別荘での日々(3)
「……いつも思うけれど、君はとても目敏いね」
「あ、申し訳ありません!」
「とがめたわけではないよ。ただ、君の前では表情を出しすぎていることを思い知らされる」
トゥル様はふうっと大きく息を吐き、私に腕を差し出した。
屋敷の中へ戻るためのエスコートだと悟り、そっと手をかける。トゥル様は私が負担にならない速さで歩いてくれた。
「……アリアード子爵の娘は、どこに嫁いでいると言ったかな」
「エベルド家です」
「ああ、西の貴族だけど王都にいるね。子爵の息子も王都に住んでいるのだろうか」
「そう聞きました」
「そうか。だから……アリアード子爵は王都の訛りで話すのか」
聞き逃してしまいそうな、小さなつぶやきだ。
私が見上げると、真っ直ぐに前だけを見ていたトゥル様が苦笑した。
「私は王都の訛りを聞くと、緊張してしまうらしい。情けない話だ」
「それは……」
どう答えればいいのか、わからない。
言われてみれば、アリアードのおじさまはこの辺りとは違う話し方をする。ロディーナおばさまもそうだ。ロディーナおばさまは王都育ちだと聞いていたし、跡取りの息子が王都にいると聞いていたから、私はそういう人だと気にしなくなっていた。
でもトゥル様にとって、王都風のものは王宮時代を思い出してしまうようだ。せっかくおくつろぎいただいていたのに、申し訳ないことをした。次は、トゥル様に何を言われても絶対にお断りしよう。
その一方で、トゥル様の緊張は、ブライトルの屋敷では十分にくつろいでいただいていた証でもある。
だから……申し訳ないと思うのに、何だか嬉しい気がした。
「トゥル様」
私が声をかけると、トゥル様が私を見てくれた。
だから、私に合わせてゆっくり歩いてくれる「夫」が喜んでくれそうな提案をした。
「明日、火食い山羊の牧場を見にいきませんか? 馬でゆっくり向かうのに、ちょうどいい距離ですよ」
「……いいね。それはとても楽しみだ」
トゥル様は私が期待した通りに目を輝かせてくれた。
◇◇
残念ながら、私たちは火食い山羊を見にいくことはできなかった。
翌日から雨が強くなって、護衛のグレムが外出はおすすめできないと言ってきたのだ。
トゥル様はとてもがっかりしていた。
でも、幸いなことにそれほど落ち込んではいない。
雨が続いて三日が経つけれど、今日も書物庫から持ち出した書物を山のように積んで、読書に没頭しているから。
雨の音がかすかに聞こえる広い室内に、ぱらり、ぱらりと紙をめくる音がする。トゥル様は学者のような速度で書物を読み、時折メモを取り、襟赤栗鼠がもたれかかっている水差しから水を飲む。
周囲の床では、アバゾルが黄色い体をゆらゆらと揺らしながらゆっくりと動いている。夜行性のはずなのに、トゥル様が近くにいると昼間でもよく動くということも最近わかってきた。
そんなトゥル様と同じテーブルに私も座っている。
近隣の集落からの嘆願書に目を通し、私の裁量の範囲ならその場で判断を下す。お父様まで回す必要のあるものは取り分け、銀鷲によって上空から集めた情報もまとめておく。
そういう作業が終わった今日は、あまり得意ではない刺繍と格闘していた。
そうしているうちに、トゥル様が顔を上げて私にこう言うのだ。
「少し聞きたいことがあるのだけど」
王都周辺とは違う常識をトゥル様が私に質問し、私は可能な範囲でお答えする。私の答えで満足して書物に戻る時もあるし、別の方向に興味を掻き立てられて書物を閉じてしまう時もある。
この別荘は、トゥル様には快適なようだ。
そんなことを考えていると、トゥル様がふと顔を上げた。
また質問だろうか。
「何か気になることがありましたか?」
「いや、そうではないんだけど……」
トゥル様は床に目を向けた。
ゆっくりゆっくりアバゾルたちが同じ方向へ移動している。少し雨が弱くなったから、太陽の光を感じて窓辺に向かっているのだろうか。
私もつられたように、その動きを目で追ってしまう。
「……ここはいいところだね」
独り言のようなつぶやきが聞こえた。
顔を戻すと、トゥル様の視線は書物に向いている。でも私の視線に気付いたのか、顔をあげて柔らかく微笑んだ。
「私は、一生ここにいてもいいな」
「一生ですか?」
「銀鷲を見ているだけでも、退屈しないからね」
そんなに銀鷲が気に入ったのだろうか。
気に入ったのだろう。
今でも見かけるたびに目を輝かせて足を止めてしまうから。
トゥル様らしい。
私はつい笑ってしまった。
……でも、私は愚かだった。
トゥル様の言葉の表面上の意味しか気付けなかった。本当の意味を、私は後になって思い知ることになる。
わかったつもりでいたけれど、トゥル様のお覚悟を甘く見ていたのかもしれない。




