植物図鑑(3)
密かに青ざめていると、お父様がふうっと長いため息をついた。
「それは、トゥライビス殿下を図書室にご案内したい、ということだな?」
「は、はい」
「それなら、問題はないぞ。大した書物は揃っていないが、王都にはない本もあるはずだ。ご案内して差し上げなさい」
「ありがとうございます」
私はほっとした。
これで、トゥル様の退屈しのぎの場が増えた。
トゥル様の図鑑には劣ってしまうけれど、この辺りの植物を集めた本には絵がたくさんあった。学術的にはどうかわからないけれど、人間や動物と一緒に描かれていたのでわかりやすく、飽きっぽい従兄弟たちにも人気があった。この地のあらゆるものが珍しいトゥル様なら、そのわかりやすい比較がかえって興味を持っていただけるだろう。
そんなことを考えていると、お父様が何やら咳払いをした。
「……その、お前に聞きたかったのは、そのことなんだ」
「そのこととは?」
「つまり、トゥライビス殿下とのことだ。……メイドたちからは、良い関係のようだと聞いているが、実際はどうなのだろうと思ってな」
お父様は相変わらず目を逸らしているが、お母様は私をじっと見ている。
私の表情を見逃すまいとしているようだ。
ああ、そうか。
そういえば、私とトゥル様が結婚して一週間が過ぎていた。
「お前と殿下が、それなりに和やかに会話をしているようだとは聞いている。いや、会話の盗み聞きまではしていないぞ! だが殿下の御身は守らねばならないし、お前は領主の跡取りだからな! どうしても見張る形になってしまうのだ! 万が一、白い結婚を守らない不届な振る舞いをしようとするなら、その時は速攻で魔の森に……!」
「ブライトル伯爵。その軽すぎる口を今すぐに閉じてください」
早口になりかけていたお父様が、ぴたりと黙り込んだ。お母様の声には、そうするだけの迫力がある。
そっとお母様を見ると、恐ろしく冷え冷えした目をしていた。
夫婦喧嘩は、私がいないところでしてほしい。
(それに……魔の森にどうすると言おうとしたのかしら。少し、いいえ、ものすごく気になってしまうのだけれど……聞かない方が良さそうね)
私は心の中でため息をついた。
でも、お母様もお父様の言葉を否定はしていない。
気持ちは同じなのだろう。いい機会だから、話をしておくべきかもしれない。
「お父様。お母様。心配してくれてありがとうございます。でも、今のところは悪い関係ではないと思っています」
「……本当にそうなのか? 無理はしていないか?」
口を閉じろと言われたのに、お父様はまた身を乗り出してきた。でも今度はお母様も睨まない。むしろ、お母様の方が大きく踏み出してきている。
「実際のところは知りませんが、トゥライビス殿下は私の前ではとても穏やかな方です。植物のことを熱心に聞いてきますし、その、魔獣についても偏見があまりないように思えます」
「……ああ、アバゾルの件は聞いているぞ。ご立腹ではないと聞いて安心している」
「触りたいと思っても、我慢するだけの理性と常識はあるようですから大丈夫かと……お父様?」
私は驚いて口を閉じた。
お父様が目をまん丸にしている。横を見れば、お母様も目をまん丸にしていた。似たもの夫婦というべきか、遠い血縁があるから当然と思うべきか。
でも先に我に返ったのはお母様だった。
「殿下は、アバゾルを触ったのですか?」
「はい。私も触ったことがあると申し上げてしまいましたので、お止めできませんでした」
「ああ、シアはよく触っていましたね。好奇心旺盛で、見慣れない魔獣を見つけてはしゃがみ込んで……おや、シア、どうしたの?」
「……私も、しゃがみ込んでいたのですか?」
「ええ」
「トゥル様もよく座って見ているんです。あれは普通の反応なんでしょうか」
「そうですね、普通とは言いませんが、辺境地区の子供にはありがちですね。不用心に触る子は長生きできないだけで」
お母様はそう言って、懐かしそうに微笑んだ。
きっと私の幼い頃を思い出しているのだ。そういえば私も、幼い頃はよく魔獣を見つけてはメイドたちを慌てさせていた。
でも子供は、だいたいそんなもののはず。
だから、きっと、恥ずかしいと思わなくてもいい、はずなんだけど……。
頬が熱い。
つい目を逸らしてしまった。
逆に、お母様はぐいぐい身を乗り出してきた。
「それでシアは、あの方を『トゥル様』とお呼びしているのですね?」
「そう呼べと言われましたので。……王都では、短い呼称が一般的なのかと思ってみたのですが、やっぱりおかしいことでしょうか?」
「うーん、一般的とは言いませんが、おかしいというほどでもなく……。でもあの方がそうお望みなら、この地ではトゥライビス殿下ではなく『トゥル様』として生きていくおつもりなのかもしれませんね」
お母様は静かにそう言って、お父様を見やる。
冷静な領主の顔で何かを考え込んでいたお父様は、軽く息を吐いて私にニヤッと笑った。
「まあ、お前は気にしなくていい。あの方なりのご配慮だろう。ただし、不埒なことをされそうになったらすぐに知らせるのだぞ。たとえ貴きお方であろうと、若造に舐めた真似を許す私ではないからな!」
「お父様……」
時々、お父様はとても豪快なことを言う。またお母様に睨まれているというのに、お父様は今度は気づいていないふりを押し通してしまった。