眠い
扉の外、夢の外。
無意識の意識だけが漂う無限の空間。
ついさっき別れを済ませたことが、遙か昔のことに感じるように、時の流れが無茶苦茶だ。
儂はゲイザーを引き連れ、周囲に対して感覚を研ぎ澄ます。
ゲイザーと関わりのある欠片を探すにはこうして地道にやっていくしかない。
しかし、まあ、何と手のかかる弟子だっただろうか。
狂死郎やリゲルより、よっぽど優秀だと思っていたのだが。
細かい欠片は、精霊王の夢からはそう遠く離れていないところに散らばっていた。
これをあといくつ集めれば、ゲイザーの自我が戻るくらいに回復するのか見当もつかないが、とにかく集めよう。
小石程度の大きさの光る粒子を掴み、ゲイザーの胴体に押し込む。
――何の反応もない。
そんな行為を何度続けたか、もうわからない。
儂は体内時間が二十四時間を過ぎると同時に記憶を改ざんする魔女文字を自分に仕掛けた。
やったというおぼろげな記憶だけが残る。
しかしそれが何日目で、何週間、何カ月目なのか、正確に理解することはできない。
あるいは、すでにもう数年が経過しているのかもしれない。
この混沌とした世界で狂わずにいられるたったひとつの方法は、理解しないことだ。
ただただ、目の前の行動を繰り返し行うこと。
思考を極限まで薄め、無心に徹すること。
それを永遠に徹底できる人類は、儂ひとりだけだろう。
次第に過去のことも思い出せなくなる。
しかしそれは問題ない。
最終的な目的を果たせば、全ての記憶は取り戻せるよう仕込んでいる。
もちろん、この外の世界の記憶だけは捨て置くつもりだが。
ある時、ゲイザーにわずかながら反応があった。
有刺鉄線の巻かれた頭から、わずかなうめき声が聞こえたのだ。
知覚が戻っては面倒だと思っていたため、儂は彼の感覚器官を全て奪っている。
だから何かに反応したのではなく、内側の精神が戻ってきたのだとわかる。
小石のような欠片をどれほど集めたかわからないが、周囲にはもうほとんど残っていなかった。
このまま少し離れたところまで行ってもいいが、戻って来られる保証がない。
再三言っているが、儂は死ぬためにここへ来たのではない。
あくまでも、生きて戻ることが前提なのだ。
そこで踏ん切りをつけることにした。
今ある分だけでも、十分ではないだろうか。
彼が彼を構成する要素は、目測だが、半分くらいは集まっただろう。
それに、元のゲイザーのまま戻すつもりはなかった。
思想や主義がそのままなら、また事件を起こす可能性があるからだ。
この状況は、儂にとって都合が良かったのだ。
このまま連れて帰ろう。
欠片の収集と自分の安全を天秤にかけ、そう決めた。
儂は早速、新しい世界を作るための下準備に入る。
世界とは、種子のようなものだ。
儂はこれから植物のような性質へと変化していかなくてはならない。
ここで言う『植物』とは、実際の植物のことを指しているのではない。
一切の感覚を閉ざし、自らの内のみで全てを完結させる状態を指す。
そうして情報の膨張とろ過を繰り返し、やがて純粋な生命の塊へと姿を変える。
それがようやく、新たなる世界の種子となるのだ。
儂は事を始める前に、今の自分の分身体、この身体の持つ情報をそのまま複写した魔力の塊を作り出した。
これが儂のバックアップとなる。
儂自身は今から高次元の存在へと変化してしまうが、この残した情報が儂として、世界に下り立つ。
外から見れば、個体の連続性は失われない。
ゲイザーの情報も紐づけておく。
こうしておけば、新たな世界でもこいつと同じ場所に出られるはずだ。
儂は儂で、種子となるための文字を描く。
使用する魔女文字は三十。
これは存在する文字全てだ。
全てを身体の各所へ書き終えると、身体の芯が凍え始める。
話だけは聞いていたが、まるで極寒の中に放りだされたようだ。
これほどの苦しみに百時間耐え抜いたあと、次は灼熱の時間が訪れる。
その次も、その次も。
存在するありとあらゆる痛みと苦しみが、百時間を周期に、儂の魂を襲うのだ。
そして最後まで自我を失わず耐えきれたなら、儂は種子として完成する。
光もない、音もない世界で、ひたすら、魂の苦痛に耐え続ける。
記憶をいじり、ひとつの責め苦が終わるたびに、前の痛みを消去する。
この痛みで死ぬことはないことを知っているだけで、儂は優位に立っている。
これは己の精神の摩耗との勝負というだけではない。
儂の持つ技術を用いて最後まで生き残る戦いなのだ。
全く、厄介なことを引き受けてしまったものだ。
うまく口車に乗せられたのだ。
儂はイライアを助けてやりたいと思い、彼女の願いを成就させるために手を貸してしまった。
初めて会った時に思った。
彼女には支配者の素質がある。
時代さえ違えばその力と他人を誑かす能力を使って王になっていただろう。
シーリントルは、すでに昔の彼女とは違う。
今は、精霊術師の体を成した戦士だ。
イライアが王となったなら、その近衛として活躍もできただろう。
ふたりがそうやって、大人になっていく様子も見てみたかったものだ。
その未来を奪ったのは儂だ。
この件に巻き込むべきではなかった。
最初から儂ひとりでセンを追い、五星団を潰していれば、彼女たちの人生はどのように変わっていただろう。
そう考えると、自責の念が沸く。
そもそも、儂は自分が他人に影響を与えるということが、あまり好きではない。
むしろ、嫌いというまであった。
だから、儂は、儂を慕うものたちを振り払い、隠居したのだ。
どれだけ羨ましがられようと、どれだけ慕われようと、儂の心は満たされなかった。
他人の評価軸と自己の評価軸が違うと気がついた時、どれだけ絶望したことか。
その点に関して理解し合えたのはシュナだけだった。
彼女もまた、自分の目標が他人とは違うところにある人間のひとりだった。
シュナとの出会いは学生のころだったが、卒業後もそれほど密にやり取りをしていたわけではないのに、なぜか細く長く、縁が続いた。
数年に一度手紙を送っても返事が返ってくることは稀であったし、それはこちらも同じで、来た手紙に返事を書くことは稀であった。
なぜだろう、と今になって疑問に思う。
しかし、おそらくそこに明確な理由などないのだ。
儂とシュナの距離感はそれが丁度よかったのだ。
すでに魔力の源へと還った彼女にしばし思いを馳せる。
肉体に保存された記憶とは不確かなものだ。
いくらでも自分に都合のいいように作り変えられる。
だからこそ、思い出は綺麗なのかもしれない。
永久に同じ景色ではないからこそ、なのだ。
――苦痛は続く。
思考を辞めないことだけを、考える。
自我とは思考であり、認識だ。
可能な限り、儂は儂であり続けること望む。
たとえばそう、今と違う未来があったとして、儂はどういう行動をとっていただろう。
もしも森の中でセンと出会わなかったら、儂は現代の社会を学ぶため、学校にでも通っていたかもしれない。
そこはイライアやシーリントルと同じところで、同じ教室で授業を受け、互いに切磋琢磨した未来があるかもしれない。
それを望んでいるのだろうか。
儂自身、今の彼女たちとの関係を心地よく思っていることは確かだ。
師ではあったものの、関係は対等だったと、儂は思う。
次第に、思考に霞がかかっていく。
まるで酒におぼれているみたいだ。
酒といえば、初めのころは何度か大きな失敗もした。
酔って召喚した精霊たちが暴れ、店を何軒も潰してしまったこととか。
もちろん、あとで修繕はした。
そのおかげで家屋の修理が得意になったと言っても過言ではない。
頭の回転が鈍る。
思い出はおぼろげになっていく。
全てが分厚いガラス越しになったような、もう、色しか見えない。
――眠い。
死ぬ、とはこのような感じなのだろうか。
気持ちが良い、とは少し違うか。
ぬるま湯に浸かっているような、浮揚感。
感覚を閉ざしている今の状態では、それもよくわからないが。
全てが、遠ざかっていく。
感覚が無限の広がりを持ち始めた。
理解が、できなくなっていく。
個の思考が薄らいできた証だ。
儂はすでに人の形を保ってはいなかった。
大きなひとつの種子となり、そしてその周囲には、広大な支配領域がある。
何を、やるのだったか。
そうだ。
新しい、世界、を。
ゆっくりと領域を引き延ばす。
大きく、包む。
隙間なく『それ』を完全に包み込んだ時、儂の、私の、僕の、個人の意識は、完全に消失した。




