ミネの実(1)
朝、身支度を終えた私は、食堂へ行く前に少し待つ時間を作ることが新しい習慣になっていた。
天気がいい日は、トゥル様のお世話を担当するメイドが不在でいることを知らせてくれるから、それを待ってトゥル様を探しに行く。
トゥル様はだいたい中庭にいて、そこで植物やおとなしい魔獣を観察している。
この地に来て三ヶ月が過ぎたというのに、相変わらず辺境地区の植物への興味は尽きていないらしい。
今朝も、よく晴れているからきっと中庭に行くだろうと予想していた通り、メイドは不在の知らせを伝えにきた。
最近は私が身支度を終える頃合いに、様子をうかがうために入室するようになったらしくて、ほとんど待つ必要はなくなった。
今日は何を見ているのだろう。
昨日は花の蜜に集まる虫を見ていた。虫も王都近辺とは違うのかと思ったら、全く同じらしい。では、なぜそんなに熱心に見ていたのかと聞くと「こんなにゆっくり見たことがなかったから」と答えが返ってきた。
トゥル様は笑っていたけれど、私はまた背筋がヒヤリとした。
第二王子として生まれ、庶民出身の女性を母親に持つトゥル様は、幾度となく命を狙われてきたらしい。喉には命に関わる寸前の傷跡が残っている。
そういう方だから、のんびり虫を見る暇もなかったのではないかと気付いたのだ。
王都の植物に詳しいのは周囲をよく見ていたからだろうし、以前見せていただいた図鑑には毒の有無も書いていた気がする。そういう意味で草一本であろうと常に気にしていただろう。
植物は動かないから安全だし、絶対に裏切らない。
だから、トゥル様は植物が好きなのではないだろうか
と言っても、ここ辺境地区では、植物に見えても魔獣だったり、夜の間に動き回ったりするのだけれど。魔獣と植物の境界が希薄なこの地は、トゥル様には驚愕の連続のようだ。いつも目をキラキラと輝かせている。
部屋を出て歩きながら、私は目をまん丸にするトゥル様を思い出して、こっそり笑ってしまった。
「オルテンシア」
不意に名前を呼ばれ、私は慌てて足を止めて振り返る。私付きのメイドも急いで脇に避けた。
お母様だ。
いつも通りの帯剣した姿で、足早にやってくる。
まっすぐに伸びた美しい姿勢に、美しいお顔。贅沢なドレスを着てもきっとお似合いだろうと思うけれど、お母様は華やかだけど丈夫さを重視した伯爵軍翼竜騎士の服を着ている。
今日は、これからどこかへ視察に行くのだろうか。長距離飛行用の厚手の外套も身につけていた。
そのお母様が、私のところへとわざわざ歩いてくる。
きっと急ぎの用があるのだろうと、私はお母様を待った。
「おはようございます。お母様」
「おはよう、シア。……少しいいかしら」
お母様はチラリと周囲に目を向ける。人払いと察して、壁際によって控えていたメイドがさらに離れていった。
「少し、あなたに聞きたいことがあるのです」
「何でしょうか」
「あなたたちは、今もうまくいっているように見えるけれど」
お母様は少し迷いながら、そっと聞いてきた。
一瞬、何のことかと首を傾げ、それから私とトゥル様のことをまた案じているのだと気がついた。
「うまくいっているかどうかはわかりませんが、引き続きトゥル様はくつろいでいらっしゃると思います」
「そうですね、私から見ても、殿下は心穏やかにお過ごししているように見えます。でもシアの方で、何か困ったことはない?」
「困ったこと……というほどのことはありません」
「本当に?」
「私は今まで通りに過ごしているから、何も……あ、でも少し心配なことはありました」
「何? 私にだけでいいから、話してみなさい!」
真剣な顔のお母様は、ぐいぐいと身を乗り出してくる。
思わず体を反らしてしまったけど、お母様が私を心配してくれているのはわかっているから、笑ってみせた。
「深刻なことではありません。ただ、トゥル様はずっと屋敷にいて、外出していないなと思って」
「……それだけ?」
「はい。でも、私、男の人がずっと屋敷の中で過ごしているのは見たことがないでしょう? とても楽しそうに見えるけれど、本当は退屈な時もあるかもしれないと思って」
「シアは優しいですね。でも……確かに殿下は、屋敷の外には出ていない。やはり気を遣っていらっしゃるのかもしれない」
スッと表情を消し、お母様は考え込む。
優しくて熱心なお母様から、冷静な為政者の顔になっている。お父様が王都へ向かっている間の期間は、お母様がこの地の領主代理だ。だからお母様はとても冷静にもなれるのだ。
少しして、お母様はまた私を見た。
豊かな表情が戻っている。
「そろそろ、殿下を外へお連れしてみてもいいかもしれませんね。シア、あなたから殿下をお誘いしてみてごらんなさい。急に遠出となると準備が難しいけれど、まずは薬草園のホバ池の辺りはどうかしら。今の時期なら、鳥たちがヒナを連れているはずです」
「それはいいですね! ……あ、でも、トゥル様は鳥はお好きかしら」
「魔獣が平気なら、鳥も平気でしょう。視察の口実で街に出るのもいいかもしれない。確か乗馬はお得意だったはずだから、そのうち、お一人での外出もお薦めしてもいいかもしれませんね」
お母様も、色々気を遣っているようだ。
私の前ではのんびりした人だけど、トゥル様は第二王子殿下。王位から最も遠いとはいえ、公式に認められた王族だ。気を遣うなという方が難しい。
それに……。
「万が一にも殿下の御身に何かあると、それを口実に領地の没収や攻め込まれる可能性もありますからね。こっそり護衛はお付けすることになるけれど」
お母様はため息をつく。
でもすぐに笑顔になって、私の背をぽんと押した。
「さあ、今朝も殿下をお探ししにいくのでしょう? 今日のパンはミネの実入りですから、急いだ方がいいのでは?」
「はい!」
大好物のパンと知って、私の足は自然と早くなる。
廊下の角を曲がる時に振り返ると、お母様はとても優しい顔で微笑んでいて、目が合うと革製の手袋をはめた手を振ってくれた。




