十歳の望み(1)
それから、しばらく天候は安定しなかった。
雨が続いたと思ったら、晴れた日がある。やっと晴れた日が続くようになるのかと思ったら、また雨になる。その繰り返しだ。でもこれが辺境地区の例年通りの天候だった。
そんな中、トゥル様の生活は以前と同じように見えた。
晴れた日は中庭にいる。雨の日は自室にこもる。そんな繰り返しだ。特に不満を漏らすことはなかったけれど、新たな観察ができなくて退屈しているのではないかと心配してしまう。
そんな時に、お母様が私の部屋を訪れた。
「ある村で、長く植物の観察記録がつけられてきたそうです。村の古老の話では、王都から移り住んだ学者が始めたことだとか。もう百年近く続いているそうですし、王都の学者視点で始めたものだから、もしかしたら殿下の興味を引くかもしれないと思って持ってきてみました」
そう言って、何冊にも及ぶ古い記録をテーブルに並べた。
一冊を手に取って中を少しだけ確認する。これはロムラという木の観察記録のようだ。他の冊子は別の植物の記録のようだ。
種から育てていく様子が記録されている。上手ではないけれど緻密で的確なスケッチも添えられている。
葉の色の変化とか、幹の太さの計測記録とか、ロムラを見慣れていると見逃してしまいそうなことを、事細かに記録している。
トゥル様の図鑑を見た時を思い出したから、これは王都の学者的な視点で記録されているようだ。
「確かにトゥル様が喜んでくれそうな気がします」
そういうと、お母様も嬉しそうな顔をした。
早速、私はその記録を持ってトゥル様のお部屋を訪問した。と言っても、記録を抱えているのはメイドだ。私は一冊持つだけがやっとだから。
扉をノックすると、以前のようにトゥル様が直接扉を開けてくれた。
中に案内されて、記録をお見せする。
トゥル様は目を輝かせ、すぐに記録を見始めた。
「……ロムラか。私も気にはなっていたんだが、木は変化が少ないから、つい別のものに目を奪われてしまっていたんだ」
そう恥ずかしそうにつぶやくけれど、今回は私もあまり聞いていなかった。
ちょうど、トゥル様が図鑑をテーブルに置きっぱなしにしていたから、それに目を奪われたのだ。植物についての図鑑のようだけれど、以前見たものとは違う。彩色がされていないから、別の写本だろう。
でも、イラストはとても詳細で、色がなくても気にならない。色についての説明文も面白い。
私がじっと見入っていることに気付くと、トゥル様は私の前に図鑑を移してくれた。
「オルテンシアちゃんは、この図鑑が気に入ってくれたようだね」
「とても面白いです。絵がきれいですし、私が知っている植物でも、特徴が全く違うものが多いです。この図鑑を見ると、とてもよくわかります」
「そうか。これはね、私の十歳の誕生日に父上にねだったものなんだ」
「十歳の誕生日?」
私は図鑑から目を上げた。
トゥル様は懐かしそうな目をして、それからハッとしたように言葉を続けた。
「王家では、十歳の誕生日に特別なお願いをするんだ。この辺りには、そういう風習はあるかな?」
「誕生日……ということは、祝福の儀式のようなものでしょうか。この辺りでは誕生日は毎年お祝いしますが、十歳を特別扱いする習慣はないですね」
「そうか。でも、たぶんその祝福の儀式に近いと思うよ。十歳まで無事に育ったことを祝う儀式だから」
トゥル様は少しほっとした顔をして、図鑑をそっと撫でた。
「一般の貴族では、もしかしたらそれほど大きな意味はないかもしれないけど、王家では将来を決める重要な儀式なんだ。第一王子に生まれれば『守り愛しむ民が欲しい』と言い、王女に生まれれば『国と国を繋ぐ礎になりたい』と言う。もちろん、裏で何を言うかは決まっているけどね。私のような第二王子以下は、だいたい『王を支える柱になりたい』とか『森と湖のある地が欲しい』と言うんだよ」
なんとなくわかってきたから、私は頷いた。
第一王子は王位を望み、第二王子以下は王位を望まないことを示す。
王女たちは他国へ嫁ぐ前提なのだろう。他国で婿として迎えられる王子も、王女たちのような言葉を言うのかもしれない。
……でも、その大切な儀式で、トゥル様は図鑑が欲しいと言ったのだろうか。
私の疑問を読み取ったのか、トゥル様は苦笑をした。
「私はその大切な儀式で『この世の植物のことを知りたい』と言ったんだ。台本は別の言葉だったけど、儀式の前日に、乳母が贈られてきた花を触った途端に肌が爛れてしまってね。急遽変更してしまった」
「それは……まさか」
「うん。花を贈ってきたのは義母上だよ。あの時に私は悟ったんだ。私がどんな生き方を望んだとしても、義母上は私を許さないだろう、とね。庶民として生きたいと言えば、許してもらえるかもしれないと思っていた。でも私に何の権威もなくなって、誰も守ってくれなくなったら……私自身はもちろん、乳母も、私の遊び相手だった乳兄弟も、懸命に安全な食糧を届けてくれた母の親族も、全て殺されていただろう」
トゥル様の言葉は静かだった。
十歳の子供がそんな結論に達するなんて、どれほど恐ろしい日々だったのだろう。触れただけで爛れるなんて、恐ろしい毒だ。それとも、毒をもつ魔獣を花に紛れ込ませていたか、あるいは擬態させていたのだろう。
思い当たるものがいくつかある。
どれも、とても酷い結果となるはずだ。もしかしたら、トゥル様の乳母は……。




