蝶の群れ(2)
私が塔の階段へと戻ろうとした時、耳のカートルが、チリーン、と鳴いた。あと少しまで近付いていた暗い階段から、周囲へと目を向ける。すぐ近くの空に、また赤揚羽が群れをなして飛んでいた。
いつの間に、あんなに近付いていたのだろう。
「……どの群れにも、赤揚羽ではないものが交じっている。来るぞ」
静かな声が聞こえた。
トゥル様だ。
南側に現れた群れを見ている。大きな声ではないのに、この場にいる全員に聞こえたようだ。お母様の指示を待たずに緊急を告げる笛が鳴らされ、階下から新たな兵が駆け上がってくる音がした。
屋敷から少し離れたところにある待機場から、複数の翼竜が飛び立つのが見える。
耳元で、チリーン、チリーン、とまたカートルが鳴いた。トゥル様が翼竜の側へと動きながら腰の剣を抜いている。
その次の瞬間、突然、赤揚羽たちが散り散りになった。
逃げるように飛んでいくもの。片羽がちぎれてくるくると落ちていくもの。そして——蝶に似た形を取っていたものたちが、姿を変えて本性をあらわにした。
「爪燕か!」
一瞬でトゥル様へと襲いかかった鳥のような姿の魔獣を、剣で防ぎながらお母様が舌打ちをした。剣で弾いたはずなのに、お母様のマントの裾が切り裂かれている。
身を翻して再び襲いかかってきたその魔獣は、次の瞬間にはトゥル様の足元に真っ二つになって落ちていた。
トゥル様が切り落としたらしい。
別の魔獣を切り伏せながら、お母様が目を丸くした。
「ほう、これはお見事!」
「伯爵夫人が脚を二本切ってくれたおかげだな」
トゥル様は淡々とそう言って、翼竜へと駆け寄ろうとする。でもその前に、燕のような速さで飛ぶ魔獣が行く手を阻んだ。
三体がトゥル様を囲んでいる。
一体なら、トゥル様はきっと対応可能だ。二体でもカートルがお守りするだろう。でも、三体同時は……カートルが頑張るとしても、どこかに傷を負う。
それはダメだ。
トゥル様に、醜い傷跡を残してはいけない。
私は階段に戻りかけた足を戻した。急な動きに、体がバランスを崩してしまう。でも、私は体が傾くのも気にせずにトゥル様へと走った。
走りながら口に指を当てて、ピュー、と鳴らした。
私の指笛は大きな音ではなかったはずだ。でもそれで十分だ。空を飛ぶ魔獣なら、私を無視できないから。
私に気を取られるのは、一瞬だけでもいい。
それだけでトゥル様は対処できる。お母様が動く。翼竜が間に合う。
指笛を吹いた途端に、鋭い爪を持つ魔獣たちが私を見た。
大きく体が傾いて、ほとんど転びそうになっている私を見た。銀色の目が私を見て、反射的に私の方へと向きを変え……トゥル様の剣が魔獣を切り裂いた。
「シア!」
別の魔獣を切り伏せたお母様が駆け寄ろうとする。
でもそれより早く、カートルが銀色の体を広げて私の背中を守った。カートルに爪燕より大きな魔獣がぶつかっている。鋭い牙と爪はカートルで阻まれたけれど、ぶつかってきた魔獣の巨体の勢いまでは殺せなかった。
ぐん、と体が押された。
衝撃はない。カートルが守ってくれているから。でもすでにバランスを崩していた私の体は、簡単に宙に投げ出された。
見張りの塔の壁を越えて、何もない空間へ。
——まっすぐに落ちていく。
「オルテンシア!」
誰かが、私の名前を呼んだ。壁から身を乗り出すように手を伸ばしている。私が手を伸ばせば届きそうだった。
でも、私は手を伸ばさない。
一人で落ちていく。
大きく目を見開いたその人の背後から魔獣が迫っていた。その魔獣を切ったお母様が、呆然とするその人を壁の内側に引っ張り戻そうとしている。
(……あれは……)
明るい金髪だった。
背後から迫る魔獣のことを忘れたように、落ちていく私を見ていた。
私を、助けようとしてくれた? ……トゥル様が?
ぐん、と体が落ちる速度が加速する。
強烈な恐怖が湧き、服が、髪が、全てが風を受けている。何度落ちても、これだけは慣れない。
そして……唐突に、私の体がふわりと浮かんだ。
緩やかに高度を下げ、やがて地面に足が着く。しっかりと踏みしめると、服もゆっくりと降りてきた。
髪がゆっくりと背中に戻って——突然、体が重さを取り戻した。
バランスが取れずに、体が大きく揺れた。でもなんとか膝をつかずに済んだ。ほっとしながら姿勢を正した時、翼竜がすぐ近くに降りてきた。
見張りの塔の頂上にいた翼竜だ。お母様が手綱を握っている。そして、トゥル様が翼竜の背から飛び降りた。
私の前で足をとめ、私の全身を見たようだ。どこにも血がにじんでいないことを確かめて、トゥル様は硬い顔のまま口を開いた。
「……怪我は?」
「どこにもありません。カートルが守ってくれました」
「それは見たよ。一気に広がった銀色の紙のようなものが、全てを受け止めていた。でも……君は落ちた」
「ご心配をおかけしました。でも、私は大丈夫なんですよ」
お母様が翼竜を降りて、手綱を持ったまま翼竜の首を撫でる。
少し興奮したような翼竜は、じっと私を見ていた。
お母様がすでに何か説明してくれたようだけれど、私から改めて説明することにした。
「私は、どこかから落ちても怪我をすることはありません。私の体は、重さの比重が一部変化しているんです」
「伯爵夫人からそれは聞いたが……いったいどういうものなのかな?」
「我が一族に伝わる秘術です。翼竜の幼体から、翼を切り取って移植するのです。それによって、私の体は翼竜と同じ比重になっている部分が混じっています」
「……だから、普段からバランスを崩しやすかったり、時々ひどく軽かったりしたんだね」
「急激に倒れたり落ちたりした時には、体が完全に翼竜と同じように変化して、ゆっくりと地表に到達します」
秘術により、私は空を飛ぶものたちに近い体を部分的に得た。
でも、それは不自然で歪んだものだ。
だから空を飛ぶものたちの視線を集めてしまう。魔獣たちは私を忌避する。翼竜は特に私を嫌う。その代わり、私は殺されにくい体を得た。それが正しい選択だったかはわからない。
次期領主として、私は後悔していない。
今回も、この歪な体のおかげでトゥル様をお救いできたから。……たとえ異形と疎まれたとしても。
トゥル様はどう感じたのか、表情を消したままだった。じっと私を見つめていた。
やがて目を逸らして、私に背を向けた。
「……少し君から離れていたい。別荘に送ってくれるだろうか」
「殿下のお望みのままに」
安全で閉鎖的な場所を望むトゥライビス王子殿下に、私は迷いなくそうお答えして、恭しい礼をする。
———胸が、無性に苦しかった。




