第2話 急転直下の阿鼻叫喚
王のためか、娘のためか。
いずれにせよ、剣聖ボードシュタイン公爵は剣を抜かんばかりの怒りに震えていた。実際に右手はすでに柄に置かれている。
「いかに勇者といえど、事と次第によっては――」
しかしノアーシュもまた一歩も引かない。
「師よ。申し訳ありません。それでも私は愛に生きとうございます。――すまない、ファルシール。キミとのことはなかったことにしてくれないか」
「……」
ファルシールの視線はアシュレイを捉えたままだ。眼球が徐々に血走ってきている。着飾ったドレスの横で手の色が変化するほどに拳を握りしめ、いまにも射殺さんばかりの視線で田舎娘のアシュレイを貫いている。
だが当のアシュレイは田舎娘特有の無邪気さで事態を正確に理解していないのか、その視線を受けてもニコニコしている。
王は大いに焦った。
「あわわわ……」
そもそもこのラムダ王。連綿と続く王家の血筋ではない。
なぜならば二〇〇年前の魔族大侵攻によって、ラムダ王家の血筋はすでに途絶えていたのだから。つまりは復興後に貴族間でのみ行われた選挙によって選ばれただけの、元侯爵位の貴族に過ぎないのだ。取り柄と言えば人畜無害、人の好さくらいのもの。
それゆえのノアーシュへの王位譲渡であったのだが、かくなる上はいかにしたものか。想定外だらけの出来事に右手の人差し指から小指までをすべて口に突っ込んで、オロオロするばかり。もとより王の器ではない。
そのような体たらくゆえ、同じく兄の戴冠によって侯爵位から公爵位へと繰り上がった英雄ボードシュタインが代わりに告げる。
濃密なる殺気を、その全身より立ち上らせながら。
「ではノアーシュよ。王の決定に従わず、列国の前で恥を掻かせ、ラムダの正当王位継承者である我が娘ファルシールを蔑ろにしたおまえには、何も申し開きはないというのだな?」
「ええ。ありません。師よ」
チリ……。
空間が焦げ付いた。
「兄者、いや、ラムダ王よ。しばし目を閉じていてください。あなたの城を穢す愚行にお許しを――」
「え?」
静かにそう告げた直後、ボードシュタインはラムダ王の返事を待つことなく腰の剣を抜いて、謁見の間の赤絨毯を蹴った。
裂帛の気合いとともに、ノアーシュの頭部へと上段から刃を叩き落とすべく。
「――おおッ!!」
だがその彼の頬を背後から灼き裂いて、白き魔法が雷のように走った。
「な――っ!?」
驚いたのはボードシュタインだ。
ノアーシュもアシュレイも微動だにしていない。この場に彼らの味方はいない。ならば何者が魔法を放ったのか。追撃を警戒して自ら体勢を崩し、ボードシュタインは肩から赤絨毯に転がるも、すぐに膝を立てた。その目が大きく見開かれる。
「ファルシール!?」
背後からボードシュタインの頬を灼いた光の雷は、なおも空間を突き進み彼を置き去りにして禍々しき竜の形状を取る。
魔法の性質変異だ。炎や雷がその姿を変じるなど、選ばれし一部の魔法使いにしかできない所業である。
ファルシールが若くしてアスタルシア教の聖女に選出されたのには理由がある。いや、正しくは理由などない。持って生まれた天賦の才だ。父ボードシュタイン公爵が剣の才を持って産まれたのと同様に、ファルシールには幼き頃より光を操る才能があった。
だがゆえのアスタルシア教への入信。そして当然のように聖女として選ばれた。最初からその道筋に乗っていた人生だ。
ファルシールの生み出した竜が、雷轟とともに迸る。
人を丸呑みできそうな大口を開けた竜は、赤絨毯を焦がしつけながら空間を凄まじい速さで突き進み、ノアーシュ――の隣にいるアシュレイへと襲いかかった。
「……っ」
アシュレイの、子供のように愛らしい大きな目が、さらに大きく見開かれる。驚愕と恐怖に。
いいや、違う。
歓喜だ。
アシュレイの口角が吊り上がった。大きく。禍々しく。
「……あっは! いいねえっ!!」
子供のような無邪気から、邪なる気を含んだものへと豹変して。
まだ成長過程にある右手が挙がった。黒の雷が弾ける。黒の雷は小さな彼女の頭上で巨大な掌へと形状を変えて、襲い来る白の竜の頭部へと叩きつけられた。
白と黒の魔法が混ざり合い、ぶつかり合って雷轟を響かせながら、赤絨毯へと叩き落とされる。
「でも、まだまだ甘いよぉ」
爆発と、そして爆風、轟音。絨毯は弾け飛び、石床がふたつの魔法に抉られて、爆風に乗り飛礫となって飛散する。
ラムダ王も、アスタルシア教の教祖も、この場に集った大臣貴族の歴々も、等しく吹っ飛ばされて背中から転がった。
その中心点でアシュレイが微笑む。ニタリと。
「あと、幼なじみマウントとか、今時ダッサいんでやめてもらっていいですかぁ?」
剣を床に突き立てて暴風に耐えたボードシュタインは、険しい視線を上げた。
「ぬうッ」
濛々と立ちこめる黒煙と砂煙の中、涼しい顔をしているのは三名のみ。
父の頬を掠め、アシュレイの命を奪うべく白の神聖魔法を放った聖女ファルシールと、その魔法を黒の魔法で叩き潰したアシュレイ。そして未だ微動だにしていない勇者ノアーシュのみ。
アシュレイが笑いを堪えたような声を出した。
「あ~あ。王さまんちをこんなにしちゃってぇ。い~いのっかな~? ファルシール・ボードシュタイン嬢は、おとなしい貞淑さだけが取り柄のつまらない深窓の令嬢だってノアから聞いてたんだけどなー。とんだお転婆じゃん」
あまりの豹変っぷりに、ラムダ王が口をパクパクさせた。
白と黒の魔法がぶつかり合った謁見の間の中央には、奈落へと続きそうなほどの大穴が空いてしまっている。
戦慣れしているボードシュタイン以外は、みなすっ飛ばされたときの体勢のまま、腰を抜かしていた。
「ねえねえ、どういうつもりかなあ? 公爵令嬢さぁ~ん? わたし、知らないよ~? そっちが先に吹っかけてきたんだからねえ?」
「それも、先ほどの言も、こちらの台詞ですわ。ノアーシュはこの国の王となられる殿方。何も背負っていない田舎娘のあなたには似合いませんことよ。おとなしく故郷に帰りなさいな。いまならまだ命だけは奪わずにいてあげますわ。あと、呼び捨てマウントなんて勘違いも甚だしいですわよ」
ファルシールもまた、冷然と微笑む。冷たく尖った氷のナイフのように。
それでもアシュレイは。
「えー? やだー! 帰りませ~ん! ノアはわたしといたいって言ってくれてるじゃん。本人の意思は無視なの? それに何も背負ってないとか失礼だなー。背負ってるよ。――ノアからの“愛”をさァ」
挑発行為を返した。
ファルシールが再び腕に白の雷を纏った。それも今度は両腕にだ。ラムダ王と大臣貴族らが顔色を変えた。巻き込まれたら今度こそ死んでしまう。
ラムダ王が慌てて叫ぶ。
「ま、待て! やめよ! ファルシール!」
だがファルシールは意にも介さない。
「あの世で後悔なさい、田舎娘。――アスタルシア教大聖女ファルシール・ボードシュタインの名において命ずる。光よ、激竜となりて彼の者の喉笛を喰い破れ」
「あっは、やってみなよ! 世間知らずのお嬢さん!」
雷轟とともに生み出された白き竜が、再びアシュレイに放たれた。
誰もが息を呑む。先ほどの竜よりも一回り以上でかい。それも二体同時だ。まさに天才の所業。あれらが直撃などしようものなら、謁見の間の壁どころか王城の中枢さえ粉砕されてしまうだろう。
ところがアシュレイは再び黒の雷を両腕に宿すと、解き放たれ襲い来る白き竜の鼻面へと両手を置いた。否。雷竜の鼻をつかんだ。
「ふ~ん。箱入りの割にはやるじゃん」
しかし防ぎきれない。
白き竜はアシュレイの手で暴れ回り、黒の雷を食い荒らす。両足の小さなブーツが、赤絨毯を掻いて徐々に押されていく。
アシュレイの頬が微かに引き攣った。
「……ッ……、ちょっとだけ本気で遊んであげよっか……ッ」
「それが哀れで惨めな強がりではないのなら、好きにやってみなさいなっ」
その攻防から弾き出されたいくつもの小さな二種の雷は、さらに砕けて無数の落雷となり、赤絨毯のそこかしこに落ち始めた。
当然、絨毯だけではない。腰を抜かしたままの大臣貴族らにも、アスタルシア教の教祖にもだ。
「ひぎぃ……っ!?」
「やめい、やめい!」
「よ、よさぬかー!」
這いずり回ってこの場から離れようとするラムダ王の尻にさえ、魔法は落雷となって叩きつけられる。
「ぎゃぅんっ!? あひん……」
だが頭に血を上らせたファルシールも、混沌と化した事態を楽しんでいそうなアシュレイも次々と魔法を放ち、そして防ぐ。その攻防によって魔法は散り散りになり、周囲の被害を拡大させていく。
絨毯から火の手が上がった。かろうじて正気を保っている貴族らが、大慌てで踏み消している。
もはや謁見の間は阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
そんな中でも、英雄ボードシュタインは冷静だった。
この事態を収めるべく、抜き身の剣を持って走る。片膝をついて頭を垂れた体勢のままの弟子、この騒動の核となっている勇者ノアーシュを斬り捨てるべくだ。
確かにこの少年は成長し、強き青年となって帰ってきた。魔王をも討ってだ。
だが、だからといって王すら危機に陥れる女を連れ帰り、あまつさえ我が愛娘を愚弄するかのような態度を取っている。
――赦せぬ!
前者か後者かでいえば、後者が赦せない。
己は酒浸りになりながら身を切る思いでこの糞餓鬼に娘を嫁がせる決意をしたというのに、言うに事欠いていらないだと? ふざけるでないわ! うちの娘になんの不満がある!? 平民上がりの野良犬が鍛えてやった恩すら忘れ、どこの馬の骨かもわからん小娘を真実の愛だなどと抜かす!!
愛の化身はこの世界にただひとり! 女神アスタルシアに勝るとも劣らぬ我が娘のみ!
見ろ、私のファルシールたんはいまにも泣きそうな顔をしているではないか! そんな健気な姿もまたきゃわいい~!
――ゆえにノアーシュは殺す!
これ幸いとばかりに純度最高品質の私怨から繰り出された必殺の一撃は、しかし目にもとまらぬ速度で抜き放たれた黒き刃の禍々しき剣によって受け止められた。
勇者ノアーシュ、ついに動く。