雨(2)
トゥル様がお使いになっている部屋は、日当たりがいい客間だ。
窓は見晴らしがよく、食堂からも遠くない。
私も部屋の支度の手伝いをしたけれど、窓の外は足がかりのない壁で、警備の兵が最も頻繁に通る場所だ。さらに、壁までたどり着くためには日夜を問わず衛兵がいる場所を抜けていかなければならない。
トゥル様にはお伝えしていないけど、実は部屋の周辺は常に監視がついている。複数の監視が同時についているから、お父様の部屋より安全を保たれているだろう。
そんな厳重な警備を、できるだけ感じさせないようにしている。
でも、中庭に出る時以外はずっと部屋にいるから、もしかしたらトゥル様は気付いているかもしれない。
「トゥル様、少しいいですか?」
ノックをして少し待つ。
この部屋の鍵は持っているし、トゥル様からも勝手に入ってもいいと言われてはいる。待つのは私のけじめだ。もしお休みになっているとか、読書に熱中しているなら、そのまま戻ろう。そう考えていたら、扉が開いた。
驚いていると、トゥル様は笑った。
「そんなに驚いて、どうしたのかな?」
「お休みになっているか、声をかけていただくくらいだと思っていたので……」
「オルテンシアちゃんが来てくれたのに、そんなそっけない態度はできないよ。もしかして、今日は何か私に関する予定が入っていた?」
呼びにきたのかと思ったらしい。
私は慌てて否定した。
「違います! ずっとお部屋にいるから、気晴らしにお誘いしようと思っただけです!」
「気晴らし?」
首を傾げたトゥル様は、私を中へと通してくれた。
部屋の中は、私が整えるのを手伝った時と少しも変わっていなかった。古いけど我が家で一番上質な棚は高価なガラスを使っていて、お酒と銀杯、それに翡翠を彫り上げた文鎮などを飾っている。テーブルは深い暗紅色のキバロウの板にモラ貝の象嵌を施したもので、暖炉の前の一番心地よい場所に置かれた椅子は黒牙牛の革を使っている。
辺境独自の動植物に興味を持っていると分かってからは、壁にはブライトル領の風景画を飾るようになった。今は別荘のある辺りの風景を描いたものだ。
でも……。
私はメイドが運んできたお茶を飲みながら、もう一度部屋の中を見た。
書き物ができる机には、我が家の図書室にある本が何冊も積まれているし、椅子の位置は私が見た時から変わっている。
(でも、なんというか……ここで生活している感じがない気がする)
私たちが用意したもの以外は、トゥル様の好みが見えない。
もう半年もここで生活していただいているのに。
「……何か、不足しているものはありませんか?」
「ん? 何も困ることはないよ。居心地よく整えてもらっているし、この部屋は見晴らしもいい」
「それならいいんですが……」
トゥル様が笑顔だから、私も食い下がりにくい。
だから、本来の目的を思い出すことにした。
「実は、トゥル様を書物庫にお誘いしてみようと思って参りました」
「書物庫?」
最近気に入っているらしい青花茶を飲んでいたトゥル様が、わずかに眉を動かした。
この感じは、興味を抱かれたようだ。
私は少しだけ身を乗り出した。
「我が領内の魔獣に関する記録が、書物庫に集めてあるんです。植生についての報告書もありますから、トゥル様も楽しんでいただけるのではないかと思うんです」
「それは面白そうだけど、その書物庫はどこにあるのだろう? この屋敷の図書室では、そう言う感じのものはないようだけれど」
「我が家の別荘です」
「……別荘」
トゥル様が壁を飾る絵を見た。
少し身を引いた雰囲気になったので、私は急いで言葉を続けた。
「別荘ですから、ここからは少し離れていますが、馬車で半日くらいです。周囲には火食い山羊の放牧地もありますよ!」
「火食い山羊、というと赤い壁の? それは気になるね」
トゥル様は今度ははっきりと興味を示してくれた。なのに、なんとなくためらいを感じる。見に行きたいとは言ってくれない。もっと積極的に「すぐにでも見たい」と言い出すと思っていたから、私は戸惑ってしまった。
どうしたのだろう。
「トゥル様、もしかして、体調が良くないのですか?」
「そんなことはないよ」
トゥル様は笑ってそう言ったけど、その笑顔にも何か違和感がある。
私はじっとトゥル様を見つめた。
端正なお顔立ちで、髪は相変わらず明るいハチミツ色に輝いていて、困ったように私を見返す目は青みが強く見える緑色だ。
でも何かがおかしい。
(……あ、目の下のあたり、少し肌の色が違う?)
お化粧のように肌に何か塗っているようで、はっきりとはわからない。でも、少し違和感がある。間近で見て、やっと気付くか気付かないかくらいの差だけど。
でも、私はこの屋敷でトゥル様が明るく笑っている顔ばかり見てきた。そんな時の肌と比べると、やはり今日のトゥル様は違う。
雨が続いて少し暗かったから、いつもと様子が違うことに全く気付いていなかった。




