何も質問するな
空が、黒く染まっていた。
染まっていたと感じたのは、朝までは確かに普通の青空だったからだ。
「何だ、この、空……」
窓の外を眺めるガルムは呟く。
妙な胸騒ぎが止まらない。
見ているうちにも、空はどんどん暗さを増していく。
紺色から黒へ。
星はなく、月もなく、漆黒の闇であるのに、周囲の物ははっきりと見えている。
いや、違う。
見えている景色も、全てが変わっている。
まず、微かに揺らめいている。
そして、まるで油膜のように、細い色の筋が様々な模様を作り出し、動いている。
「マナ! シーリントル!」
振り返ると、部屋の中も、外と同じく灰色で虹色の世界が広がっている。
扉に手をかけても、ドアノブが回らない。
まるでそれがその機能を失ったかのように、硬く、動く気配すらない。
全てがそうだった。
何もかもが動かない。
『物』だけが、動きを止めている。
初めは夢を見ているのかと思った。
そう思わざるを得ないほどに、現実感がない。
部屋の扉がどうやっても開かないことを確認すると、開いたままの窓から、外へ飛び降りる。
一刻も早くマナとシーリントルの無事を確認したかった。
だが、すぐに気がつく。
外からでは玄関を開けることができない。
どうやっても開かない扉と割れない窓に四苦八苦しつつ、まごついていると、不意に、背後から声をかけられた。
「お前は無事だったか」
「ロア……!」
昔から変わらない姿の彼女が、そこにいた。
相変わらず、小さくても大きく見える少女だ。
「いったい、何が起こって……」
「動くな。順序がある」
ロアはガルムの足元につま先で妙な模様――文字をひとつだけ書く。
すると、それを中心に、五メートルほどだけ、天と地に色が戻った。
そこで初めて、今まで自分が呼吸をしていなかったことに気がつき、突然戻った空気を吸ってせき込んだ。
「まだ出るなよ」
「あ、ああ」
ロアも円の中に入り、深々と呼吸をする。
「まず、最初に。何も質問をするな。これは絶対だ。知ろうとする行為に、奴らは敏感だ」
聞くな、と言われるとガルムが口にできることは何もない。
「この町で、お前以外に動ける人間はいない。いや、お前も人間ではないが、ともかく、今は動植物の全てが止まっている。マナやシーリントルもな。死んではいないが、今は助けられん。時間を奪われて、完全に停止している。動かすことも叶わん――」
その時、突然、遠くの森で破裂音が聞こえた。
木々の弾け飛ぶ音なのだろうか、ここからでは何が起こっているのかわからない。
「……ああ、もう入ってきている。手短に話そう。この現象は月の扉という門が開かれたことによって起こったものだ。なぜ開いたのかはわからん。開いた者は閉じることに失敗したのだろう。開いた瞬間に大量の『外』が流れ込んできて、その対処を誤ったに違いない。――月の扉と外についてはお前に説明しない。時間があまりなくてな。だが、お前がやらなければならないことはそう多くない。お前が体に宿している精霊は『貪食の精霊』と言う。これも、今は説明しない。調べるのは後でいくらでもできるからな」
時間があるのか、ないのか、どっちなのだろう。
「お前はその精霊の力によって、この空間でも動くことができている。本来持っている力と、その後得た人間の命、そして内に潜むことで貯蓄できたお前から流れ込んだ力。それら全てを消費して、お前の体を動かしている。しばらくすれば動けなくなるだろう。その間に、お前は決断をしなければならない。人間を完全に辞めるか、このままこの世界と共に滅びるか。お前が望むのならば、儂はお前に『永遠』を与える。不可能だと思うなら、このまま滅びてもいい」
言っている意味が理解できず、ガルムは眉をひそめる。
「お前に時間を遡る能力を授ける。正確には、お前を『そういう精霊』に変化させる。月の扉が開いている今ならそういうことが可能なのだ。時間を自在に動かせるわけではないから勘違いはするなよ。何かひとつスイッチを作り、その条件下でならある程度時間が逆行するようにしよう。それをするということは、つまり、お前はこの世界で同じ時間を何度も繰り返すことになる。まあ、それも必要ないのなら次の一回でなんとかしてしまってもいいのだが、お前はまず経験しなければならない。一回では済まないだろうな」
「待てよ。その話が本当だとして、俺がやらないといけない理由はないだろ。ロアがやった方が確実だ」
「儂にできればやっている。しかし、儂の体はすでに人間でも精霊でもないものになっている。これ以上存在を変化させると、実在性が消える可能性がないとはいえない。それに、お前は儂を知っているようだからな。次に儂と接触すればよりスムーズに事を進められるだろう。さて、どうする。逆行の条件と終着時間の指定はお前が決めていい」
「もう俺がやる前提じゃないか……。だけど、いいさ、やろう。俺もこんな意味不明な死に方は御免だ。それしかないと言うなら、やろうじゃないか。そうだな、戻る時間は、精霊と出会ったところだ。鉱山の地下で、檻を掘り当てたところ。あそこがいい。条件は……」
条件、と少し考える。
特定のポーズをとったら、特定の呪文を口にしたら。
そういう能動的なものは、便利ではあるが、麻痺や拘束に対して無力だ。
彼女がガルムの存在自体を変化させると言ったのは、それも含めてだろう。
自分の意識で発動するものであるなら、そういう言い方はしないだろうと思った。
「……死んだ時がいい。事故でも病気でも、何でもいい。心臓が止まった時だ。人はいずれ死ぬ。どうなっても発動できる条件じゃないと、戻るのに失敗なんてしたら目も当てられないからな」
ガルムの返事を聞いたロアが、にやりと笑う。
彼女は最初からそれが最適解だと分かっていながら、わざとガルムに考えさせたのだろう。
「よくわかっている。それでいい。改変はすぐに済む。苦痛はない。済んだらその後は、できるだけ長くこの世界を見て回れ。扉が開くとどうなるか、口頭で聞くよりも実際に見た方がいい。そして運よく死んだら、お前の本当の戦いが始まる。マナとシーリントルを救う長い戦いだ。心を折るなよ。折れても終われないのだからな」
ロアが笑みを浮かべながら膝をつき、両手を合わせて強く握る。
祈りの姿をとった彼女の姿が、揺らめく。
やがて、端から粒子状になっていく。
「ま、待て。お前は、ロアはどうなるんだ!」
「儂は消える。これはそういうものだ。まあ、次の儂と仲良くやれ。どのみち、お前の逆行に付き添うことはできんし、この手遅れの世界でできることはほとんどない。さて、そろそろ来るぞ。シーリントルたちを救うため、お前はアレらを恐れ、この世界に迎え入れない努力をしなければならん」
森の中から、木々をなぎ倒しながら、大きなカエルのような不気味な生物が現れる。
肌は白く、ぶよぶよとしていて、顔のあるはずの部分にはピンク色の短い触手が何本も生えている。
「な、なんだよ、こいつ……」
「ムーンビーストだ。見つからないように、ほら、走れ――」
その言葉を最後に、彼女はいなくなっていた。
目の前に現れた化け物は、まだこちらには気がついていないようだった。
ガルムは力の限り駆け出した。
やつはなぜか追って来ない。
まるでこちらが見えていないようだった。
(ロアが何かしたのか?)
疑問に対する答えを得る手段はない。
ロアは世界を見て回れと言った。
それにはガルムも同意だ。
今はひとつでも多くの情報を集めなくてはならない。
――次に活かすために。
そういう意識の切り替えが可能な人間がそう多くないと知ったのは、かなりあとになってからだった。
自分が稀有な精神性、それも諦めないということに関して、異常ともいえる執着心をもっていることには、しばらく気がつかなかった。
それから、ガルムはしばらく歩き続けた。
不思議なことに、疲労感や空腹感、眠気すらも感じなかった。
時間が止まっているということは、そういうことなのだろう。
相変わらず、景色は灰色に虹色の色彩を重ねたような異様な色合いをしている。
しかしもう慣れたといえば、慣れた。
むしろ今、色づいた景色が目の前に現れたら警戒するだろう。
ガルムの中にいる精霊のおかげか、かなり離れた位置にいる何らかの生き物の気配を感じとることができた。
そしてそれが、捕食の対象でないこともわかる。
きっとそれこそが、外からやってきた、異形の生物なのだろうともわかった。
鉢合わせしないにこしたことはない、とそれらを避けながら、森や山を歩き続けた。
常に暗闇に覆われた空が、やがて妙な色合いを見せたのは、王都に近づいてからだった。
王都の上空には、無数の眼玉で構成された、不定形の物体が浮かんでいた。
遠すぎて大きさもわからない。
それはこちらを見てはいなかった。
それとも、見ていたが、無視したのだろうか。
ここが原因の地である気がしてきた。
憎悪とは少し違うが、それに近い匂いに満ちている。
王都の人間たちも、他の町の人間たちと同じく止まっていた。
黒い気配のする方へ向かうと、王宮へとたどり着いた。
王宮はより一層存在が揺らいでいた。
(存在の揺らぎって、何だ……?)
明らかに知らないことを知っている自分に戸惑い、恐怖する。
ロアからされたことと関係があるのだろうが、自分自身に何が起こっているのか考えることも、今はできない。
ひとつでも多くのことを記憶しなければならない。
それが最優先だ。
色々と見て回っているうちに、ひとつのことに気がついた。
この世界を今闊歩している化け物たちは、ガルムのことを気に掛けていない。
いや、もしかすると見えていないのかもしれない。
それくらいに、無視されていた。
ここまでの観察で立てた推察だが、この灰色で虹色の膜のかかった世界こそが、彼らの理の世界。
そして、以前の世界の姿のまま動きまわっているガルムは、彼らのルールでは識別できない存在。
そう結論づけて、ガルムは大胆に行動をすることにした。
まず、おそらく今回の災害の中心であると思われる王宮へ足を踏み入れる。
入ってすぐの大広間には、中央にぽつんと立派な椅子があった。
そこにはおそらく人だったであろうものの肉塊が蠢いていた。
地下へ続く階段を降りると、時間が停止していて幸運だったと思えるような光景が広がっていた。
いくつもの、いくつもの人が、涙、嘔吐、糞尿を撒き散らして倒れていた。
それも、十人や二十人ではきかない数――数えることすら、もはやしたくない。
ここで一体何が行われていたのか、考えたくないが、考えなければならない。
しかし、思考するには知識が足りない。
だから、今はただ記憶のみに集中する。
目に入ったものを全て覚える。
たくさんの遺体、そしてその中に、微かにちらばる宝石のような欠片。
ガルムはそれを見たことがなかったが『魔力結晶』という単語が脳裏に浮かぶ。
知らないことを知っているのは、とてつもなく妙で、気持ちの悪いものだ。
魔力結晶は使用されたからか、粉々に砕け散っているようだ。
その詳細に関しては『次』で調べることにしよう。
そしてあとは、ロアが言っていた『月の扉』が気になる。
しかし、ここに扉らしきものはなかった。
外へ出て真っ暗な空を見上げる。
空には月がのぼっていた。
そこに違和感を覚えたのは、その月がどうにも大きく、そして停止していることだった。
そして、その月が、町に入った時にはなかったような気がする。
この王宮に入り、中の様子を見て、それから外を見た。
その手順でしか見えなかった満月。
もしかすると、あれが『月の扉』なのかもしれない。
ここからでは決して手は届かない。
何かアクセスする方法があるのだろう。
アレについては次の機会にロアに聞くことにして、今回得られる情報はこれくらいだろうか、とガルムは王都の中を歩きながらそう考える。
さて、とこれからのことを考える。
死ぬことでガルムは過去に戻ることができるはずだ。
言うのは簡単だが、どうやって死んだものか。
自害などやったことがない。
――当然だが。
それに、どのようにして過去に戻るのか、何も知らない。
戻った先の自分は、果たして自分なのか。
それとも記憶だけを飛ばすのか。
後者であるなら少しばかり気が楽だ。
何度だって次の自分に託すことができる。
連続した自分でなければ、気が狂うこともないと言い切れる。
拾ったナイフを首筋に当てる。
こんなことで人が死ぬのか、それすらわからない。
もしかしたら、すごく苦しいのではないだろうか。
ただ首筋にナイフを当てて引く。
そんな簡単な動作が、ひどく重い。
――これも、ひとつの学びだ。
ここまで状況が進行すると、自分を殺してくれる存在がいないため、自害しなくてはならない。
ガルムは目を閉じ、首をナイフで引っ掻く。
鋭い痛みと熱が、ガルムの首筋に走る。
即死できなかった。
もう一度。
震える手で、次はもっと深く、ナイフを刺して、引き裂く。
そしてやっと、視界が暗転し、ガルムは倒れ込む。
それが、永遠とも言える、長い戦いの幕開けだった。




