不味い精霊だ
生き物というものは、目や耳だけで全てを感じるわけではない。
世界を感じているのは、全身の全てだ。
見えるものと聞こえる音に惑わされているから、そう思ってしまうだけだ。
シーリントルは最初の鉄針を受けて、自分に届きうる刃がある、とは考えなかえなかった。
まず真っ先に、敵は確かにここに存在しているのだと確信を持った。
次に、いるのなら捕まえられるはずだ、と考えた。
普通の人間に魔力的要素で構成された精霊を掴むのは容易ではない。
ただ、シーリントルは普通ではない。
腕にはロアの魔力が十分に混ぜ込んであり、普通の生き物を掴むのと同じく、魔力的要素で構成された生き物にも、触れる。
人間は、誰しも無意識な偏りを持つ。
それは攻撃のタイミングであったり、潜伏先であったり、本人の勘による生理的な選択。
シーリントルは数度の襲来から、見えざる敵の癖を、なんとなく把握し始めていた。
敵は、シーリントルの死角に潜む癖がある。
それも素直に背後ではなく、少し斜め後ろ。
攻撃の時だけ、数歩移動する。
攻撃の間隔もランダムなように見えて、実は一定の法則がある。
具体的に説明することは難しいが、皮膚がピリつく瞬間がある。
それが、彼の攻撃の合図。
最初から回数を重ねて、今はほとんど確実にわかるようになっていた。
当たってもいい、怪我をしてもいい。
絶対に捕まえる。
殺気をこれだけ感じているのに、怖くなかった。
恐怖を失ったのはいつだっただろう。
極めて冷静に、攻撃のタイミングを捉えられた。
空を掴んだ手には、何の感触もなかった。
しかし、そこに『それ』があると仮定して、シーリントルは身体を回転させて投げ飛ばした。
凄まじい音と、砂埃が舞い上がる。
道路に入ったヒビが、その威力の高さを物語っていた。
「あっ、思いっきりやっちゃった! 大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、こちらの顔を掴もうとした手が、眼前を横切る。
「なめ、るな」
金色の仮面は衝撃でひび割れ、彼の顔が半分見えている。
彼の細目からは怒りの色が見て取れる。
あの仮面をつけて正気を保てていられるだけで凄いが、まだ心が折れていないことに、シーリントルは警戒心を強めた。
しかし、そんな考えとは裏腹に、シーリントルは精霊纏いを解いて、仮面をとる。
鋭敏な感覚なおかげでわかる。
彼は全身の打撲といくつかの骨と内臓にダメージがある。
立っているだけでやっとなはずだ。
「もう、やめてください」
「勝った気になるな」
「もうあなたが勝つことはないんですよ」
「僕はまだ生きている!」
「わかりました」
シーリントルはオオカミの仮面を付け直し、無造作に、彼へ近寄る。
間合いに入ると同時に、彼は怪我人とは思えないような速さで腕を振る。
その軌跡には、細い糸のようなものがきらめいていた。
――着火。
連続した爆発がその糸を辿り、シーリントルも巻き込まれる。
そして、黒煙の中から、シーリントルの喉をめがけて、彼の手に握ったナイフが迫る。
シーリントルは一切動いていない。
ただ、ナイフの刺さる所へ、土の防御膜を作った。
案の定、そこでナイフは弾き返される。
しかし、その瞬間にその触れた部分が爆発した。
ほとんど頭部の真下で起こった爆発は、凄まじい衝撃で、シーリントルも少しだけふらつく。
「まだだ!」
彼はもう一度、ナイフを振るう。
シーリントルはまた、動かない。
爆発を身体に受けつつも、その場を動かない。
彼は、がむしゃらに攻撃を続けた。
刃物でも爆破でも、シーリントルには、何の傷も負わせられていない。
彼に勝ち目はない。
最初から勝ち筋などなかったのだ。
ずっと隠れてシーリントルの注意を引き続ける以外なかった。
彼は勝ちに固執しすぎた。
欲張らなければ、今よりもマシな状況だったかもしれないのに。
彼のそういう判断に対し、シーリントルは何も感じてはいなかった。
ただ、どうして諦めないのだろう、と疑問は浮かんだ。
彼には決して越えられないとわかっている壁でも越えなければならない理由があるのだ。
しかし、それはあくまで越えられる可能性が少しでもある時でなくては意味がない。
どうして無意味なことを繰り返すのだ。
シーリントルには彼がわからなくなっていた。
――眼球を狙った刃も、弾く。
今のシーリントルは生物全体の弱点である眼球ですら、急所にはならない。
どうしたら諦めてくれるだろうか考えていると、突如、肩に鋭い痛みが走った。
彼の持っていた、よくわからない鉄の針だ。
しかし、こんなもので何を――。
「爆ぜろ!」
シーリントルの左腕が、肩口から吹き飛んだ。
痛みの前に、シーリントルの胸中は、真っ白な感情に満たされた。
「お母さん!」
最初に出た言葉はそれで、咄嗟に吹き飛ぶ腕へ手を伸ばす。
今度はそこを突かれる。
右腕に鋭い痛みが走り、同時に弾け飛ぶ。
シーリントルは数秒、あるいは数瞬、意識が飛んだ。
両腕を失い、優先すべき事項がわからず、思考が一時的な停止をした。
全身を透明で軽いクモの糸のような繊維が覆う。
もうそんなこと、気にしていられなかった。
防御もそこそこに、シーリントルはちぎれとんだ腕へ向かって飛んだ。
しかし、空中で、動きが止まる。
すでに足首には糸が絡まり、自由が効かない。
「終わりだ」
敵の針が、眼前へ迫る。
その瞬間に、シーリントルの意識は途切れた。
勝ちを確信していた。
ライトはこの針を脳へ突き刺し、爆散させればこの怪物を始末できると考えていた。
キン、と軽い金属音がして、針は弾かれ、ライトは慌てて離れて体勢を立て直す。
「なん、だ?」
そこにいたのは先程までの女児ではない。
黒い毛に覆われ、人間よりも獣に近い容姿――言うなればそれはオオカミだった。
いや、彼女の内に精霊がいることは知っていた。
それがこうして面に出て来たことが問題なのだ。
彼女の意識は完全に飲まれているのだろう。
ということは、生物としてのセオリーはもう通じないということである。
精霊退治をしたことはそう多くない。
精霊はその容姿から何をしてくるのか予測するのが難しい。
リスクを犯してまで相手するような存在ではない。
逃げられないこの状況で対峙したくない相手だ。
「お前の名は?」
時間を稼ぐため、相手の知能を測るため。
理由は様々だが、ひとまずライトは相手の力を見極める判断材料を得るため、話しかけた。
「マーナガルム。ブギーマン。我の呼び名は多い」
「精霊は呼び名で能力に縛りがつくんだろう? 本当の名は?」
「縛られている。名乗ることは許されていない」
「当ててやろうか? 『貪食の精霊』だろ?」
賭けだった。
以前に得ていた情報だが、それで何かが変わるのなら、変えた方がいい。
状況は依然不利。
どうせなら、もっとかき回してやる。
「それは名ではない。我の種別だ」
黒い毛並みの中、真っ赤な口が大きく開く。
「我はこの娘の身体を守る契約を交わしている。よって、貴様を始末する」
「守るって、もう腕二本なくなってるのにか?」
「無論。我は魔力にて構成される生物にて。物理的な消耗は意味を持たない」
黒い毛の塊が触手のように絡まりあい、腕の様相を為した。
「化け物め……」
「自分とは違うものを認められぬ人間の性よ。我ら精霊からしてみれば、貴様らも充分に化け物。――御託は終わりだ。これ以上はこの娘の精神がもたない」
言い終わると同時に、オオカミは跳ねた。
瞬きの間、としか言いようがない。
本当に一瞬で、彼は距離を詰めて、さらにライトへ食らいつこうと、大口を開けて迫っていた。
ライトは咄嗟にマントで身体を守る。
抗魔の力は精霊相手にも有効だ。
触れることもできない。
だが、忘れていた。
今の彼は精霊としての身体ではなく、物質的な肉体を持つ。
牙は刺さらなかったものの、凄まじい勢いの体当たりで、ライトは吹き飛ばされ、地面を二転三転とする。
「何なんだ、お前は!」
「精霊だ。それ以上のことはない」
こんなに流暢に喋る精霊などいるものか。
仮面を通して精霊纏いを行っているからこそわかる、彼の異質さ。
すでに本人格とも混ざり合い、記憶の共有まで行っているのだろう。
そんな話を聞いたことはないが、今の状況からそう判断するしかない。
「今日は良い日だ。世界の境界が曖昧になっているのを感じる。この世界の外殻である精霊世界と、ほど近い場所が、この近辺にある」
「精霊世界、だと?」
「そうだ。精霊の情報が保存されている不定形の四次元世界だ。人間が知覚することはない」
「そりゃあ、面白い。それに飲み込まれたら、全てどうでもよくなるんだろうな」
「しがらみ――縁は残る。それに、お前がそこへ到達することはない。たとえ、その偽りの仮面に精神を預けたとしても、お前自身は残らない」
「そうか。まあ、だったら、最後まで人間らしくいくとしましょうか」
ライトは糸を張り巡らせ、結界を張る。
奴は目で捉えられない速さで動く。
糸に触れた瞬間、爆破を起こして、相手の位置を特定し、鉄針と爆破の組み合わせで、あの頭部を吹き飛ばす。
そう決めて膝をつき、周囲に罠を張った瞬間、相手の姿が消えた。
高速で移動していて見えないのか、隠れたのか、ここからでは判断がつかない。
ライトは懐から『道標の精霊』を取り出す。
木製で魚の形をしたそれを糸で吊るし、相手のいる方向を探る。
糸の罠はブラフだ。
こちらに近づけさせないためのものだ。
そしてこちらには、向こうの位置が、手に取るようにわかる。
「そこだ!」
鉄針を飛ばした先で、黒い影が大きくのけ反る。
反応を確認する暇はない。
着火と同時に、目視をする。
鉄針は、彼に刺さってはいなかった。
不意打ちだったのにも関わらず、彼は針を咥え、着火の直前に、放り捨てていた。
「これがお前の全力か」
「ふざけるな!」
ライトはなりふり構わず突進した。
こうなったら自爆しかない。
直線的な行動に移ったところを見切られたか、彼が肩口に噛みつく。
――そんなの、知ったことか。
全身に魔力を巡らせ、爆破するよう仮面に命令を出す。
「……何?」
仮面からは、精霊の気配が消えていた。
「不味い精霊だ」
肩口から牙を抜いた彼は、ただひと言、そう呟いた。




