あとでまた謝るから
ゲイザーの身体は、まるで熟れた果実のように大きく膨らんでいた。
両手の内側の筋肉が膨れ上がり、その膨張に対応できなかった皮膚が割れている。
その割れ目から染み出ているのは、ゲイザーの頭部から染み出ている粘液と同じものだ。
先程までセンが相手にしていた彼とは、すでに別人の様相を成している。
見た目と雰囲気だけでなく、身に纏う魔力の流れも違う。
「で、アレは何? 聞いていた話とは随分違うみたいだけれど」
イライアがゲイザーから目を離さずに言う。
事前の情報共有でゲイザーの特異な見た目について伝えていたが、魔法については伝えていない。
それは彼が動けない状態にあるという前提があったからだ。
「……特殊な状況になった。俺が言っていたことは忘れてくれ。まずはゲイザーを動けないようにしないと連れて行けないぞ」
「あー、そういうの得意だから大丈夫」
「イライアちゃん、あの人たぶん強いよ。危ない匂いがする」
「わかってるわよ。さっきから変な魔法使ってるでしょ」
ふたりは彼のことを直感的に理解できているようだ。
余計な先入観は与えない方がいいかもしれない。
「ああ、やる前に聞いておくけど、あなた、回復魔法は使えるのよね?」
「まあ、多少な。死んでなければ治せる」
「了解。安心して戦えるわ」
イライアが指を構えると、雷の弓が出現する。
「シー、適当に合わせて」
「うん」
イライアが放った雷の矢は、ゲイザーの前で直角に折れて地面へ突き刺さって弾けた。
「ん? そういうやつ?」
言いながら何発か放つも、その全てが地面へ落ちた。
「私、行く。お父さん、眼鏡、持ってて」
オオカミの面をつけたシーリントルが消えたように素早く移動し、ゲイザーの背後へ回り込む。
黒いマーナガルムの爪が生えた腕でゲイザーを薙ごうとしたところで、動きが鈍る。
硬直は一瞬だったが、ゲイザーが手の平を向けると、反発する力が働いて、シーリントルは壁面へ吹き飛ばされた。
咄嗟に身体を反転させて壁へ着地したが、その衝撃で壁が崩れる。
あの小さな身体がどれだけの威力で吹き飛ばされたのか、よくわかる。
「シー、あいつの魔法、重さを加える魔法みたいね。周囲全部に発動してる」
「耐えられる」
「でも近づけなかったでしょ?」
「近くの方が、強い」
「魔法が? じゃあやっぱり近づけないじゃないの」
そう、ゲイザーの使う重力の魔法は、本体に近づけば近づくほど強くなる。
彼の表皮近くでは時間さえ止まると言われているほどだ。
しかし、それだけ強くても弱点がないわけではない。
魔力の消費は大きいし、座標を指定して魔法を使うため、その間、本体は動けない。
あの硬すぎる壁を超えることさえできれば、マーナガルムの牙も、雷神の矢も、奴には届く。
彼女たちより強い個体は縮小されたこの世界に存在しない。
センもそれを理解しているからこそ、重力の壁を破る方法を必死で考えていた。
無数に存在する記憶の中にヒントがなかったか。
意識のあったころのゲイザーと会った回数は少ない。
きっと十回もないだろう。
――まず、重力の魔法は、属性の分類で言えば土らしい。
物の重さというものは、土の魔力量によって決まる。
しかしそれだけではなく、ゲイザーの提唱する説では、物にはそれぞれ、正しい位置へと動く力があるのだと言う。
土の魔力量が多いものは必ず地面へ向かって落ちる。
それは土の魔力が土そのものへと還ろうとする力によって起こっている。
ゲイザーは、指定した座標の範囲内に入ったもの全てに土の魔力を付与する。
それを彼は『重力の魔法』と呼んでいた。
物には全て在るべき場所があり、そこへ還ろうとするものなのだと。
その法則に縛られないものが、太陽や月や空を覆う星なのだと。
魔力のもつ帰巣本能とでも呼ぶべき性質の、方向性と強度を捻じ曲げるのが彼の魔法。
それは物体の『正しい位置』をずらすことも含むものだ。
考えれば考えるほど、無敵の力だ。
シーリントルとイライアはよくあれを相手に戦って――――。
ふと、気がつく。
彼女たちの攻撃は確かに届いていないが、ゲイザーは防御に手一杯なのか、攻めの姿勢を見せていない。
あの巨大な腕部を振るうことを、未だ成しえていない。
それくらいに精一杯な彼のところへ、一石投じてみてはどうだろうか。
センは口角が上がるのを抑えられなかった。
幾度も叩いた分厚い壁に今、ヒビが入り始めている。
それに、子供がふたりも戦っているのに、今更死ぬのが怖いだなんて、格好悪くて笑える。
体調は万全とは言えないが、まだ足は動く。
倒れないよう、確実に一歩ずつ前へ進む。
イライアとシーリントルはこちらの動向に気がついているようだが、何も言わない、気にも留めない。
(そう、それでいい)
死にかけで無力な男がここにいるだけだ。
化け物同士の争いに首を突っ込むにはあまりに力不足。
だが、経験だけなら、誰よりもある。
ゲイザーの方へ手を伸ばす。
彼はほとんど反射的に、その腕へ向かって重力の魔法をかける。
範囲はもう把握した。
センは自身の左腕に、魔力を封じる魔女文字を書いていた。
つまり、この腕には土の魔力が全くない。
だから、彼の魔法は効果がない。
ローブの端を掴む。
ただそれだけのことだ。
しかし彼は、その腕を振り払わずにはいられない。
なぜなら、その手の平には、体中の火の魔力が込められていたのだ。
手と腕と肩で魔力の流れはぐちゃぐちゃだが、勝つにはこれしかない。
手を握ると同時に、閃光を伴う爆発的な発火が起こった。
高温の青い炎が、ゲイザーのローブを一瞬にして覆う。
代償として、センの左腕は跡形もなく吹き飛んだ。
しかしそれと同時に、ゲイザーの身体には、爪と矢が深々と突き刺さっていた。
イライアは、初めからセンが戦力になるとは思っていなかった。
彼はたくさんのことを知っているが、魔力量は並以下だし、筋力もそうあるとは思えない。
しかし、彼が不敵な笑みを浮かべてふらりと動き始めたところで、何かしようとしていることはわかった。
シーリントルにも通じたのか、彼の歩みが邪魔されないよう、ふたりで敵の注意をそらし続けた。
そして、重力の壁を抜けた彼が、謎の発火を起こして、ゲイザーを丸焼きにした。
本当に一瞬の出来事で、何が起こったのかわかったのは、ゲイザーの周囲に魔力の流れを感じなくなってからだ。
センは左腕を失っていた。
彼は腕と引き換えにゲイザーの魔法を破ったのだ。
理解する前に、身体が動いていた。
最速の雷がゲイザーの正面へ突き刺さる。
同時に、背後からシーリントルの黒い爪が貫通する。
これくらいでは効いていないことが、直感的にわかる。
雷の矢が突き刺さったのに、その魔力が身体へ広がらない。
つまり、これは普通の矢と同じくらいの怪我でしかない。
回復魔法を使えれば、すぐに治せる程度だ。
初めよりも異様に巨大化したゲイザーは不気味に躍動していた。
そして膨れてひび割れた指を曲げてパキパキと鳴らすと、戦う姿勢をとった。
両手を胸元まで上げ、体重を感じさせないかのように、軽く跳ね続けている。
この巨体が軽やかに動いていると、それだけで凄まじい威圧感がある。
「来るぞ!」
センの声に、イライアは何かを感じ、身を屈めた。
先程まで顔のあったところ、ゲイザーの拳が空を切る。
(速――――)
思考すら追いつかない。
シーリントルが彼の腕に噛みついた瞬間に、屈んだまま彼の腹部へ手の平を押し当てる。
掌から直接、高電圧電流を流す。
バチィ、と激しい炸裂音がして、ゲイザーの頭部から漏れた粘液が身体にかかる。
電気を当てたところだけが黒ずんでいるが、自由を奪うことはできていない。
「そんな!」
ゲイザーは腕部に食らいついたシーリントルを無理矢理剥がし、地面へ叩きつける。
普通なら筋肉が硬直してこんなに動けるはずがない。
「セン! アレは!?」
「俺の予測だが、過去にいた喧嘩屋の魂が宿っている! 名前はエイライ! 怪力と頑丈さが売りの豪傑だ!」
「弱点ないの!?」
「あるならとっくに言っている!」
「過去の人なんでしょう!? 死因は!?」
「戦いで死んだらしいが詳しいことはわからん! とにかく攻撃し続けろ!」
センは自身の治療で動けない。
シーリントルは、うまくかく乱しながら注意を引いている。
ここはイライアが何とかしなくてはならない。
今得た情報で最も重要なことは、彼の体が極端に雷の流れにくい体だということだ。
土の魔力が関係しているのかもしれないが、それを調べる手段を持たない。
(――いや、違う)
彼の姿を見れば分かる。
頑丈な皮膚がどうなっているか。
「シー! アイツの横っ腹に穴を空けて!」
シーリントルは頷きもせず、間髪入れずに、ゲイザーの腹部へ食らいついた。
「ごめん! あとでまた謝るから!」
イライアはシーリントルへ向けて雷の太い矢を放つ。
雷はシーリントルを通じて、ゲイザーの身体の内部へ流れ込む。
たとえ表皮には魔力を無効化する何かがあったとしても、魔法を用いる以上、身体の内側の魔力は止められない。
イライアは彼の血肉を直接焼くことにしたのだ。
焦げ臭い煙が辺りに立ち込める。
しばらく立ったまま固まっていたゲイザーは、やがて大きな音を立てて倒れ込んだ。