ。
……でも王都の風習とはかなり違うから、トゥル様には奇妙に見えるかもしれない。
反応を探ろうと、そっとトゥル様の顔を見つめる。
トゥル様は雨が降り続いている空を見ていた。
はるか上空を銀鷲が飛んでいる。別荘の警備のための旋回飛行だ。
「……トゥル様?」
「君のご両親は、いい夫婦だね」
空を見上げたまま、トゥル様はつぶやいた。
とても小さな声だけれど、私の耳は聞き逃さない。偽りや蔑みは含まれていない。空を飛ぶ銀鷲への純粋な賞賛と同じように、トゥル様は心からの言葉を口にしている。
私がほっとしていると、窓に背を向けたトゥル様が明るく笑った。
「とても珍しい夫婦の形だとは思うけれど、私はいい関係だと思うよ。ブライトル伯爵も伯爵夫人も、私にはとても好ましい人たちだからかな」
そう言ってから、ハッとしたような顔をした。
「しまった。ブライトル伯爵のことは『義父』と呼ぶと約束したのだったな。義父上と、ブライトル伯爵夫人だ」
トゥル様が時々「義父」と言っているのは気付いていたけれど、どうやらお父様が無茶なことを言っていたかららしい。
(無理にお願いして、ご迷惑になっていないかしら)
そう心配になったけれど、小声で「義父上」と何度もつぶやいて練習しているトゥル様の表情は明るくて、まるで悪戯中の子供のように楽しそうだ。
トゥル様は、王都の人なのにとても柔軟だ。
王都とは大きく違っているはずの辺境地区の動植物や慣習を、当たり前のように受け入れて楽しんでくれる。
今の私たちが契約による夫婦だとしても、夫となる人がトゥル様でよかった。
お会いできてよかった。
こんなことを考えてしまうのは、トゥル様の王宮での苦しい日々を軽んじるようで少し不謹慎かもしれない。
でも私は間違いなく幸せだ。
トゥル様も、せめてこの地では穏やかに笑っていられますように。
「……ん? これは虫かな?」
トゥル様が、窓枠を歩いている生き物に気が付いて少しだけ近付いた。私を振り返る目は輝いている。
辺境地区の生き物についてお教えするのは、私の大切な務めだ。
「それは魔獣ですので、ご注意ください」
「……これも魔獣? 形は虫と変わらないね。ああ、でも目の色は魔獣らしいかもしれない」
「やはりお気付きですね。分類上は魔獣になっていますが、実体はほとんど虫に近いと思います」
「襟赤栗鼠の虫版のような感じかな?」
「はい。もともと、虫は動物より多様ですから、魔獣化しなくても異界に順応できるのかもしれません。そういう虫は、何種か見つかっているんですよ」
「へぇ、そうなんだ。面白いね!」
トゥル様は、ますます目を輝かせて小さな生き物を見つめる。
ゆっくりと動く姿は、大きな角を持つ甲虫そっくりだ。でも昆虫とは少し違う姿をしていて、ごく小さな目は銀色。辺境地区の生き物だ。
その姿を少し距離を保って観察していたトゥル様は、ぶん、と飛び去るのを見送りながら微笑んだ。
「ここは、本当に興味深いものがいっぱいだね」
「魔の森に近い辺境地区ですから」
ほとんどの王都の人たちにとっては、ここは恐ろしい場所にしか思えないだろう。
でも、ブライトル領は私が生まれ育った場所。
魔の森は恐ろしいけれど、多様さゆえに人間に恵みも与えてくれる。魔獣は災害のように私たちの営みを破壊してしまうけれど、厳しい辺境地区の生活を支えてくれる魔獣もいる。
辺境地区は私の故郷だ。
この地しか知らないけれど、良さも知っている。だから……
強い風が吹いて、羽音が大きくなった。
哨戒任務の銀鷲が交代して舞い降りてきたようだ。雨の飛沫の中に、細かな銀色の粉がぱっと広がる。
「ブライトル領は、とてもいいところだね」
窓から身を乗り出すように銀鷲を見ていたトゥル様は、振り返って笑う。
その明るい笑顔と楽しげに弾んだ言葉が、私にはとても嬉しかった。
(番外編 ブライトル伯爵夫妻の事情 終)




