第二王子(2)
すぐ近くに立ったトゥル様は、思っていたより背が高い。ブライトル伯爵であるお父様よりは低めだけれど、従兄弟たちより高そうだ。
それに優雅な細身の人に見えたけれど、実際はそんなに痩せていない。服装と姿勢が美しかっただけで、護衛の騎士たちのように鍛えた体つきをしている。
王都近郊の貴族は優雅で、平和な生活を送っていて、近くに魔獣が少なくて、もっと華奢な人々だと思っていた。でも、トゥル様はそうではないらしい。
なんだか……意外だ。
私が驚いていると、トゥル様がスッと床に片膝を付けた。トゥル様の顔の位置が下がり、私が少し見下ろす高さになった。
近くで見ると、本当にきれいなお顔立ちだ。
思わず見惚れかけて、突然、トゥル様の喉元に傷跡があることに気がついた。高い襟で隠れているけれど、上から見るとはっきりと見える。かなり深い傷だったのではないか。
(まるで刀傷みたい。と言うか……あと少し深かったり場所がずれていたら、命を失っていたのではないかしら)
そこまで考えて、私は思い出した。
上質のハチミツのように明るい金髪のこの人は、トゥライビス王子。お父様の言葉によれば、王妃様に憎まれている。
きれいな容姿に気を取られてしまったけれど、この結婚はトゥライビス王子殿下の命を守るためのものだ。そのために破格の結納金が用意されている。
でも……なんて痛々しい傷跡だろう。
美しいお姿とそぐわない気がして、ついじっと見てしまった。
トゥル様は私の視線が何に向いているかに気づいたようだ。我に返った私が慌てていると、苦笑を浮かべながら襟を少しだけ指先で下げた。
「これは幼い頃のものだよ。幸いなことに、当時の記憶はほとんどないんだ。目が覚めると、乳母たちが泣いていたことは覚えているかな。しばらくとても痛かったこともね」
「……配慮に欠けていました。失礼しました」
「構わないよ。ただね、そういうことは一度だけではないんだ。だから、君が私と結婚してくれると聞いて驚いた。義母上に楯突く人間なんて、この国にはいないと思い込んでいたから」
トゥル様が喋ると、喉も動く。傷跡も動く。
でも襟を押さえていた手が離れると、生々しい悪意の痕跡は美しい絹と煌びやかな襟飾りで隠れてしまった。
「私は二度と王都に戻るつもりはないし、戻れないと思っている。残りの一生はこの地で過ごすことになるだろう。君に迷惑をかけたくないから、目障りならできるだけ部屋で過ごすようにしよう。どこかに閉じこもっていろと言われても、まあ平気だよ。――だから、少しだけ君の人生を分けてほしい。夫という地位を私に与えてくれ。私の望みはそれだけだ」
私を見上げる顔はとても真剣だった。
私たちの結婚については、詳細な取り決めがある。「白い結婚」の徹底の他に、我がブライトル家がトゥル様にご用意するものとか、我が領内でのトゥル様のお立場とか、何ページにも及ぶ書面が用意された。
だからトゥル様が私に「お願い」なんて、そんなことを改めてする必要はない。
なのに、直接私に語りかけてくれた。とても十歳年下の小娘に対するものではない。この後の婚礼の儀式で夫婦になる相手にする話でもないと思う。
……普通の夫婦がどんな話をするかなんて、本当は私にはわからないけど。
でも、トゥル様はとても真剣に、私をまっすぐに見てくれた。
形式だけの夫になるはずの、恵まれているのに不幸な人。
私はなんだか力づけて差し上げたくなって、できるだけ子供っぽく見えるように、少し大袈裟に笑った。
「トゥライビス殿下は、年若い乙女に執着する好色ジジイですか?」
「えっ? それはどういう意味だろう? よくわからないけれど、たぶん違うと思うよ」
「結婚式なんて、どうでもいいと軽く考えていますか?」
「どうでもいいとは思っているけど……ああ、君には申し訳ないと思っているよ。花嫁は時間をかけていろいろ準備をして、美しく装うものだろうから」
「私が何歳か、ご存じですか?」
「オルテンシアちゃんは十六歳だ。 そうだったよね?」
私の質問に慌てながら、あるいは首を傾げながら、でもトゥル様は真面目に答えてくれた。
お母様がこの場にいたら、まずまずの返答だと満足してくれたはず。
少なくとも、私にとっては満点だ。
命を守るための結婚であろうと、この方は私の名前を覚え、年齢を覚え、王子というお立場なのに私の前で片膝をついて、きちんと結婚を乞うてくれた。
その誠意に私もお応えしよう。
「トゥライビス殿下。この地は魔獣がいて危険も多いですが、植物の種類は豊富です。王都とは全く違うことも多いはず。植物がお好きなら、きっと楽しんでいただけると思います」
「それは……私の滞在を認めてくれるということかな?」
「はい、もちろんです。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
私がドレスを軽くつまんで丁寧に礼をする。そっと顔を上げるとまだ片膝をついているトゥル様がじっと私を見ていた。
もしかしたら、王都の令嬢たちに比べると不格好だったかもしれない。そう不安になった時、殿下は少しだけ笑った。
とても綺麗な微笑みに思わず見惚れていると、トゥル様はドレスから離したばかりの私の手を取って、甲に恭しく口付けをした。いや、唇は触れていないから、口付けのふりだけだ。
礼儀通りなのに、私の心臓は急に大きく弾んでしまった。
私の密かな混乱を、トゥル様は気付いているだろうか。
ゆっくりと顔をあげ、私の手を取ったままもう一度笑った。
「こちらこそ、よろしく頼むよ、オルテンシアちゃん。私の奥様となる人」
さっきの微笑みは柔らかかったけれど、今度の笑顔はとても明るい。アマレの木を見上げていた時と同じような、とてもくつろいだ笑顔だ。
優雅できれいな人に不慣れなせいで、私の心臓はまた大きく動いてしまった。