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隠れる必要がない

イライアを投げ飛ばしてすぐに、シーリントルは特異な匂いに鼻を向ける。

微かな血の匂いと殺気を感じた。


以前会ったことのあるリゲルやジュイチとも違う匂いだ。

この騒ぎに乗じて、知らない誰かがこの町へ忍び込んでいる。

それも、誰かの命をとることを目的に。


あらかじめ、邪魔が入るかもしれないとは聞いていた。

しかし、センからその詳細は教えてもらえていない。

その内容はかなり偶然の作用するものらしく、毎回違うらしい。

だから、余計な先入観はいれない方がいいという方針だった。


何にせよ、シーリントルに与えられた役目は、予定にないこと――邪魔者への対処だ。

何も起きなければイライアのフォローをするつもりだったが、気がついたからにはそちらに向かわねば。


空中にいる間、着地する前に、イライアが本を開いたのが見えた。

図書館から借りた魔導書による転移は成功したのだろう。

ここまでは予定通り、イライアならきっと上手くやるはずだ。


黒焦げになった民衆のところへ降りると、水分は完全に残っていなかったようで、土煙と共に砕け散った。

生き物――とりわけ人間の身体の燃えた匂いは臭くて、心底嫌になる。

嗅覚による追跡の障害になるほどではないが、気分の上では邪魔だ。


さっきの匂いは覚えている。

気配自体はすぐに裏通りへ消えていったが、たしかにそこにいた。


家屋の上に登って、さらに探る。

人気のない方へ逃げていっているようだ。


(誘ってるのかな? どっちでもいいけど……)


相手の思惑が何であれ、やることは変わらない。

シーリントルは屋根伝いに追いかける。


近づくにしたがい、血の匂いは濃くなっていく。

きっと何人も殺してる人なのだ。


(殺人犯、なのかな)


そんなことを考えながら屋根を走っていると、不意に何か、クモの巣のような重みのないものを右腕に感じて、立ち止まった。

ピンと張り詰めた透明な糸に触れていたのを察知すると同時に跳ね退く。

直後、触れていた部分が爆発した。


忘れたくても忘れられない既視感のある煙と魔力の匂い。

ベルツェーリウスで散々いやがらせを受けた、あの金色の仮面が来ている。


追うべきか、と一瞬悩み、足を止める。

周辺から仮面の匂いはしなかった。


これは事前に仕掛けられていた罠だ。

向こうはシーリントルがここにいることを知っていたのかもしれない。

爆発の危険性と仮面のことを知っているのは、シーリントルだけだからだ。

このまま追い続ければ、死なないにしても、危険な目には会うだろう。


それから、もうひとつ。

向こうから離れていっているのだから、無理に追う必要はないのかもしれないということだ。


近づいて来ればこちらで察知できるし、今優先すべきは扉の方ではないだろうか。

それに、雷の魔法を受けて、倒れていたロアも気になる。


悩みつつ振り返ったその瞬間、爆発が起こった。

何かに触れたわけではない。

何もないはずの空中で、突然爆発が起こったのだ。


爆破の直前、一瞬だけ空気を吸い込む音を聞いた時、咄嗟にシーリントルは伏せた。

だから、爆発には当たっていない。

しかし、混乱していた。


明らかに人為的なタイミングでの爆発だったのに、一切、敵の匂いがしなかった。

そんなこと、今までだって一度もない。


生き物の感情は匂いのするものだ。

あの狂死郎ですら、戦いの匂い、攻撃の匂いがあった。


今はそれがない。

感覚を尖らせていくと、まるで実体のないものから見られているような視線を感じる。


(――何かいる)


目、耳、鼻、触覚、魔力的感知能力。

全ての感覚から土石流のように流れ込んでくる情報の波の中から、ようやく何かがいることを導き出せたのに、それが薄すぎて、輪郭を掴めない。


また、爆発が起き、シーリントルは回避行動をとる。

分からない時は離れた方がいい。


そう思って三棟ほど一気に跳躍して靴の先をつけた瞬間、鉄の匂いがして、身体全体をつけるようにして伏せる。


(また!? さっきまで何もいなかったのに!)


何かが上をかすめたのを感じて、跳ね起き、“敵”の感覚がした方へ回転しながら足の先端に重みを集めて、蹴る。


――ギィン!

シーリントルの足と金属がぶつかり合う鈍い音がした。

一瞬の力の均衡があり、シーリントルは押し負けるのを感じて、自分から跳んで、衝撃を殺す。


「今度は、隠れていないんだね」


シーリントルの目線の先には、深緑色のマントを纏った男が、一本の鉄棒を手に、堂々と立っていた。


「隠れる必要がない」

「……へー、そう」


もうひとりは匂いも見せないのに。


『心理誘導よ。気をつけて』

(わかってるよ、お母さん)


こちらに意識を集中させて、あの爆発で仕留めようとしている。


『回避の先には罠がある』

(叔父さんもありがとう)


いつからだろう。

シーリントルはシーリントルだけじゃない。

いつだって三人で物事を考えている。

だから、シーリントルは身体を動かすことだけに集中できる。


この人を倒すことだけに集中してはいけない。

先に片づけなければならないのは、金色の仮面を使っている見えない敵の方だ。


目の前にいる彼も、さっきまではいなかった。

何か、そういう魔法があるのだ。


それを見破るまで、戦うわけにはいかない。


シーリントルがまごついていると、知っている匂いが、香った。


その直後だ。

目の前の男が消え、白銀のきらめきがそこを撫でた。


「――ん? 完全に捉えたと思ったんだけどねえ」


ここにいるはずのない、狂死郎がそこに立っていた。

魔力で構成されている正装を纏い、異質な雰囲気を隠していない。


「あ、あれ? どうして?」

「あんたの父親に頼まれたのさ。まあ、あたしとしちゃあ、敵が五星団でなければ契約違反にはならない。こっちの妙な奴はあたしが相手をするよ。あんたはそっちの妙な奴を頼む」


やっぱりふたりいるのだ。

狂死郎にはもうひとりも見えているのだろうか。


「ありがとう」

「礼は終わってからでいい。さて、まずはこの手品をどうにかしないことにはね。不可視の魔法はそんなに複雑なものじゃない。問題は何かもうひとつ、気がつきにくくする魔法もかけられてる」

「気がつきにくくする魔法?」

「そうさね。これだけ騒いでるのに、町の連中がパニックになっていないだろう?」


言われてみれば、本来なら逃げ出す人で大変な騒ぎになっているはずなのに、悲鳴のひとつも聞こえてこない。


「目も耳も鼻も利かないのはそのせいさ。ま、あたしなら――」


何もない空間へ刀を振ると、金属音が響く。

そのおかげで、そこに敵が立っていたことが初めてわかる。


「それでもいけるが、あんたはまだ無理だろ。気がつきにくくする魔法は、一度解いちまえば効力を失う。つってもあたしは魔法の専門じゃない。やり方はわからん。頑張って解きな。――そこのお前はこっちに来い。もっと広いところでやろう。いや、あたしはこのままやっても構わんが、もうひとりが巻き添えを食うのは本意じゃないだろ?」


そう言って、狂死郎は屋根を降りる。

それからシーリントルはしばらく身構えていたが、辺りの静けさが変わることはなく、本当にいなくなったのだと分かった。


仮面を追えば、それをつけている者にも追いつけるだろう。

だが、その前には無数の罠が張り巡らされている。


『敵の武器は糸だ。物と物の間でなければ問題ない』


ラッセル叔父さんの言う通りだ。

糸である以上、繋ぐ場所がいる。

さっきの罠があった場所も、よく見ると煙突と煙突の間だ。


常に高い場所を移動し続ければ安全だろう。

細心の注意を払いながら、王都で一番高い場所を目指す。


(あの鐘のところかな)


鐘楼の上から見下ろせば、何か見えるかもしれない。

周囲の状況を見ながら、とにかく高いところから高いところへ跳び続ける。


すると、また突然目の前で爆発が起こり、シーリントルは衝撃で吹き飛ばされ、地面へ叩きつけられた。

身体の頑丈さ故に痛みはないが、気分は最悪だった。


「……はあ」


声に出してため息をつく。

落ちた先は路地裏で、周囲には木箱や樽、とにかく物が溢れている。


『行動が読まれていたのね』 


母が悔しそうに言う。

しかし少し考えればわかることだった。

進める方向を、向こうだけが決められる。


シーリントルの戦闘経験は浅い。

相手の方がいくつも上手だ。

こういう時、どうすればいい。


『自分がやりたいと思ったことを堪えろ』


そうだ。

誘導はこちらの感情、衝動がありきのはずだ。

罠を張るというのなら、なおさらこちらの行動を『信用』しなくてはならない。


――『信用』を裏切る。

直感的に思ったことと、逆のことをやるのだ。


「ごめんなさい」


シーリントルは誰に聞かせるでもなく、小さく呟いたあと、自分の隣にあった家屋の壁を蹴り飛ばし、大穴を開けた。


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