毒持ち(3)
「トゥル様はご無事ですか?」
「……うん、大丈夫だ」
小さく頷いたトゥル様は、ふうっと息を吐いた。
そして私にやっと目を向けた。口元に微笑みのようなものが浮かんだけれど、完全な笑みにはならなかった。
「でも……どうやら君を巻き込んでしまったようだ」
「それは」
「最後の毒持ちは、私を狙っていた。派手な陽動をしている隙に、毒持ちが迫ってくるのは暗殺者たちがよく使う手だ。君を狙ったのは陽動だったが、暗殺者は君を巻き込むことに躊躇していなかった」
トゥル様が皮肉げに笑った。
今度は笑みになった。美しい笑みなのに、騎士たちが息を呑んだのがわかる。私も体が動かなくなった。
それでも、私は歯を食いしばって動いた。
トゥル様の冷え切った手を両手で握り、やっと私を映してくれた青と緑の目をまっすぐに見上げた。
「大丈夫です。ここは辺境地区。このくらいの魔獣の襲撃は珍しいことではありません。そのために私はカートルを身につけています。最初の一撃を耐えれば、護衛たちが全てを処理します。銀鷲が多数に囲まれないように警戒しています。万が一の時は、銀鷲たちが私を乗せて逃す算段になっています」
私一人では騎乗できなくても、護衛の騎士たちがいる限り私は死なない。護身用の魔獣たちが守ってくれる。
だから、この程度の襲撃はなんでもないことだ。誰も怪我をせず、命を落とすことがなかったのなら、何も起こらなかったのと変わらない。
「私はブライトルの名を受け継ぐ女です。たかが魔獣六体の襲撃に怯えるほど気弱ではありませんよ」
私ははっきりと言い切った。
多少のはったりを含んでいようと、私の本心だ。
トゥル様は私が握っている自分の手を見た。砕けて地面に散らばっている簡易椅子を見た。斬り伏せられた魔獣たちの死体も見ていく。
そして、トゥル様は私が挟み込んでいた手を抜き出して、私の頬に触れた。
椅子が砕かれた時に、土が飛び散っていたようだ。
ざらりと指先で拭い取られる感覚がある。それが二度、三度と場所を変えて繰り返され、トゥル様はきれいになった私の頬に手を添えた。
「……君は、まだ私を『夫』として扱うつもりなのか?」
「もちろんです。我がブライトルはこの程度の脅しに屈することはありません。最低でも三年間、私がトゥル様をお守りします」
私はそう言って笑う。
うまく笑えたかどうかはわからない。それでも私は笑う。笑わねばならない。それが私の役割だ。
「それとも、襲撃されても平然としている女は、お嫌いですか?」
「…………嫌いではない。むしろ、とても頼もしいね」
トゥル様は微笑んだ。
表情のない笑顔ではなく、苦々しげでもなく、私が知っている優しい微笑みには遠いけれど、いつものトゥル様がほんの少し戻っている。
そのことで、私はほっとしてしまったようだ。
私を見たトゥル様は、なんだか困ったような顔をした。
「——君は、もう少し気をつけたほうがいいだろうね」
「え、何のことでしょうか」
「君のその顔は、とても慕われていると誤解してしまいそうだ。不幸な男を作らないように、気をつけるべきだと思うよ」
トゥル様は乱れた私の髪を優しく撫で付けてながら、そう囁く。
私はどんな顔をしているのだろう。
そんなに……気の緩んだ顔になっているのだろうか。
トゥル様はもう一度微笑んで、私から離れた。怯えた馬を迎えにいくようだ。騎士も急いで同行する。
その姿を見送りながら、私は両手で自分の頬に触れた。なんだか顔が熱い。
「……ねえ、グレム。私、そんなにおかしな顔をしていたのかしら」
「まあ、その、可愛らしいお顔ではありました」
「私はトゥル様をお守りしたいだけなの」
「もちろん理解しております」
「私は……信じていただきたかったの」
「伝わっていると思いますよ」
「……気が抜ける前の私は、ちゃんと笑えていたかしら」
護衛騎士隊長のグレムはすぐには答えなかった。
真顔になり、姿勢を正し、お父様に対するように恭しい敬礼をした。
「ご立派でいらっしゃいました」
「ありがとう」
私は両手を下ろした。
もう顔は熱くない。落ち着きのなかった心臓も、今はひたりと静かに動いている。
トゥル様が馬を引いて戻っていた。
馬に怪我はなさそうだ。少し興奮しているようだったけれど、トゥル様に話しかけられているうちに落ち着いてきている。
地上で警戒していた銀鷲が再び飛び立った。周囲に風が起こり、銀粉がうっすらと広がる。トゥル様が近くに来た翼粉を捕まえようとするように手を伸ばした。
硬かった顔が少し和らいでいる。
ゆっくりと側へ行く私に気付いたのか、ふと振り返った。目が合った途端に、きれいなお顔は少し照れ臭そうな表情をした。
「……こういうことは、子供っぽいかな?」
「翼粉に毒はありませんから、ご存分にどうぞ」
私がにっこりと笑って見せると、トゥル様は少し目を逸らして咳払いをして、そっとまた手を伸ばした。
銀色の翼粉が、ふわりと揺れながら手のひらにのる。
「きれいだね」
トゥル様はそっとつぶやいた。
いつものトゥル様のようだ。
でも翼粉を載せている手は少し前まで剣を握っていて、向かってきた毒持ちを自ら切り伏せた。あの冷徹なトゥル様もトゥル様なのだろう。
私はトゥル様をお守りすると決めている。
そのためなら自分の心を偽ることもできる。最近大きくなってきた気持ちに気づかないふりをすることもできる。
だから私は、トゥル様に嘘をついた。
本当は、銀鷲たちが私を背に乗せることはない。私は翼あるものたちに嫌われているから。
今まで自分の選択を後悔したことはなかった。特に秘密にするつもりもなかった。
でも……トゥル様には知られたくないと思っている。
初めて怖くなった。




