雨(3)
いつからだろう。
街に出掛けた時は、こんな顔はしていなかった。
その後は? 中庭で植物を見ていた時も何もなかった。雨が降り始める前まではごく普通で……ということは、雨が降り始めた後からだ。
「トゥル様、雨の日はお嫌いですか?」
思い切って聞いてみると、トゥル様は曖昧に笑った。
気が弱かったら流されてしまうだろう。意気込みすぎても受け流されていただろう。
だから私は、いつもより大胆に振る舞うことにした。
青花茶のカップを遠ざけ、立ち上がる。
「オルテンシアちゃん?」
いぶかしげなトゥル様の視線を敢えて無視し、私は座ったままのトゥル様のすぐ横に立った。
「ご無礼をお許しください」
私はそっとトゥル様の顔に手を伸ばした。
一瞬、トゥル様の手が動いた。でも腰に帯びた剣の柄に触れただけで、剣を抜くことはなかった。指先が頬に触れても私を突き飛ばすこともなかった。
でも、トゥル様の全身に緊張が走っている。私を切り捨てたい衝動と戦っているのか、意図を測ろうとしているだけなのか。
切られる覚悟は、一応した。
できれば、死なない程度でとどめてくれればいいと思ったけれど。
私は手に握っていたハンカチを、トゥル様の顔にそっと当てた。ゆっくりと丁寧に目の下の肌を拭っていく。トゥル様も私の意図を察したようで、目を閉じて私がやりたいようにさせてくれた。
左右の目の下を拭うとハンカチが肌そっくりの色に汚れ、クマが現れた。やはり練りおしろいをつかっていたようだ。でも……目の下のクマは思っていたよりかなり濃い。
「……眠れていないのですか?」
「少しね」
トゥル様は柔らかく微笑み、目を開けた。この距離で見ると、目もわずかに赤い。
私はすごい顔になってしまったようだ。
トゥル様は軽く瞬きをして、それから笑って私の手を取って椅子へと導いてくれた。
「心配させるつもりはなかったんだ。こういうのを隠すことが私の日常だったからね」
それは、王宮にいた時も眠れない日が続いていたということだろうか。それが日常だったなんて。
「私に、何かできることはありませんか?」
「ありがとう。でも、どうしようもないんだ。……雨が降っていると、音が聞こえにくくなるだろう?」
「あ……」
「外の音が聞こえない。近付く足音が聞こえない。異常が起こっても気付きにくい。周囲にも伝わりにくい。それが怖いんだ」
トゥル様の声はとても静かだった。
当たり前のことを語っているようだ。でも私にとっては当たり前ではない。喉の傷跡を見ていたはずなのに、私には想像力が足りていなかった。トゥル様がどんな日々を送ってきたのかを、改めて思い知らされた。
「ごめんね。ここは安全で、ブライトル伯爵は、義父上は警備を万全にしてくれている。それでも、体に染みついているんだ」
そう言って優しく笑ってくれたけど、トゥル様の顔は憔悴している。こんなお顔が日常だったなんて。
まるで、魔の森をさまよい続けた人のような顔だ。
……このきれいで穏やかな人のために、私は何をして差し上げればいいのだろう。
トゥル様が、控えているメイドにお茶のおかわりを頼む。
少し目が潤んでいるメイドの滑らかな手つきを見ていた私は、ふと思いついた。
魔の森のような恐怖と危険にさらされていたのなら、辺境流の護身を試していただくのはどうだろう? 安心していただけないだろうか?
私が考え込んでいると、トゥル様はまた首を傾げた。
「君は次期領主だったよね?」
「はい。まだ正式な承認は得ていませんが」
「ということは、君はこの地では最も重要な人物の一人だと思うんだけど、君の護身はどうやっているのかな?」
「護身用の魔獣を連れてきます」
「今も? 前に見た襟赤栗鼠のような?」
トゥル様が身を乗り出したけど、またすぐに不思議そうに首を傾げる。今日の私が毛玉や、それに似たものを身につけていないからだろう。
でも、私にはいくつかの守りがある。
……メイドたちすら知らないことも含めて。
全てを披露することはできないけど、一つだけお見せすることにした。
「これです」
私が「それ」を外して差し出すと、トゥル様は一瞬ぽかんとした。それから真剣な表情で、私の顔と「それ」とを何度も交互に見た。
私の手のひらの上にあるのは、耳飾りだ。
一見すると、よくある銀細工に見える。でも耳に固定する金具についた銀の輪からぶら下がっているのは、銀ではない。
光沢の強い銀色で、細く長く垂れ下がっている。
でも、その銀色のものは生きている。
長時間よく見ていると、つるんとした金属そっくりの体がまれに脈動するのがわかるし、触ればごくわずかに体温を感じる。
銀製の飾りのように見えるけど、これは我がブライトル一族が愛用する魔獣なのだ。




