羽虫もどき(1)
私の十七歳の祝福の日から、一ヶ月と少しが過ぎた。
アマレの花は全て散り、木は再び青い葉ばかりの姿に戻った。
最近の私は、半分は既婚女性らしく髪をあげつつ、半分は背中に垂らすようになった。この髪型をすると、トゥライビス殿下が……トゥル様が満足そうに笑ってくれるから、なんとなく続けてしまっている。それだけの理由だ。
トゥル様はまだこの屋敷に滞在していて、晴れた日には中庭や隣接した薬草園で植物や動物、虫や魔獣を観察しながら、何やらメモやスケッチをとっている。
だから、朝食の前にトゥル様を探しにいくことが、また私の日常になった。
でも、ここは人の出入りが多く、別荘に比べると守りに徹することは難しい。そのことは、あの日の襲撃で実感した。だからそのうち、また別荘にお送りするはずなのだけれど……送り届ける警備は万全にしなければならないという理由で、別荘へ向かう日取りはまだ決まっていない。
今朝のトゥル様は、中庭にいた。
でも、なんだか様子がおかしい。いつもなら地面に座って、じっと何かを見ているのに、今日は立ち上がっていた。しかも、何かを探すようにきょろきょろと周りを見ている。
見つけやすくて助かるけれど、いったいどうしたのだろう。
「おはようございます」
そう声をかけると、トゥル様はすぐに私を振り返った。
「おはよう。オルテンシアちゃん」
目が合うと優しく笑いかけてくれたけれど、トゥル様はまたすぐに周りを見始める。地面を見たり、草の葉の上を見たり、探す場所もさまざまだ。
「何かをお探しですか?」
「うん、実は久しぶりにいつもの変わった羽虫がいたんだ。それでスケッチをしたんだけど、ちょっと目を離したらまたいなくなってしまってね。……あと少しで完成するところだったんだけどな」
そんなことをつぶやいて、ため息をついている。
つまりトゥル様は、今日も朝早くからとても充実したひとときを過ごしていたようだ。
私はそっと笑いを噛み殺す。
でも、あまりにもがっかりしているお顔をしているから、こほんと咳払いをした。
「その虫は、どんな姿だったのですか?」
「こんな感じだよ」
私がそばに行くと、トゥル様は手に持っていた紙を差し出して見せてくれた。他の植物を描いている横に、簡単な輪郭と、一部だけ詳細に描き込まれた絵がある。でも、確かに完成はしていない。
いつもより線が荒くて未完成なのに、トゥル様の絵はとてもお上手だ。そのまま動き出しそうな立体感がある。
(描き込みの多い前脚は質感がリアルだわ。それに翼のつき方とかもわかりやすいし、輪郭しかないけど後脚も動き方まで想像できそうというか……)
そう感心していた私は、ふと「それ」の全体像に気付いた。何度も何度も見直して……思わず息を呑んだ。
「今日はちょうど紙とペンを持ってきていたから、頑張って描いてみたんだけどね。とても小さいから、特徴を確認するだけでも時間がかかってしまった。こんなことなら、拡大鏡も持ち歩くべきだったよ。でも、大体の特徴は描けているんじゃないかと……オルテンシアちゃん? どうしたの?」
悔しそうにしていたトゥル様は、私の異常に気付いて驚いている。
でも、私は表情を繕えなかった。
「……あの、これが、本当にいたのですか?」
「うん」
「大きさはどのくらいでした?」
「そうだな、このくらい……少し大きめの羽虫くらいかな」
殿下が指で示してくれる。ちょうど指一本分の幅くらいだ。
でも、私はさらに青ざめてしまう。息苦しいくらいに動悸がする。なんとか少し落ち着こうと、もう一度、未完成のままのスケッチに目を落とした。
二対の脚に、一対の翼。尾は長く、首も少し長い。スケッチに添えられた走り書きの文字によると、全身の色は黒いらしい。
確かに、この翼はコウモリに似ている。
もっと似た生物といえば翼竜だ。でもこの絵の生物と翼竜とは、決定的に違う特徴がある。コウモリも翼竜も、翼は前脚が変化したもの。だから脚一対に翼が一対だ。
だから「これ」はコウモリではない。
翼竜でもない。
「もしかしてオルテンシアちゃんは、これが何か心当たりがあるのかな?」
「……はい。多分知っていると思います」
そう言った途端、目を輝かせた。
でも私は何と言えばいいかがわからず、途方に暮れていた。
この絵が正確なら、私はこの「羽虫もどき」の正体を知っている。でも、もしかしたら描き間違えているかもしれない。トゥル様に限ってそんなことはないと思うけれど、とても小さくて観察に苦労していたようだし、何事にも完璧はないはずだ。
もし、特徴を描き間違えていたら、私が思ってるものとは全く違う生物となる。期待させてしまうと、違った時の落胆が大きくなるだろう。
正直に告げるべきか、よくわからないと誤魔化してしまうべきか。
私が迷っていると、トゥル様が「あ」と小さく声を上げた。
顔を上げると、トゥル様が目を輝かせて手を伸ばしているところだった。




