毒持ち(1)
一週間続いた雨が止み、久しぶりに薄青い空が広がった。
まだ地面はぬかるんでいるが、遠出でなければ馬での移動は可能だ。護衛の騎士隊長グレムとも相談して、火食い山羊の牧場に向かうことにした。
日が高くなるにつれ、空はさらに青く見える。もうすぐ最も空が青い季節になる。
そんな期待で心が浮き立つ空に、二頭の銀鷲が力強く舞い上がる。巨大な翼が動くたびに銀粉のようなきらめきが広がっていく。じっと見上げていたトゥル様は、うっとりとため息をついた。
「あの翼粉は何度見ても不思議だよね。大きさ以外は鳥そっくりなのに、まるで蝶の鱗粉のようだから」
銀鷲は魔獣だ。
だから鳥に見えても鳥ではない。
その珍しさは私にも理解できるから、私もぐんぐんと高度を上げる銀鷲を見上げた。
銀のきらめきが見えなくなり、翼の裏側の青い色もわからないほど小さくなって、トゥル様は空から手綱を引いた馬へと目を移す。これから騎乗する馬は、お父様の所有する中でも最も美しい一頭だ。
その首を撫でて、トゥル様は私の格好にようやく気付いて目を丸くした。
「君は……馬には乗らないのかな?」
トゥル様は乗馬服を着ている。でも私は少しだけ動きやすい形ではあるけれど、基本はドレスと同じで乗馬服ではない。
ずっと隣にいたのに、やはり今まで気付いていなかったのかと呆れつつ、私はなんでもないことのように笑って見せた。
「私は乗馬は得意ではありませんので、馬車で失礼します」
「ああ、うん、それは構わないけど……」
「いつもの馬車より小型ですが、内装も頑丈さもいつものものと変わりません。帰りはトゥル様も乗っていただいても大丈夫ですよ。少し窮屈になりますが」
「では、念のために私の席を予約しておこうかな」
トゥル様は笑顔でそんな冗談を言って、私に軽く手を振って馬に向き直る。気を利かせた騎士が介助を申し出たようだけど、それを笑顔で断って、ひらりと馬にまたがった。
騎乗するお姿は、これまでも何度か見てきた。トゥル様は今日も全く危なげない。姿勢はごく自然で美しく、軽い手綱さばきで巧みに馬を操っている。
感心した警護の騎士たちが、思わず話しかけているようだ。トゥル様も彼らには明るい顔で応じている。
騎乗した姿も、スラリとしているけれどしっかりした体型も、騎士たちの中に溶け込んで見える。同時に、王都風の洗練された乗馬服を着こなした姿は極めて美麗だ。襟元には銀細工に擬態したカートルが誇らしげに揺れている。一つに束ねた金髪は、いつも以上に華やかに見えた。
「オルテンシア様が見惚れてしまうお気持ち、よくわかるわぁ!」
「ええ、いつもお綺麗な方だけど、一段と輝いて見えるというか……!」
「馬に乗った殿下は、いつもより二割り増しで素敵よね!」
「あら、私はアバゾルと戯れるいつもの殿下も可愛らしくていいと思う!」
若いメイドたちが、コソコソと、でも楽しそうにささやいている。耳がいい私は、メイドたちのそれぞれの言葉に思わず大きく頷いてしまいそうになる。
馬たちの足踏みの音に我に返った私は、妙に熱くなった顔を隠したくて、必要以上に急いで馬車に乗り込んでしまった。
騎士たちに先導され、私たちは牧場へと出発した。
上空には銀鷲がゆったりと円を描くように飛んでいて、周囲の警戒をしている。先頭は騎士だけれど、そのすぐ後にトゥル様が馬を進めていた。
私が乗っている小型の馬車は、その後を走らせている。
もし、トゥル様が馬を駆けさせたくなったら、周囲の状況が許せば自由に走っていただいていいとお伝えしている。きっと騎士たちも楽しく警護をしてくれるだろう。
今日のような天気のいい日は、きっと馬を歩かせると気持ちいいだろう。
幼い頃に馬に乗った時の記憶が蘇る。
お父様やお母様の馬に乗せてもらったこともあったけれど、あの頃はお父様の弟であるガザレスおじさまに一番多く乗せてもらった。
「……あのままだったら、私もトゥル様と一緒に馬で出掛けられたのに」
ふとつぶやいて、私は慌てて口を閉じた。
車輪が回る音に紛れて、向かいに座っているメイドには聞こえていなかったようだ。
私はごまかすために小さな窓から外を見た。
今日の馬車は小型だ。でもとても頑丈に作られている。たとえ危険な魔獣に襲われても、すぐには壊れない。
そのせいで、窓はいつもの馬車より小さい。と言っても、顔を寄せればそれなりに広い範囲が見えるから、特に不満はない。
あえていうなら、前にいるはずのトゥル様が見えにくいだけで……。
と、その時。
上空から甲高い音が聞こえた。
少し遅れて、周囲に強い風が巻き起こる。銀鷹が高度を落としてきたようだ。直ちに危険を知らせる笛の鳴らし方ではない。でも、何か警告をしているようだ。
すぐに、馬車の速度が緩やかに落ちた。
完全に止まると、騎士グレムが馬を降りるのが見える。メイドが扉を開けると、グレムは困惑したような顔をしていた。
この表情には見覚えのある。最近見たばかりだ。
「この道の先にアリアード子爵がおいでのようです。別荘に向かっているようですが、いかがいたしましょうか」
「……また、アリアードのおじさま?」
思わずそう言ってしまうが、グレムも全く同じことを思っていたようだ。わずかに苦笑を浮かべ、そっとため息をついた。
「ここは一本道ですから、まもなく遭遇します。回避しますか?」
今日は馬が中心だし、私の馬車も小型だ。脇道に外れていくこともできるだろう。でも……。
「何かご用があるのかもしれないから、お会いしましょう」
「仕方がありませんな。では、この先に少し開けた場所がありますので、そこでお迎えしてはいかがでしょうか」
「任せます」
「では、ご案内します」
グレムは再び騎乗して、部下たちに合図を送る。メイドが扉を閉めると、馬車もゆっくりと動き出した。馬車の中で少しだけ身支度を整えながら、私はトゥル様のお気持ちを思って、申し訳なさでため息をついてしまった。




