翌日の朝(1)
結婚式の翌朝。
朝の食事へと向かいながら、私はとても足が重く感じた。
我がブライトル家では、食事はいつも食堂に赴いて摂っている。王都近郊の貴族たちは、朝は自分の部屋で摂ったりするらしいけれど、この辺境地区ではそんな習慣はない。
理由は簡単。
できるだけ食べ物を自室に持ち込まないためだ。
辺境地区には魔獣が多く出没する。大型の魔獣は人家から離れた場所でしか見ないけれど、小型のものなら日常的に見る。
小型といっても全てが無害というわけではなく、うっかり寝室に入り込まれると寝ている間に手足をかじられかねない。そんな危険があるから、魔獣の餌となりそうなものは置く場所を限定している。
だから領主一族にとっても、食事は食堂で摂るものだ。
でも、今朝はなんだか気が重い。食堂へ出向けば、この屋敷にいる全ての人間と顔を合わせることになるから。
(……殿下とも顔を合わせるわよね?)
そう考えると、私の足はますます重くなっていた。
婚礼の儀式を終えたので、トゥライビス殿下は私の「夫」になった。でも白い結婚の約束だから、寝室は別。私の寝室から離れた、屋敷で一番いい部屋がトゥル様のために用意されていた。
でも、食堂に行けばトゥル様とお会いするだろうし、朝の挨拶もするだろう。
正式な「夫」ではあるけど、「白い結婚」だから遠い他人のままの人に、どんな挨拶をすればいい?
「……『おはようございます』の後は、天気の話をすればいいかしら?」
悩みすぎているせいで、思わず独り言をつぶやいてしまう。
私は結婚して成人扱いされる立場になったけれど、年齢はまだ十六歳。大人に近いが、子供にもまだ近い。でもトゥル様の「妻」で、ゆくゆくは領主の地位を継ぐ立場でもある。
そういう立場の人間は、天気についてどんな語り方をすればいいのだろう。今日のこの空は、晴れているといって大丈夫だろうか。
我がブライトル領では、今の時期はほんのり白く曇っているのが普通で、私たちはこの空の状態を「晴れている」と言っている。
でも気象の学問書に従えば、今朝の空は「曇り」になる。王都の天候が我が国の基準になっているから、トゥル様も空を見上げると「曇り」だと思うはず。
あの方は王子殿下。身分を考えれば、私がトゥル様の基準に合わせるべきだろう。でもトゥル様は、残りの一生をこの地で過ごすと覚悟していると言っていた。
ならば、この地の風習に馴染んでいただくべきのような気もするし……。
「……だめだわ。考えすぎてわからなくなってきた……!」
思わずため息をついていると、顔色を変えたメイドが早足でやってくるのが見えた。
今はトゥル様付きのメイドになっているはず。でもあんなに慌ててどうしたのだろう。
「オルテンシアお嬢様……いいえ、若奥様! 大変でございます!」
「どうしたの? 今日は魔獣が出た様子はないと思ったのだけど」
「あ、はい、魔獣は出ていませんが、ご夫君様がいらっしゃいません!」
「……殿下がいないって、どういうこと?」
ご夫君という言い方に、私は一瞬ドキッとした。
でも、私は平気なふりをして聞き返す。メイドは少し息を切らせながら言葉を続けた。
「朝のお支度をお手伝いするつもりで控えていましたが、いつまで経ってもお呼びがなくて。長旅の後ですし、お疲れかもしれないとお待ちしていましたが、そろそろご様子を伺おうと入ってみたら、お部屋のどこにもお姿がありませんでした!」
「ああ、お部屋にいないね。……もしかして、今日は晴れているから外に出ているのかしら」
そう思いついたのは、昨日の会話を思い出したからだ。
トゥル様は、私が見慣れていた木をとても面白そうに見ていた。だから、早起きをして外に出てみたのではないかと考えた。
でも、メイドはとても慌てている。どうしてそんなに慌てているのだろうと首を傾げかけて……私はメイドが何を案じているのか、やっと悟った。悟った瞬間に青ざめた。
「……王都の貴族の方々って、魔獣と植物を見分けられるものかしら?」
「おそらく、見分けることはできないのではないかと……」
メイドと私は顔を見合わせた。
お互いの顔色が悪くなっているのがわかる。背後に控えているメイドも動揺しているのを感じた。
私はそっと深呼吸をした。
次期領主の私が動揺を見せてはいけない。まずは落ち着かなければ。
「……あなたは屋敷の中を探してちょうだい。私は外を見てみるわ」
「捜索のために他にも人を呼びますか?」
「もしかしたら、ただ散歩をしているだけかもしれないから、できるだけ騒がずにいましょう。もし危険魔獣の気配があったら、すぐにお父様に報告して」
「かしこまりました」
私の指示に、メイドは少し落ち着いたようだ。
さっきより少し顔の表情が穏やかになった。歩き去る歩調も落ち着いている。
反対に、私は精一杯の早足で中庭へ出た。
庭園というより林をそのまま切り取ったような中庭は、手入れをしているけれど本物の森のような赴きだ。
草は一晩で生えてくるし、成長の早い木は思いがけないところに枝を伸ばす。地中の虫が活発に動けば、昨日はなかった石が突然地表に出てくることだってある。
中庭には慣れているけれど、私にとっては、気を抜くと早足程度でも転びそうになる場所なのだ。
私は焦る気持ちを無理やりに抑えつけ、少し歩調を緩めた。慌てすぎると、肝心なトゥル様を見落としてしまうからと自分に言い聞かせ、木の種類が多くて、虫も集まっていそうな場所を探した。